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 途中で駅を乗り過ごすという少々、いやかなり面倒な失態をしてから数十分。
 やっとの思いで辿り着いたハルジオンの街は漁業が盛んだと聞いただけあり、海が近く時折潮の匂いが優しく薫ってくる。不意の風に髪が攫われるのを視界に捉えながら、そっと空を見上げた。広大なそこは真っ青で、雲ひとつとなくて。街の喧騒もどこか心地良い。あの窮屈な家とは大違いだと、伸びやかな解放感に目を細めた。

 すうっと新鮮な空気を吸って、よし! と両頬を叩く。実は、この街に来たのはただの観光ではないのだ。もちろん、それもあるのだけれど、一番の理由は別にあって。それも自分にとってはとても大事な用なので、どうか目的を達成できますように、と祈り気合を入れる。
 そうして、道行く人々に場所を聞きながら、この街に来た目的である魔法屋に辿り着いた。

 木造の建物に、少し古い印象の看板を掲げたそのお店。しかし、店内の様子はそれほど古くはなくて、むしろ小綺麗にされていた。占い師が使うようなカードや、透き通った水晶。カラフルな小物に、やたら作り込まれたびっくり箱。それから誰に需要があるのか、どこかの変身少女のようなフリフリの洋服まで。
 前の世界の雑貨屋と似ているけれど、決定的に違うのは、この中のどれもが魔法の力を宿しているということだった。


「いらっしゃい、お嬢ちゃん」
「こんにちは。あの、この街にある魔法屋が一軒だけだと聞いたのですが、こちらのお店でしょうか?」
「ええ、元々魔法より漁業が盛んな街ですからね。街の者も魔法を使えるのは一割もいませんで、この店もほぼ旅の魔導士専門ですわ」
「そうなんですね。えっと、じゃあ、もしかしてゲートの鍵も扱ってたり……?」
「門……? あるにはあるけど、こりゃまた珍しいもの探してるね」


 ぱちり、と瞬いた店主がそこと示すように一つのショーケースを指差す。
 小耳に挟んだ程度だったが、やっぱり探し物がここにあるのかもしれない。ぱあっとわかりやすく顔を輝かせた私に「強力なやつはないよ?」と彼が念を押してくる。しかし、そんなことは大した問題ではないのだ。大丈夫だと頷きを返しつつ、じいっとケースを見つめること数秒。銀色のみで揃えられた数本の鍵の中に、小人のようなマークが描かれたそれを見つけた。


「あった……! 白い小犬ホワイトドギー!」
「お嬢ちゃんそんなの探してたの? その中でも一番弱いけど……」
「強さは関係ありませんよ。ずっと探してたんです」
「へえ、物好きだね。門の鍵って特定の人にしか売れないから需要がないし、お嬢ちゃん可愛いから安くしてもいいよ」


 続けられた言葉に、はっとして店主を振り返る。いや、さすがにそれは申し訳ない。「二万Jのところを一万五千でどう? どうせ売れないから買ってくれると助かるんだけど……」「お願いします」おっと、簡単に気持ちが揺らいでしまった。でも、仕方ないだろう。これほど都合の良い甘い台詞を囁かれて、なお首を横に振るなどという強固な意思は持ち合わせていないのだ。
 何よりも、決まった仕事をしていないせいでお金にあまり余裕がない。節約できるところはしたいし、貯金もしておかなくては後で痛い目を見るのは自分である。そういうわけで、ご厚意は丁重に受け取らせていただき、深く腰を折ったのだった。


「気前の良い店主さんでよかったなあ。これで宿屋の足しになる……」


 本当に助かった。家に帰らずに色んな街で仕事を探しつつ、宿屋を転々とする日々では当然お金は貯まりづらくて。毎日毎日、ぎりぎりを生き抜いているような感覚だ。いい加減ちゃんとした仕事について、決まった場所に身を置いた方が懸命なのかもしれない。
 しかし、どこかの住居を借りるにしても、結局お金が必要だ。住みやすく、かつ家賃も手頃な夢のような場所でもあればいいのだけれど。


「(そう易々と見つかるものじゃないか……)」


 ぼうっと並ぶ家々を眺めていると、ふと下の路地から騒がしい声が聞こえてきた。
 特に何も考えずに引かれるがまま、なんとなく橋の上から覗いてみる。そこには一人の男性を囲む女性達の姿があった。わいわい、がやがや。まるで芸能人にでも会ったかのような反応から察するに、この辺りでは有名な人物なのかもしれなかった。

 まあ、私は全く知らないのだが。
 少しも興味が湧かなくて、そそくさと踵を返そうとしたその時だった。

 不意に、男性と目が合ってしまって。同時に「あ……」と小さく声がもれる。あの桜色の髪の青年を思い出した時と同じ感覚。溢れる既視感に、目の前の人物が一体誰であるのか予想がついた。
 確か、アニメの第一話でヒロインに“えげつない”と称されていたその人だ。女性の心を惑わす洗脳のような魔法を使っていた覚えがある。

 正体に気づいた瞬間に悪寒がした。長居は得策ではないと本能が叫ぶ。だからこそ、咄嗟にそこから離れようとしたのに、心とは裏腹に何故だか足は言うことを聞いてくれなくて。まさか、この状況でときめきなんて甘い衝動が起こるはずもない。おそらくは魔法の力とは何の関係もない単純な恐怖によるものだった。目の前の得体の知れない人物に対する不安と不審。嫌な汗が背中を伝う。
 一刻も早く解放されたくて、なんとか足に力を込めた刹那。「イグニール!!」と、どこかで聞いたことのある声と共に、これまた見覚えのある青年が人混みに割って入ってきた。

 あの子はさっきの……というか主人公。
 そう理解した瞬間、先程までの男性の視線が外されていることにも気がついて、ようやく感覚が戻ってきた。タイミングよく現れてくれた主人公に胸の内で密かに感謝しながら、そっとその場を後にする。触らぬ神に祟りなし、だ。

 後ろで何やら揉めているような声が聞こえてきたけれど、もう振り返ろうとも思わなかった。巻き込まれたくない。その一心から我関せずを決め込んでいたせいで、男性が再びこちらを向いたことになど、少しも気づけなかった。


♦︎


 街の小さなカフェでサンドウィッチを頬張る。外のテラス席であるこの場所は昼時ということもあり、そこそこ混み合ってはいるけれど、気温も過ごしやすく、何より海が見えて居心地がとても良い。


「うわ、大災害……」


 先程の魔法屋でついでに買った雑誌をぺらぺらと捲り、ふと手を止めた。
 とある記事を見つめる、というか嫌でも目についた。『週刊ソーサラー』という魔法専門誌の中に、“最近注目されている魔導士ギルドの動向をチェックしよう!”みたいな所謂ニュース特集があるのだが、今回も妖精の尻尾の人々がやらかしたようだった。

 載せられている写真は「大震災の後です」と言わんばかりの建物の倒壊具合で、正直酷すぎる。これでは街の人間も救われた心地はしないだろうに。そもそも、盗賊一家を壊滅させるのに何故建物ごと壊れるのだろうか。巨人の集まりか何かなの??


「あ、いつもの綺麗な人」


 ぺらり。さらにページを捲ると、今度は銀髪の美人が現れた。
 時々この雑誌を読む際には、毎回と言っていいほどに彼女がモデルをしている。片隅に“妖精の尻尾のミラジェーン”と書いてあるので、そこのギルドメンバーであることは確かだ。

 まさか、この人も平気な顔で盗賊をぶっ飛ばしたり、建物を吹き飛ばしたりするのだろうか。うーん、想像できない。したくない。


「やあ、お嬢さん。さっきぶりだね」
「!?」


 そんな聞き馴染みのない声が聞こえたのは、ちょうどサンドウィッチを食べ終わり、手元の紅茶を煽った瞬間のことであった。全く予想していなかった人物の登場に、飲み込んだ液体が変なところへ入り激しく咳き込む。
 あれ、待って。どうしてこんなところに。
 ごほごほ、と咳を繰り返しながらも必死に頭を捻ったものの、一向に答えは見つからなくて。

 覚えていたのだ。アニメの記憶は確かに曖昧だけれど、このことだけは覚えていた。『ヒロインとこの男が接触する』場面を。自信もあった。間違えていない自信が。だから、ヒロインが居たであろう公園を通り過ぎ、アニメでは全く登場していなかったこの場所を選んだのに──。

 それなのに、どうしてここにいる?


「大丈夫かい?」
「う、だ、大丈夫です。もう平気ですから……」


 頼む、その背中をさすっている手を退けてくれ。寒気がする……。
 席に座った状態でそっと身を引くと、彼は察したのか手を上に掲げて降参のようなポーズをとった。なんだかもう全てが胡散臭い。早くどこかへ行ってほしいと心から願うのに、祈り虚しく相手はどうしてかそこに留まろうとする。終いには、テーブルに広げられたままの雑誌をひょいと取り上げられてしまった。


「君、妖精の尻尾に興味があるの? もしかして入りたいとか?」
「いえ、別にそんなことは……」
「ふぅん。妖精の尻尾の火竜サラマンダーって知ってる? ほらここ、これ僕のことね」
「はあ、そうですか……」


 違うだろう。知っているぞ、あなたがとんでもないことを考えるゲス野郎だってことは。
 こちらの冷めた眼差しもなんのその。ぐいぐいと火竜に関する記事を突きつけてくる男性が、えっと……言葉を選ばなくていいならうざすぎる。なんだこれは、どういう絡み方だ。前が見えないんですけど……!?


「ちょ、ちょっと、もうわかりましたからやめてください……!」
「これは失敬」
「何なんですか、一体。何かご用でも?」
「ああ、そう。一目見た時からビビッときてね。君のような美しい女性に、是非ともパーティーに来ていただきたくて」
「お断りします。キラキラしたところは得意ではないので」


 きっぱりとした物言いに、意表を突かれたように瞬いた男性がふっと笑う。「それは残念」大袈裟に肩を落としたかと思うと、今度はくるりと身を翻す。あまりに潔いので、なんだか拍子抜けした。なんだったのだろう、今のは。
 まるで嵐のようだ、なんてほっと息をついてしまった私はだいぶ気を緩めていたらしい。彼のもう一つの魔法を忘れ、忍び寄る悪意に最後まで気がつかなかったのだから。

 こくり、と何の疑いもせずに、残りの紅茶を飲み干した。


♦︎


「お、お客様〜……?」
「すぅ、すぅ……」
「おっと、僕の連れがすまないね。責任を持って連れて行くよ」
途方もない悪意