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 黄昏に染まっていたはずの空が、いつの間にか紺色に移り変わっている。家を飛び出してから一刻ほど経っただろうか。
 運良く国境沿いまで向かうという馬車に出会い、その力を借りてそこそこ離れた場所までやって来た。やって来たが、薄暗い森の中を進むのは非常に厄介であった。人目を避けるために仕方のないことではあるのだけれど。
 とにかく、なるべく早く森を抜けたい。いくら薬草採集で山や森に慣れているとはいえ、さすがに野宿するのは勘弁してほしいのだ。


「アリス、左!」
「え?」


 突然、短く叫んだ白雪の声に反射的に足を止めた。
 言われた通り左に顔を向けると、今まで見えていなかった視界にすっと木の枝が映り込む。鋭く尖ったその切っ先に息を呑んだ。

 あ、危なかった……。

 白雪にお礼を言って、左の視界を覆うその布を確かめるように触れた。地元の人にとってこの目はほとんど周知の事実だった。が、そこを離れてしまえばこんなもの異常以外の何物でもない。おいそれと見せびらかすようなものでもないから、面倒事を避けるために眼帯で覆い隠したけれど……。
 フードも相まって、視界不良が凄まじい。

 久しぶりの眼帯は調子が狂うなあ。少し鬱陶しく思っていたら、そこに触れていた手を白雪にむんず、と掴まれて軽く引かれた。颯爽と歩みを進める彼女に戸惑いながらも、されるがままについて行く。まるで、幼い子供にするような対応である。
 決して嫌というわけではないけれど、一度これを外してしまえば済むことだ。周りに人の気配もないし、そもそも暗い中では色の違いもよくわからないはず。そう伝えたのに、白雪はそれでも首を横に振った。


「いいの。私が勝手にしてることだし、アリスは気にしないで。それに、急に人が飛び出してくるかもしれないでしょう?」
「確かにそうだけど……」
「それより! あそこ見て。家があるみたいなんだけど……」


 白雪が指をさした方向に目を凝らすと、木々の間から一軒の家が見えた。もしかしたら、一晩だけ泊めてもらえるかもしれない。浮かんだのは淡い期待だった。しかし、野宿するよりはずっと良いとお互いに頷き合う。
 そうして向かった先で見たものは、壁や屋根に蔦が伸びている煉瓦造りの家だった。
 しっかりした印象は受けるけれど、草木に覆われている様は人が住んでいるようには思えない。明かりもついていないから、おそらくは無人なのだろう。中に呼びかけた白雪ががっくりと肩を落とすのを見て、やっぱりかと落胆する。


「勝手に入るわけにはいかないし、暗くなってきたし……お腹も空いてきたし」
「あまり荷物になるようなものは持ってこれなかったからね。クッキーならあるけど、食べる?」
「ありがとう」


 家の壁に背を預けて座り込んだ白雪の隣に腰を下ろし、小包を差し出す。
 柔らかく笑って一枚口に運んだ彼女に倣い一口食べると、途端にサクッとした小気味良い食感と程良い甘さが口内に広がって少しの疲労が癒えていくようだった。


「ここってやっぱり人は住んでないのかな」
「生活の雰囲気がないから、空き家かもしれないね……」
「どっちにしろ今日はここにいるしかないか……」


 言いながら腕をさすりこちらへと身を傾ける白雪に、私も同じようにして少しだけ体重を預けた。こうしていると触れ合っている箇所からほんのりと温かさが伝わってきて安心する。暖も取れるし、ちょうど良い。
 空に広がっていた朱色は、もうすっかり消えてしまっている。薄らと色づく紺色も少し経てば濃い闇へと変わってしまうだろう。夜の森で無闇に動くのは得策ではない。下手に動いて身動きが取れなくなっても困る。
 結局、これ以上進むのは諦めて、また明日出発することに決めた私たちは、少しの寒さを和らげようと身を寄せ合い夜を明かしたのだった。


♦︎


 ぴぃ、と柔らかいさえずりが近くで聞こえた。不意に意識が浮上する。
 小鳥の鳴き声だ。
 薄く開いた視界の中に、けれども声の主は見当たらなかった。ぼんやりとした思考を振り切るように何度か瞬きをしていたら、ちくちくと頭に軽い痛みが走る。早く起きろと言わんばかりに小鳥が頭をつついていた。


「いたた、わかったって起きるよ」
「ぴっ!」


 いつの間にか横になって寝ていたらしい。体を起こしながら辺りを見回すと、暗かったはずの空は青く澄み渡っていて、すっかり朝が来たことを知らせていた。自分たちの状況とは全く似つかわしくない清々しいほどの晴天だ。
 眩しい青を見つめながら、ふといつもより視界が狭いことに今更気がついて、慌ててそこに触れる。指先に伝わった布の感触。そうして思い出す。そういえば、眼帯をしていたのだった。


「白雪、朝だよ。しらゆき〜」
「うーん……」


 隣で鞄に顔を伏せて寝ている白雪を優しく揺らすと、もぞもぞと少しだけ動いたけれど、起きるまでには至らなかった。珍しいな、と思う。朝に強い白雪がすぐに起きないなんて。でも、昨日の怒涛の展開を思い返せば、疲れていないという方がおかしいか。
 しかし、こんな場所でゆっくり休んでいる場合ではないのだ。すやすやと穏やかな寝息を立てる彼女を起こすのは忍びないけれど、万が一追手がいたら大変なことになる。おまけに、体も痛くなる。

 何気なく白雪を起こそうと再び手を伸ばした瞬間だった。
 なんと私の頭の上で成り行きを見守っていた小鳥が唐突に飛び立ち、勢いをつけて白雪に飛び込んでいくではないか。ぼすっ、と彼女の赤い髪に小さな体が埋もれた。かと思うと、次いで私にしたように『つつく』攻撃を繰り出す。
 途端に「いたっ!」と声をあげた白雪が、がばりと身を起こす。見事な起床だった。状況が飲み込めず困惑する白雪をよそに、こちらに戻ってきた小鳥は「やってやったぞ」と言わんばかりに胸を張っていた。


「おはよう、白雪」
「お、おはよう……。なに今の、その子?」
「うん、白雪を起こそうとしたみたいで。私もさっきやられた」
「そうなんだ。てっきり、アリスが指示したのかと」
「えっ、わざわざそんなことしないよ……!」
「ふふ、冗談」


 にこりと笑う白雪になんだか複雑な気分になる。起こしてくれたのはありがたいけれど、下手したら変な誤解を受けるところだったではないか。人差し指に降り立った小鳥をつん、ともう片方の指先で軽く小突く。と、慌てたように「ぴぃ!」と一声鳴いて飛び去ってしまった。びっくりさせただろうか。
 慌てて「ごめんね、ありがとう!」と小さな後ろ姿に声をかけると、遠くからぴぃぴぃと甲高い響きが届いた。返事、とは少し違う。何かを警戒する声だった。

 他の野生動物でも居たのだろうか。小鳥を見送りながら意識を集中させる。急に黙り込んだ私を不思議に思ったのか、白雪がこちらを覗き込んできた。「気になることでもあった?」と問いかける彼女に一つ頷く。
 それから、こっち、と近くにある塀を指さした。


「さっきの小鳥がこっちの……塀の方を警戒してたみたいなんだけど」
「塀? 特に変わったところはないけど……」
「うーん、猫でもいたのかな? 話を聞く前に行っちゃったから、これ以上は、」


──がさっ。

 わからない、と続けようとしたのと、何かが塀の上から草木をかき分けて飛び出したのは同時のことだった。
 宙を舞う人影。
 まさか、そんなところからタイミングよく人が現れるだなんて思うはずもない。塀を指さしたまま固まる私と、唖然とする白雪。そして、上から落ちてくるその人の「え?」という声が見事に重なった瞬間だった。
まっさらな頁に彩りを