「なあ、フーゴぉ〜。もう休憩にしようぜ。なんか今日はやる気じゃあないんだよぉ」
ぐでり。それまでノートに向き合っていた体を、ナランチャさんは力が尽きたとばかりに伏せさせてしまった。握られていたはずのペンはとうに放り出されている。
勉強を教えるために彼の隣に座っていたフーゴさんは、そのやる気のない態度に重々しいため息をついた。
「……あのね、ナランチャ。あなたは立派だ。自分の方から小学校満足に行ってないから勉強を教えてくれなんて、なかなか言えるもんじゃあない」
「う〜〜」
「九九だって覚えたじゃあないですか」
なんとか彼のモチベーションを上げようと声をかけるフーゴさんだけれど、疲れ切ったナランチャさんにはどれも響いてこないらしい。全てを右から左へ受け流すような姿勢で、くるりと反対隣に座る私を仰ぎ見る。ココロ〜、とそんな助けを求めるような声を出されても、私にはどうすることもできないのだけれど。
曖昧に微笑んで、とりあえずテーブルに伏せて距離が近くなった彼の黒髪を柔らかく撫ぜてみる。相変わらず綺麗な色だった。オレンジ色のバンダナに抑えられた髪が、所々ぴょこぴょこと跳ねているのが可愛らしいとも思う。
当の本人は最初こそ驚いたように瞬いていたものの、そっと目を細めて無邪気な笑みを見せているから嫌なわけではないようだ。なんだか甘えてくる猫と似ているかもしれない。
「ちょっとココロ、ナランチャを甘やかさないでくださいよ」
「すみません、つい……」
「なんだよォ〜、羨ましいのかァフーゴ〜? 譲ってやんないけどな」
「このッ」
「それよかココロ、今度一緒にジェラート食いに行こうぜ。新しい店が出来たんだってさ!」
「ジェラート……! 行きたいです! フーゴさんも一緒に行きましょう!」
魅力的な誘いに私の方がテンションを上げてしまった。ぱっと顔を輝かせてナランチャさんに頷きを返し、次いでフーゴさんに提案を飛ばす。人数は多い方が楽しいに決まっている。全員の休みが被るかは怪しいところだけれど、後で他のみんなも誘ってみよう。
にこにことその機会に想いを馳せていたから、ナランチャさんがげっという表情をしたことに気づかなかった。
「残念だったな、“二人きり”じゃなくて」
「うるせーな、わざわざ小声で言うなよ。ココロが楽しそうだから別にいい」
「お二人ともどうかしました?」
「いえ、ぼくも行こうと言っていたところです。ほら、ナランチャ。ご褒美が出来たんだから続きやってもらいますよ」
「うげ〜」
渋々といった様子でナランチャさんが勉強を再開させた頃に、注文しておいたケーキが運ばれてきた。店員さんにお礼を伝え、すでに人数分に切り分けられていたそれを小皿に乗せていく。全部で七つある。六つは私達チームの人数分で、もう一つは今日訪れる予定の新入りさんの分だった。
「なあ、ココロ。わかっちゃいると思うが、残り四つの内の一つは渡さないでくれよ」
「はい。そうおっしゃると思ったので、ミスタさんは一番最初です。ラッキーセブンですね」
「グラッツェ! さすがイイ女だぜ〜」
苺ケーキが食いたい、と先日言っていたばかりだからか、いつもよりも彼の瞳が輝いているような気がする。早速フォークを掴んで食べ始めるミスタさんを微笑ましく思いつつ、今度はその隣に座るアバッキオさんへとケーキを運んでいく。音楽を聴いていた彼から小さくお礼を言われた時だった。
ふと、対面にいるフーゴさんの空気がピリッと揺らいだのを感じ取る。様子を窺おうと顔を上げたのと、彼がナランチャさんの頬にフォークを突き立てたのは、ほとんど同時のことであった。飛び散る鮮血にひやりとする。
「うがぁぁあ……!!」
「このチンピラがァ!! オレをナメてんのか! 何回教えりゃあ理解できんだコラァ! クサレ脳ミソがァ!!」
痛みに呻くナランチャさんが、最後の一言と共に容赦なくテーブルに叩きつけられた。ガタンッ! と凄まじい音が響いて、卓上の紅茶がひっくり返る。「“ろくご三十”ってやっておきながら、なんで三十よりも減るんだッ!」言いながら、ナランチャさんの頭を離さない彼に向かって銀色の一閃が瞬く。首筋にナイフを突きつけられ、反射的に動きが止まったフーゴさんに、ようやく我に帰った。
何がどうしてそうなったのかはわからないけれど、とにかく二人を止めなくては。
「なんだと? クサレ脳ミソって言ったな……? 人を見下す言い方はよくない。殺してやる……殺してやるぜェ、フーゴォ」
「この野郎〜〜ッ」
「ちょ、ちょっと待ってください! お二人とも落ち着いて……っ!」
「「!!」」
慌てて二人の間に飛び込む。力ではとても敵わないから、無理やりに体をねじ込むようにして距離を空けさせようと奮闘する。下手したら自分にも攻撃が飛んできそうなので、ぎゅっと目を瞑ることも忘れずに。こうして二人が喧嘩になるのは割とあることなのだけれど、やっぱり何度見ても慣れないし痛々しいからやめてほしいなあ……。
ぐっ、とあまり意味はないかもしれないが、二人のお腹辺りを押してみる。
「「……」」
「あーあ、また仲裁されてやんの。もうオメェらどうせ喧嘩すんなら、最初からココロ真ん中にして座っとけばいいんじゃあねーの?」
何故だか急に勢いをなくしたように静かになった二人は、そのままそっとお互いから離れていく。つん、とそっぽを向く態度を見るに、どうやら仲直りしたというわけではないらしい。
茶化す色を混ぜたミスタさんに、とりあえずは大丈夫だろうと肩から力を抜いた瞬間のこと。「てめぇら何やってんだッ!」ブチャラティさんの鋭い声に、再び肩が跳ねた。
「店の入り口まで声が響いているぞ。他の客に迷惑だろうが!」
びくりと叱責に身を縮こまらせながら彼に向き直る。そうして、あ、と思わず小さく声がもれてしまったのは、その後ろに見知らぬ人物の姿があったからだった。
金色の髪と整った顔立ち。とても静かで凪いだような雰囲気が印象的だった。只者ではない、となんとなくそう感じる。
「昨日話した新しい仲間を連れてきた。紹介しよう、ジョルノ・ジョバーナだ」
「ジョルノ・ジョバーナです。よろしくお願いします」
ぺこり。礼儀正しい一礼に、なんだか故郷を思い出す。
ブチャラティさん以外のみんなが彼に対してどこか警戒するような、冷たい空気を作り出しているのには一応気づいていた。けれど、同じチームになるからにはもう仲間であるし、挨拶はきちんと返したい。
元来何かを疑うことは苦手な質だった。だから、最初から彼を疑うなんてことはできないし、したくない。何よりも、かつてこのチームに温かく迎え入れてくれたみんなを知っているから、そういう人でありたいと思えるのだ。
刺々しく息苦しい空気を切り裂くように。あるいは深い海を泳ぐかのように。これ以上彼に負担がかからないよう、何も気づいていない風を装って、ゆっくりと普通に歩み寄る。今もなお無言を貫く四人の、いや、ジョルノ・ジョバーナさんを含む五人の張り詰めた空気が揺れ動いたのを感じ取った。
全員の様子を油断せずに窺っていた彼の視線が私だけを映す。まっすぐで透き通った正直な色に、ほんの少しの驚きが浮かんでいた気がした。
「初めまして。ココロ・ワカミヤと申します。こちらこそ、よろしくお願い致します」
ふわり、と笑ったつもりだ。歓迎する気持ちは嘘ではないから、背中に感じる四人の視線に緊張さえしていなければ上手く笑えているはず。
程なくして、虚を突かれたように一瞬だけ無防備な表情を見せた彼が柔らかく相好を崩し、差し出したこちらの手を握った。
「ええ、お願いします。気軽にジョルノって呼んでくださいね」
「わかりました、ジョルノさん。私のことはココロって呼び捨てで呼んでください。みなさんそう呼んでくださるので」
温かい声音に心底安心した。そもそもブチャラティさんが紹介する人なのだから、害があるわけがなかった。無意識にちょっぴり人見知りが発動していたようだけれど、それももうすでに溶けている。
笑顔で会話を交える私とジョルノさんの様子を満足げに見守っていたブチャラティさんは、他のメンバーに「おまえらも挨拶しておけよ」と言い残した後、店員さんに呼ばれて席を外してしまった。
「……いいですとも。とりあえず座りなよ。茶でも飲んで話でもしようや。おいココロ、おまえは早くこっち戻ってこい」
「え?」
「知ってはいたがよぉ、相変わらず警戒心のねえお姫様だぜ……」
ジョルノさんを見つめながら私を呼び戻すアバッキオさんと、やれやれと肩を竦めるミスタさんに首を傾げていたら、ぐいっと誰かに腕を掴まれて後ろへ引き戻された。「オレ、アイツと仲良くなれそうもない」なんて、耳元に聞き慣れた声で小さく呟かれて相手がナランチャさんだと気づく。
チーム内で一番無邪気だと言っても過言ではない彼が、そこまで警戒を見せるのも珍しい。確かに、仲間には心底優しい一方で、それ以外となると冷たい面も出る人だけれど。
色々と考えているうちに、あれよあれよとナランチャさんとフーゴさんの間へと配置された。何故だろう。完全包囲網か何かだろうか。フーゴさんにも「もっと危機感を持ってください。ぼく達がそばにいないこともあるんですからね」と小さい子に言い聞かせるように諭されてしまった。よくわからないけれど、とりあえず頷いておく。
そういえば、二人とも喧嘩は自然消滅したのだろうか。お互いに怒っている雰囲気はないからきっとそうなのだろうと納得して、はっと思い出した。ナランチャさんの傷を手当てしていないではないか。
「ナランチャさん、遅くなってすみません。傷を治しましょう」
「え、いや、ダメ! 今はダメ! 大丈夫!」
「?? 全然大丈夫ではなさそうですけど……」
さすがにもうフォークは突き刺さってないけれど、まだ真新しい傷口は痛々しいままだ。能力を使おうと彼の頬に手を伸ばすと、びっくりした猫のように素早く距離を置かれてしまった。たった数歩の距離でも届かなくなった手は宙をかく。いつもはこんな反応されないのに、何か彼が嫌がることでもしてしまっただろうか。
目の前のナランチャさんがしまったという顔をしたから、もしかしたら私は泣きそうな表情でもしていたのかもしれない。行き場を失った手がふよふよと彷徨うのを、不意に背後からフーゴさんの大きな手が救い上げた。
「そんな傷わざわざあなたが治療してあげなくとも、放っときゃあ治りますよ」
「そ、そうそう! 何ともないぜ、こんな傷はよぉ〜」
常時だったならフーゴのせいだろ! とでも言いそうな台詞だったのに、ナランチャさんは気にした様子もなく彼の言葉に乗る。
何かを隠している。それは明確にわかるのに、肝心の何かがわからない。
何故だかどうしても傷を消すことはさせたくないようなので、仕方なく頬の血だけは拭おうとハンカチを濡らしにその場を離れることにした。