♥♠♦♣


二人で家を飛び出してからどれほど経っただろうか。黄昏に染まっていたはずの空も、いつの間にか紺色に移り変わってきている。国境沿いまで向かうという馬車に運良く出会えた私達は、その力を借りそこそこ離れた場所までやって来れた、と思う。フードを被り人目を避けた結果、森の中を進むことになったのだけど、これがなかなか大変で。いくら薬草採取で山や森に慣れているとはいえ、さすがにその辺で野宿するのは避けたい。早く森を抜けようと急ぎ足になるものの、暗くなった道を進むのも危なくて八方塞がりになりそうだった。


「アリス、左!」
「え?」


突然、短く叫んだ白雪の声に反射的に足を止めた。言われた通り左に顔を向けると、今まで見えていなかった視界にすっと木の枝が映り込む。鋭く尖ったその切っ先に息を呑んだ。あ、危なかった。白雪にお礼を言って、左の視界を覆う布を確かめるように触れる。地元の人にとって私のこの目は周知の事実だったけれど、そこを離れてしまえばこんなもの異常以外の何者でもない。おいそれと見せびらかすようなものでもないから、面倒事を避けるために眼帯で覆い隠したけれど、なんと言っても視界不良が否めなかった。

眼帯をしていたのなんてずっと昔の事だから、久しぶりすぎて初めての感覚に似ているなあ、と少し感慨深く思っていたら、そこに触れていた手を白雪に掴まれぐいと軽く引かれた。ずんずんと歩みを進める彼女に、私は戸惑いながらもされるがままついて行く。ありがたいけれど、さすがに手を引かれて歩くほど危なっかしいつもりはなかった。そもそも、これを外してしまえば済むことだ。そう伝えたけれど、白雪は何故か首を横に振った。


「いいの。私が勝手にしてることだし、アリスは気にしないで。それに、誰に会うともわからないから」
「確かにそうだけど……」
「それより! あそこ見て。家があるみたいなんだけど……」


白雪が指をさした方向に目を凝らすと、木々の間から一軒の家が見えた。もしかしたら一晩だけ泊めてもらえるかもしれない。淡い期待だけれど、野宿するよりはよっぽど良いだろうとお互いに頷き合う。そうして向かった先で見たものは、壁や屋根に蔦が伸びている煉瓦造りの家だった。しっかりした印象は受けるけれど、草木に覆われている様は人が住んでいるようには思えない。明かりもついていないから、おそらくは無人なのだろう。中に呼びかけた白雪ががっくりと肩を落とすのを見て、やっぱりかと落胆する。


「勝手に入るわけにはいかないし、暗くなってきたし……お腹も空いてきたし」
「あまり荷物になるようなものは持ってこれなかったからね。クッキーならあるけど、食べる?」
「ありがとう」


家の壁に背を預けて座り込んだ白雪の隣に、腰を下ろして小包を差し出す。柔らかく笑って一枚口に運んだ彼女に倣い一口食べると、途端にサクッとした小気味良い食感と程良い甘みが口に広がって少しの疲労が癒えていくようだった。


「ここってやっぱり人は住んでないのかな」
「生活の雰囲気がないから、空き家かもしれないね……」
「どっちにしろ今日はここにいるしかないか……」


言いながら腕をさすりこちらへと身を傾ける白雪に、私も同じようにして少しだけ体重を預けた。触れ合っている場所からほんのりと温かさが伝わってきて安心感が胸に広がる。空に浮かんでいた黄金の色は、もうすっかり消えてしまっていた。薄らと色づく紺色も、少し経てば濃い闇へと変わってしまうだろう。夜の森で無闇に動くのは得策ではないし、下手に動いて身動きが取れなくなっても困る。結局これ以上進むのは諦めて、また明日出発することに決めた私達は、少しの寒さを和らげようと身を寄せ合い夜を明かしたのだった。


♦♦♦


ぴぃ、と柔らかいさえずりが近くで聞こえて不意に意識が浮上する。小鳥の鳴き声だ。薄く開いた視界の中に、けれども声の主は見当たらなかった。ぼんやりとした思考を振り切るように何度か瞬きをしていたら、ちくちくと頭に軽い痛みが走る。早く起きろと言わんばかりに小鳥が頭をつついていた。


「いたた、わかったって起きるよ」
「ぴっ!」


いつの間にか横になって寝ていたらしい。体を起こしながら辺りを見回すと、暗かったはずの空は青く澄み渡っていてすっかり朝が来たことを知らせていた。自分達の状況とは全く似つかわしくない清々しいほどの晴天だ。眩しい青を見つめながら、ふといつもより視界が狭いことに今更気づいて、慌ててそこに触れる。指先に伝わった布の感触。そうして思い出した。そういえば、眼帯をしていたのだった。


「白雪、朝だよ。しらゆき〜」
「うーん……」


隣で鞄に顔を伏せて寝ている白雪を優しく揺らすと、もぞもぞと少しだけ体が動いたけれど、起きるまでには至らなかった。珍しいな、と思う。朝に強い白雪がすぐに起きないだなんて、よっぽど疲れていたのかもしれない。すやすやと穏やかな寝息を立てる彼女を起こすのは忍びないけれど、こんな場所でゆっくり休むわけにもいかないだろう。何より、固いところで寝ていた代償で体が痛い。

もう一度起こそうと白雪に手を伸ばした瞬間だった。私の頭の上で成り行きを見守っていた小鳥が唐突に飛び立ち、そのままの勢いで白雪に体当たりする。ぼすっ、と彼女の赤い髪に埋もれたかと思うと、次いで先程私がされたように頭をつつき出した。途端に「いたっ!」と声をあげた白雪が、がばりと身を起こす。見事な起床だった。状況が飲み込めず困惑する白雪をよそに、こちらに戻ってきた小鳥は「やってやったぞ」と言わんばかりに胸を張っていた。


「おはよう、白雪」
「お、おはよう……。なに今の、その子?」
「うん、白雪を起こそうとしたみたいで。私もさっきやられた」
「そうなんだ。てっきり、アリスが指示したのかと」
「わ、わざわざそんなことしないよ……!」
「ふふ、冗談」


にこりと笑う白雪になんだか複雑な気分になった。起こしてくれたのはありがたいけれど、下手したら変な誤解を受けるところだったじゃないか。そう思って手首辺りに降り立っていた小鳥をつん、と指先で軽く小突くと抗議するように「ぴぃ!」と一声鳴いて飛び去って行った。へそを曲げてしまっただろうか。慌てて「ごめんね、ありがとう!」と小さな後ろ姿に声をかけると、遠くからぴぃぴぃと甲高い響きが届いた。返事、とは少し違う。何かを警戒する声だった。

急にどうしたのだろうか。首を傾げて小鳥を見送っている私に、今までのやり取りを見てくすくすと笑っていた白雪も不思議に思ったのかこちらを覗き込んできた。「気になることでもあった?」と問いかける彼女に一つ頷く。それから、こっち、と小鳥が飛んで行った逆方向にある塀を指さした。


「さっきの子がこっちの……塀の方を警戒してたみたいなんだけど」
「塀? 特に変わったところはないけど……」
「うーん、猫でもいたのかな? だったら別に気にしなくても……」


ーーがさっ。


いい、と私が言葉にしようとしたのと、何かが塀の上から草木をかき分けて飛び出したのは同時のことだった。宙を舞う人影。まさかそんなところからちょうど良く人が現れるだなんて思うはずもない。塀を指さしたまま固まる私と、唖然とする白雪。そして、上から落ちてくるその人の「え?」という声が見事に重なった瞬間だった。

突然空中に現れた何者かに呆然としていた私達は、けれども次の瞬間、塀に足を取られ着地に失敗したらしいその青年の「でッ」と痛みに呻く声に我に返った。はっとして、そばにいた白雪のフードを引っ張り深く被せる。まさかとは思うけれど、もし追っ手だとしたら白雪の赤髪は決定的な証拠になってしまう。何としてでも隠し通さないと。おそらく先程の小鳥が逃げていったのは、この人のせいだろうから。


「ああ! 大丈夫かゼン!? 手首捻った!? 頭打ってないか!?」
「(ひ、人増えた〜……!)」


血相を変えて慌ただしく駆け寄って来た別の男性が蹲っている彼に捲し立てる。どうしよう。最初の彼一人だけだと思っていたのに、あまり人数が多くなってしまっては逃げるに逃げられない。フードの下からそっと彼らの様子を窺う。「1+1は!?」だなんて無事の確認の仕方をしている男性は、青年に意識を向けているし、上手くいけばここから離れられるかもしれない。


「2。あれっ、お前誰だっけ?」
「!! ミツヒデだよ!」
「ああ、そんな名前だったんだ」
「なんだよ、木々まで! 傷つくなーー」


また増えた……!じゃれ合うような会話に自然と加わってきた女性に、思わず頭を抱えそうになる。続々と集まってくる人にこれ以上は増えないだろうなと、周りを警戒していたら、くいと後ろから裾を引かれた。振り返ると白雪に視線で逃げようと合図されて小さく頷く。確かに、あの三人がこちらに興味を示す前に退散してしまうべきだろう。タンバルンでのあれやこれやがある今の状況では、変に目立って赤髪と異色の噂が流れでもしたら、面倒なことこの上ない。

白雪と共に、こそこそと息を潜めてその場から離れていく。ゆっくりと、焦らずに。けれども、しっかりと。もう少しで、家の角を曲がるーーというところで、先程まで会話の中で笑っていたはずの青年が「で?」と真面目な声で空気を切り替えた。こちらに彼らの意識が向けられた気配がする。逃亡劇の幕を早々に閉じられた私達は、ぎくりと肩を跳ねさせてその場に固まった。さながら猛獣に追い詰められた小動物の気分だ。


「お前らはほんとに誰?」
「(どうしようアリス)」
「(強行突破する?)」
「(さすがに三人は振り切れないと思う)」
「(だよねー……)」
「こんな森の奥で一体何を?」


気づかれないように白雪と視線を交わしていたら、痺れを切らしたのか青年がもう一度問う。携えていた剣を肩に掛けて見下ろしてくる姿はなんだか余裕そうで。確かに誰も立ち寄らなさそうな森の中に二人、それもフードを深く被った何者かがいたら怪しいだろうけれど。先程、逃げようとしたことも彼の懐疑心を煽った要因かもしれない。

目の前の人達が追っ手なのか、そうでないのかは今の段階ではわからないけれど、“剣を持っている”という事実。それだけで私達の警戒は増していく。それも、三人ともが携えているというのだから、嫌でも昨日店を訪れた城からの使いを思い出させる。そもそも、森の奥にいることが怪しいのなら、あなた方はどうなんだと納得のいかない心地になった時、私のすぐ後ろにいた白雪がそっと前に身を乗り出した。


「い、いや、私達はあの……その、家出中の身でして」
「……ただ人通りのない道を進んでいたら、ここに辿り着いただけです」


吃る白雪の言葉を引き継いで、なるべく冷静を意識して言葉を選ぶ。白雪が前に出たのは、私の僅かな苛つきを感じ取ったからだと思うから。相手に信じてもらえるかどうかは別として、ここで嘘をついて変に状況を悪くするのは避けたかった。かと言って、本当のことを話すつもりもないのだけれど。

私達の言葉をどう受け止めたのか、彼は唐突に剣先をこちらに向けた。抜き身ではないそれに斬りつけられることはないだろうけれど、突きつけられて良い思いは当然しない。何なのだろうかこの人は。むっとして、今もなお向けられた剣先を掴もうとした刹那ーー彼はそれより速く、その先端で白雪のフードを取り去った。はっと気づいた時にはすでに遅くて、見慣れた赤が舞う。


「!? 白雪……っ!」
「あ、」


ばさり、と白雪の頭を覆っていたそれが落とされた。私にとっては見慣れた、けれども誰かにとっての異常が露わになる。色鮮やかな赤を見て目の前の彼も例外なく、はっと息を飲んだようだけど、何を思ったのか彼は次の瞬間私のフードまでも取り去っていた。白雪を気にしていたから全く反応が出来なかったし、そもそも左の死角を狙われては成す術もない。もう遅いと思うけれど、白雪を庇うように前に出て相手を睨みつける。


「……変わった髪を持っているな?」
「そうですね。よく言われます」
「白雪……呑気に話してる場合じゃないよ……」


全く威嚇が効いていない青年の問いに、苦笑いで答える白雪。彼女に小声で呼びかければ、まるで大丈夫だというように彼らからは死角になる位置できゅっと手を握られた。今の私達の状況を考えると、このタイミングで赤髪が公になるのはまずいのに。いや、白雪のことだから、その上で私を気遣ってくれているのだと思うけれど。本当に優しくて、一緒にいると心強い。白雪は自分のことだけ考えていればいいのに。少し呆れ気味にそう思ったはずだけど、一人じゃなくて良かった、とも思ってしまった私はずるい。誤魔化すように、あるいはその温もりに応えるように、そっとその手を握り返した。
まっさらな頁に彩りを