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「……あ、くえり、あす」


 ようやく出た言葉はたどたどしく、覚えたての幼児のようだった。固まっていた体から力が抜ける。すとん、と地面に落ちて尻餅をついたが、痛みはそれほど気にならなかった。否、気にしてなどいられなかった。
 だって、本当に来てしまった。できない。あり得ない。先程まではそう思っていたことを、たった一つの結果で覆されたのだ。

 周りを囲う水が弾けるようにして散っていく。光に照らされた雫は、彼女をより美しく魅せるための宝石みたいで。夕焼けに溶け込んでしまいそうだ、と思う。彼女自身も、この状況も。あまりに綺麗で現実離れしているから、ただ息を呑み、静かに見入ることしかできなかった。それはもう、重力に逆らわず自然と落ちてきた水滴を厭わないくらいには。
 まるで、絵画のように最高の時を切り抜いたその一瞬を、なんだか長い間見つめていた気がした。

 刹那、彼女の長い睫毛が揺れ、瞼が開く。その奥の一対の青がこちらを捉え、すぐに不機嫌そうに歪められた。眉間には深い皺が刻まれている。それは、あの時と、母の部屋で相対した時と似た表情で。
 今まで感じていた儚さは、ものすごい勢いで遥か彼方へと飛んで行った。


「テンめぇ……こんな場所から呼び出しやがってなんのつもりだ。あァ? 私は金魚じゃねえんだよ」
「しゃべった……」
「は??」


 ものすごく低い声だった。纏うオーラが真っ黒で、不機嫌さがひしひしと伝わってくる。表情は般若の如く、おおよそ小さな子供に見せるべきではない顔で。おまけに、中指まで立てられてしまった。完全に子守りには向かないタイプである。
 私以外の子供だったら、まず間違いなく泣いていることだろう。


「……用もないのに呼び出したのか? あ?? 舐めてんじゃねーぞ、ガキが!!」
「ひえっ」


 前言撤回。私も泣いた。


♦︎


「う、う〜ん……ごめんなさい……」


 がたん、と大きく体が揺れた衝撃で意識が薄らと覚醒した。重たい瞼を押し上げて、ぼやけた視界のままに辺りを見回す。
 あれ、アクエリアスがいない。というか、どう見てもここは家ではない。どうしてこんなところにいるのだろうか。自分が座っている硬い木の座席。隣にある窓からは次々と景色が流れていく。ああ、ここは列車か。そう思い当たると同時に、先程のやりとりは夢であったと納得がいった。

 それにしても随分懐かしい夢を見た。あれは確か、アクエリアスを初めて呼び出した瞬間のことだったはず。ものすごく恐ろしかったせいか、どうやら記憶に深く刻まれているらしかった。自分のことながら同情してしまう。あれは完全に悪夢である。本人に知られたら、もれなく右ストレートが飛んできそうだから口が裂けても言えないけれども。


「次は──駅です〜」
「って、あれ!? 乗り過ごしてるんだけど……!?」


 ハルジオンに行きたかったのになあ!?
 そう思いながら、がたりと勢いよく立ち上がるものの、すでに過ぎてしまった駅に列車が引き返してくれるはずもなく。やってしまった、と肩を落とす。アクエリアスに鼻で笑われている気さえする。つい深いため息がこぼれたが、しかし今更後悔しても仕方がないので、次の駅で一度降りて乗り換えようと出入り口に向かった。

 そうして何故か。本当に意味がわからないのだけれど、何故か扉の近くで倒れている人を発見した。え、二日酔いか何かで? 大丈夫です??


「あ、あの〜? 大丈夫ですか……? 乗員呼びます?」
「う、うぷ……」


 あ、ガチの酔いだな。珍しい桜色の髪の青年がうつ伏せになっているそばにしゃがみ込み様子を窺うと、口元に手を当てて今にも吐きそうなほど顔を真っ青にしていた。これは可哀想だ。二日酔いか、はたまたただの乗り物酔いなのか。それはこの際どちらでもいいけれど、本当にぐるぐると目を回す人っているんだなあ……。
 まるで渦を描いたような両目に、さすがに放っておくことはできなくて。こんな不安定な通路よりかは座席の方がまだマシだろうと、なんとか近くの席まで運ぶ。運良く座席が空いていてよかった。先程まで座っていた場所では距離があり過ぎて、青年を運んで移動するのはきっと難しかったから。

 彼を窓側に座らせて、自分は正面に座る。……突っ込んでいいのかわからないが、この人すごい格好してるな。上半身が羽織りだけって、ほぼ半裸じゃないか。
 いや、それよりどこかで見たことあるような……?


「うぅ、イグニール……」
「え? いぐ……? なんて??」
「……」


 返事がない。ただの屍のようだ。実際、本当に屍のように動かなくなってしまった。僅かに開いた口元から魂がふよふよと出ているようにも見える。やっぱり、ちょっと可哀想だ。
 少し考えて、それから彼の隣の席へと移動する。ごめんね、と小さく呟いて肩を優しく引けば、彼の体はいとも容易くこちらに傾いた。ぽすっと太ももに重みが加わる。所謂、膝枕というやつである。あまりにも具合が悪そうだから仕方なく。それ以外の感情は特になかった。けれども、彼の眉間に寄っていた皺が少しだけ薄くなったので、どうやら正解だったらしい。

 しばらくして、ようやく一つ先の駅に到着した。列車を乗り換えて引き返せば、当初の目的であるハルジオンに着くはずだ。そういえば、この青年はどうしようか。目的地はどこなのだろう。一緒に降りるわけにもいかないし、だからと言ってここに放置していくのも気が引ける。
 そう思って問いかけようとした時だった。今にも死んでしまいそうなほどに弱っていた彼が、がばりと勢いよく飛び起きたのは。一体どこにそんな力が残っていたというのだろう。列車が停止した瞬間に意識を取り戻すなんて。


「着いたか!? ハルジオン!」
「復活はや……」
「ん? 誰だおまえ」
「えっと、うん……通りすがりの者です。それより、ここは一つ先の駅なのでハルジオンではないですよ」
「はあ? どういうことだ?」


 いや、そのままの意味以外に何があるんだよ。そう思いながらも、“ハルジオンに行きたいなら一度降りて別の列車で戻るしかない”という旨を伝えると、彼は理解したのかさあっと再び顔を青くさせた。「そういや、ハッピーに置いてかれたんだった……」何気なく彼が呟いた単語を拾い、首を傾げる。

 “ハッピー”?
 これまた、どこかで聞いた覚えがあるような気がする。何だったかなあ……。頭を捻っていると、発車を知らせる乗員の声が響いてきて、慌てて青年の腕を掴んで駆け降りた。危ない、さらにハルジオンが遠退くところだった。

 それから、たまたま目的地が同じだった彼も引き連れて別の列車に乗り込もうとしたら、なんと断固拒否の姿勢を見せ、挙げ句の果てには「走って行く」とか言い出したので、思わず「あほか」と突っ込んでしまった。隣町まで何キロあると思ってるんだ。余程自分の足に自信があるのか、はたまたただの無鉄砲か。たぶん後者だ。
 そうして、渋々、本当に渋々乗り込んだ彼は列車が動いた瞬間にダウンして、また膝枕をする羽目になったのだった。


「よっしゃあ! 今度こそ着いた!」
「よかったですね。では、私はこれで」
「おう、サンキューな」


 列車が止まってからは再び恐ろしいほどの復活の速さを遂げた彼は、出入り口を抜けて解放されたと言わんばかりの輝かしい笑顔を浮かべていた。背を向けて少ししてから「ナツー!!」「ハッピー!」と呼び合う声が聞こえてきて、なんとなく歩みを止めて振り返る。と、羽の生えた摩訶不思議な猫が青年に飛びつくところだった。
 激しい既視感に、あ、と自然と声がもれる。どこかで見たとか聞いたとか、そんなレベルではなかった。だってこの人達は……。


「思いっきり主人公じゃん……」


 それは同時に、昔からずっと懸念していた最悪の予想──“ヒロイン成り代わり”説がとうとう確定してしまった瞬間であった。


♦︎


「ね、ナツ。今の女の子は?」
「ああ、なんか助けてくれたいい奴」
「へえ〜、酔ったナツを助けるなんて親切すぎるね」
冒険の始まり