ゆさゆさ、と優しく体が揺れる。暗闇を彷徨っていた意識が強引に引き戻されるような感覚に、ゆっくりと瞼を震わせた。
そうして、薄く開かれた視界に、艶のある黒髪と白いスーツが映り込む。
「おい、しっかりしろ……! 大丈夫か、ココロ」
「ん……ブチャラティさん? ここは……」
腕を背に回し、助け起こしてくれた彼にお礼を言いながら辺りを見渡す。眩しい太陽の光に、穏やかな波の音。ミャーミャーという特徴的な声をあげるウミネコの姿。
そうだ、確か船に乗っていたのだ。そして、ブチャラティさんの話を聞いている最中に急にナランチャさんがいなくなって、それから……。
はっとして、ブチャラティさんを振り返る。未だ体を支えてくれている彼との距離が近いことも構わずに、慌てて問いかけた。
「あの、ナランチャさんとミスタさんとフーゴさんは……っ無事、ですよね……!?」
「落ち着け。軽傷はあるが、みんな無事だ」
「そ、そうですか……よかった、です」
「だが、そう言うおまえも怪我をしている。まずは自分の心配をするんだな」
「え? あれ、本当だ……」
ほんの少しの擦り傷だった。片腕にいつの間にか引っ掛けたような裂傷ができている。血も新しい。どうやら最近できた傷のようだけれど、全く記憶になかった。しかも、気づいたことにより、ズキズキと痛み出したから最悪だ。
僅かに顔を歪めたのを察したのか、それとも元より手当てするつもりだったのか。黙々とブチャラティさんが丁寧に傷の応急処置をしてくれる。
「ブチャラティさん、とてもありがたいんですが……これくらいならすぐに治せますよ……?」
「いや、スタンドは温存しておいてくれ。これから世話になるかもしれん。それに、」
オレがしてやりたいんだ。なんてことなさそうで、けれども優しさや温かさが滲む声音でそう言われてしまい思わず言葉に詰まった。なんだかすごくくすぐったい気分だ。綺麗に包帯の巻かれたそこをもう片方の手で触れながら、そっと彼に笑いかける。ありがとうございます、と心を込めて伝えた想いは相手の胸に届いただろうか。
一瞬だけ柔らかく目元を緩めたブチャラティさんに状況の説明を受け、それから頼まれた通りに船内を探り始めた。自分以外のみんなも徐々に意識を取り戻していたようだから、事態の好転のためにもできるだけ早く追手の情報を得られないだろうか。
船室への階段を降りて若干の薄暗さに眉を潜めた時、ちょうど外からナランチャさんの怒声が聞こえてきた。続いて、フーゴさんとアバッキオさんのものも。
「チクショ〜〜、この野郎! よくもやってくれたなコラァ! コブになっちゃってるじゃあねぇか!」
「全く調子こいてくれたなッ!」
「この野郎ッ!」
「ココロにまで怪我させやがって許せねェ……!!」「女性に手を出すなんて!!」「どう責任取るつもりだコラァ!!」後半は声が重なっているせいで何を言っているかまではわからなかったけれど、三人とも相当怒っているようだ。袋叩きにしているような音さえする。
気にはなるものの、集団リンチの場面が見たいわけでは決してないので、少しの興味に蓋をして目の前のことに集中した。
追手が情報を残していたとすれば何があるだろうか。こういう時の自分の勘はあまり当てにならない。経験が少ないからという理由もあるが、命のやりとりをするような危険な部分に関わったことがほとんどないのだ。能力的にあり得ないほど不向きな上に、きっとみんなが遠ざけてくれているから……。
だから、私はギャングと呼ばれる人たちの性質を本当の意味で理解できていない。例えば、他の構成員や敵対組織の相手がどんな思考回路でどんな行動をするのか、なんて全く予想がつけられない。故に、手がかりを探すのはとても困難であった。
船室を巡りながら頭を捻る。なけなしの想像力で“もし自分が追手だったら”を脳内で考えてみたけれど、そんな経験もないのであっという間に頓挫した。思考を切り替え、今度はサスペンス系の小説やドラマを思い起こす。犯人の証拠としてよくあるのはどんなものだっただろう。
「うーん…………あれ?」
ふと、無線機に手が触れた。そのままなんとなく前回の使用履歴を確認して、はっと目を見開く。日付は今日。時刻は数十分前。普段であればなんら不思議ではないのだろうけれど、私たちが無線機を使った覚えはない。
では、一体誰が使ったのか。それは、もはや考えるまでもないことだった。
「ブチャラティさん! アバッキオさん!」
「! 何か見つけたか?」
「どうした」
慌てて階段を上り、他の場所を捜索していた二人を呼ぶ。
いつの間にやら愉快な音楽が流れているけれど、気にせずに近づいてきた彼らを見上げながら要件を述べた。無線機の使用履歴があります、と。その一言で全てを察した二人は一つ頷いて、アバッキオさんの能力を発動させると船室を覗き込んだ。どれくらい前だ、と問う彼に先程確認した時間を伝えると、紫色が特徴的なボディが見る見るうちに別の誰かへと変貌を遂げた。
それから、不意に何かを思い出したようなアバッキオさんがガンっと丸いものを殴りつけた。逆光で影を纏った像が放物線を描いて飛んで行く。突然何だろうかと反射的に目で追いかけそうになった次の瞬間、ぐっと誰かによって肩を引き寄せられ、視界が暗くなった。
一瞬だけ理解が追いつかずにぱちりと瞬く。首を傾げた際に衣類とは異なる感触が頬に触れた。迫る肌色。大人っぽい香水の匂い。刹那、状況を理解した脳が完全に停止して、ぴしっと体が石のように固まった。
「あ、ああ、あばっきおさん、ちか、ちかいです……」
「ん? ああ、悪りィ。だが、振り返るなよ。おまえの苦手なもんが転がってるからな」
「苦手なもの……?」
「襲ってきたスタンド使いの首と胴体を切り離してあるんだ」
「え、」
「おいブチャラティ、オレがわざわざ濁した意味がねぇだろうが……」
「おっと、すまない」
ということは、つまり。先程の宙を舞った影は追手の生首……??
ぞっとして、内心がくぶると震える。確かに私は彼らと同じチームに置いてもらっているけれども、それの始まりはほんの二ヶ月前くらいのことなのだ。スタンドが使えるようになったのも同じ頃で、死体や流血だとかは苦手でしかないし、この先慣れる予定があるかも危うい。
さりげなくブチャラティさんがその体で視界を狭めてくれているのを感じながら、アバッキオさんの気遣いを受け振り返らないことを強く誓った。そうして、何故だかダンスを踊っていたナランチャさんたちを呼びつけて、ムーディー・ブルースのリプレイが開始される。その間、ジョルノさんは「能力を見せたくない」というアバッキオさんによって後ろを向かせられていた。
「おいどうすんだ、行き先を喋られてるぜ!」
ミスタさんがそう声を荒げた通り、追手の姿を再現したムーディー・ブルースが誰かと連絡を取り合っている。
これは過去、この場所で実際に起こった出来事の投影だ。つまり、私たちの行動はすでに追手の仲間へと通達されており、今もどこかでこちらの様子を窺っているということ。これから向かうカプリ島には、少なくとも一人が待ち伏せしている可能性が高いらしい。
完全に先回りされている。その事実はまるで、首元にナイフを突きつけられたような冷ややかな感覚だった。こちらは相手の顔を知らないのに、向こうは知っているかもしれない。そんな些細と思える情報力の差は、きっと結果に大きく響いてくるはずだ。嫌というほどそれを理解しているみんなは、私よりもずっと、ずっと強張った表情をしていた。
「──この船が入港する前に、その男を探して始末すればいい」
そして、この張り詰めた空気を切り裂いたのは、それまでじっと静観していたジョルノさんだった。
静かで平坦な声。冷静で知性を感じさせるそれは、ゆっくりと全員の耳に行き届く。みんなの驚きの視線を受けてもなお、彼の様子は普段通りだ。最適解だと信じてやまない、まっすぐな瞳は輝きを纏っているようにさえ見えて。その正直さに、ブチャラティさんも言葉を失っている。
「何言ってんだコイツはよォ〜。この船より先に上陸だって? 泳いででも行くってのかよォ?」
最初に声をあげたのはナランチャさんだ。呆れの滲む最もな疑問をぶつけるけれど、対するジョルノさんは「はい」と一言だけ、それも少しも動揺することなく言い切ってしまった。
徐に、足元にあった救助用の浮き輪を爪先で持ち上げる。何の変哲もないただの浮き輪だ。
「ぼくはこの浮き輪を“魚”に変えられます。そいつに引っ張ってもらえば、この船より早く島に着けます」
「!!」
瞬間、目を見張った。私だけではなく、ジョルノさんを除くこの場にいた全員が。彼の言葉に従うように、浮き輪が見る見るうちに魚へと変化したのを見てしまったからだ。
見間違いではない。ただ形を変えただとか、幻覚の類ではないとすぐに理解ができた。ぎょろりとした丸い目に、ぴちぴちと呼吸を求めて跳ねる姿はとても偽物とは思えない。本物の魚だった。驚くべきことに、ジョルノさんは生物を、生命を作り出してしまったのだ。
「このジョルノ・ジョバァーナには夢がある。ぼくは百億リラが欲しい。その金でブチャラティに幹部になってもらい、ぼくらは乗し上がって行かなくっちゃあいけないんです」
「……?」
あれ、と思う。彼の発言には確かに驚いたのだけれど、それよりももっと。
どうしてジョルノさんとブチャラティさんは今、意味深に視線をかわしたのだろうか。それは、見逃してしまうほどの小さな違和感で。ブチャラティさんが幹部になることと、彼の夢がどう結び付くというのだろう。初めて聞いたとは思えない。唐突な彼の宣言に、驚愕や呆然といった感情は見えなかった気がする。
意味があるように思えるのに、それが何なのかまではわからない。痒いところに手が届かないような感覚にもやもやとしながら、しかし今は話に集中しようと意識を戻す。それから、そうっと控えめに手をあげた。
「……あの、私もジョルノさんやミスタさんに賛成です」
漂う空気が変わる。私のか細い声はそこに紛れて溶けてしまいそうだったけれど、静寂を保っていた船の上では上手く伝わったようだった。
提案の穴を指摘したアバッキオさんも、その上で提案に賛同したミスタさんも、果ては提案者のジョルノさんまでもが少し目を丸くしている。私の意見が予想外だったのか、それとも発言したこと自体なのか。
「本気かココロ?」と、隣にいたアバッキオさんから常時よりもほんの少し低い声で問われる。けれど、それは怒気から来るものではないのだろう。彼の慎重な性格故に、みんなの命が危険に晒されないよう、人一倍考えているのだ。そうわかっていたから、安心して自分の意見を伝えることができる。
「はい。無謀なことはわかっているつもりですが、このまま港へ行くのは一番危険だと思います。それと、敵を見つける方法について。絶対に成功するとは言い切れないんですが……」
「……何か思いついたのか?」
「言ってみてくれ」
先程よりも声音が和らいだアバッキオさんと、優しく先を促すブチャラティさんに小さく頷く。みんなの視線が集まっていることに少しばかり緊張しながらも、はっきりと答えた。
この船の無線機を使うのはどうでしょうか、と。
「連絡を取り合っていた相手が絶対に応答するとは限らないんですけど、それでも最初の一回だけは可能性があるんじゃないかと思いまして……」
「……なるほど、確かにそれはいい考えですね。相手が用心深い人物で最悪無線に出なくとも、ズッケェロの名前を出せば一般人かそうじゃないかくらいの判別はつきそうです」
「おお! それなら何もしないより断然いいじゃん!」
「なんだなんだ、今日はいつも以上に冴えてんなぁ〜ココロはよぉ〜〜」
「あう、」
顎に手を当ててすぐに納得してくれたのはフーゴさんで、それを受けて表情を明るくさせたのがナランチャさん。そして、私と肩を組むように腕を回して朗らかに笑ったのがミスタさんだ。力加減はされているようだけれど、彼の方がかなり背が高いので若干押しつぶされそうになる。
それを察したのか、すかさずミスタさんのもう片方の腕をフーゴさんとナランチャさんが掴み、二人がかりで引っ剥がす。あっという間に離れていった彼は「ヤキモチかぁ〜?」と二人を茶化し、対する二人は薄らと頬を赤くさせて「違うッ」と噛み付いている。張り詰めていた空気はどこへ行ったのやら。すっかりいつもの見慣れた光景だった。
「そうだな。他に手もないし、これが最善のようだ。いいな? ジョルノ」
「……ええ。とてもいい作戦だと思います」
「アバッキオもいいか?」
「……まあ。さっきの無防備で行くよりかは勝算はあるな」
「よし、決まりだ」
そうと決まれば善は急げ。ブチャラティさんの声にカプリ島へ行く準備が開始された。「無線機はどうやって持って行くんだ?」「船なんだから防水加工の袋くらいあるだろ」「重そうだな」なんて声を聞きながら、みんなの暗い表情が払拭されたことに安心していたから全く気がつかなかった。
じいっと静かに、観察するようにジョルノさんがこちらを見つめていたことに。