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「ーーそれ、本当の話……?」


白雪から説明を受けて、開口一番に飛び出したのはそんな言葉だった。彼女が嘘をついているだなんて少しも思っていないけれど、それでもなお信じられない。いや、信じたくない思いでいっぱいだった。それでも、白雪はしっかりと頷いたのだけれど。

愛妾。王子。城。語られたどの単語も私達には無縁で、どこか遠い世界での事に感じられて。他とは違った容姿を理由に愛妾を決めるというのがもうおかしいけれど、どちらか一方ではなく、私と白雪のどちらも迎え入れたいというのだから、かの王子の悪名高さを如実に物語っている。

現実を受け止めきれない私達は抜け殻のように昼食を済ませて、残りの業務に励んだ。考えないように、目を逸らすかのように仕事に打ち込む私達の姿は、側から見ればきっと働き者のそれだっただろう。時はあっという間に流れ、気づけば窓の外は夕焼け色に染まっていた。閉店時間が訪れたことを悟ると、まるで電池が切れたかのようにへなへなと椅子に座り込む。ひどく体が重い。いつもの倍は疲れている気がした。

ふと机を挟んだ向こう側に白雪が腰掛けた。かと思えば、力が尽きたと言わんばかりに顔を伏せる。その姿はさながら糸の切れた操り人形のようだった。はあ、と疲労感たっぷりの吐息をもらしたのは、私と白雪のどちらだっただろう。


「……ねえ、白雪。これからどうしようか」
「正直まだ嘘なんじゃないかって期待してるけど……どう考えても現実だよね」
「しかも、今夜の内に支度しろだなんて急すぎるし……」
「今夜、か」


そう呟いた白雪は、何かを考えるように黙り込んでしまう。明日になれば迎えが来るということは、自由に動けるのは今夜までだ。それまでに行動しなければ手遅れになる。私も白雪も、王子の愛妾だなんて真っ平ごめんだった。自分から望んだわけではないのだから当然だ。なんとかしなくては、そう思うけれど、王子を相手にできるほどの権力など持ち合わせていない。極一般的な街娘の言葉なんて、あってないようなものだろう。


「ーーよし、決めた。アリス、ここを出よう」
「え?」
「このまま何もしなかったら、明日の今頃はまず間違いなく城の中だよ。だから……」


こうするしかない。その先を白雪は語らなかったけれど、私にはそう言っているように思えた。ここを出るということは、単に家出をするというわけではないだろう。この国ーータンバルンを離れると言っているのだ。自分達の故郷を捨てる。そうしなければ、私達に先はないと、つまりはそういうことだった。


「……わかった。そうしよう」
「アリス……!」


たっぷり間を置いてひとつ頷いた私に、白雪はどこかほっとした様子で、それが少し意外だった。私が断るとでも思ったのだろうか。確かに簡単に決断できるようなものではないけれど、他ならぬ白雪と一緒ならば話は別だ。独りではない。それだけで安心できる大きな要因だった。

その後、決意した私達の行動は早かった。この店を離れるに当たり、お客さんに迷惑をかけることを見越して、手分けして薬作りを始めた。今日までに頼まれていた分と、これから必要になりそうな分。長期保存が可能なものは出来るだけ多めに。きっと、これだけの量では足りなくなる時がすぐにやって来るだろうけれど、せめてもの気持ちだった。個々に向けた手紙を用意して、ふうと息を吐く。


「これで全部だよね」
「うん、なんとか間に合った」


そう言って、ぐっと伸びをした白雪の顔が不意に暗くなる。その視線の先にあるのは、斜陽の差す窓。まさか、昼間の人がいるのだろうか。ひやりとしつつも覗き込んだそこには、けれども人の姿は見えなかった。あるのは反射して写った見慣れた白雪の姿のみで、彼女の動きに合わせて長い髪が揺れる。白雪が遣る瀬ない表情でその髪に触れた瞬間、なんとなく彼女の気持ちがわかった気がした。

赤い、赤い、林檎のような髪色。白雪が生まれ持ったその色は、この世にとってかなり珍しくて。幼い頃から良い意味でも悪い意味でも奇異の目に晒され、とても楽な事ばかりとは言えなかった。苦労は絶えなかったけれど、それを髪のせいだと悲観的に思うことがなかったのは、こちらも彼女の生まれ持った性質だったのだと思う。

私はいつもそんな白雪を誇りに思うと同時に、少し羨ましくて眩しかったっけ。それは今も変わらないけれど。過去を思いながらそっと目を細めた刹那、はらりと赤が舞って大きく目を見開くことになった。白雪が自分の髪をばっさりと切っている……!


「な、え……!!? え、しらっ、え!?」
「あはは、動揺しすぎだよ。そんなに大事じゃないでしょう」
「大事だよ……!! そんな、だって」


綺麗なのに。ひどく小さく呟いたのは、白雪にとってその言葉が良いものか図りかねたからだった。彼女が自分の髪をどう思っていようと、この状況を作り出したきっかけを少なくとも“今”褒めても良かったのだろうか。空気に消えていくその声を、けれども白雪は聞き取ったようだった。柔らかく目尻が下がる。首元まで切られ短くなった髪型は、悔しくも白雪によく似合っていて。


「ありがとう。アリスがそう言ってくれるこの髪は嫌いじゃないけど、どこかのお馬鹿な王子にはこれで見飽きてもらおうと思って」
「……そっか」


お馬鹿な王子だなんて、普段人を悪く言わない白雪がここまで言うとは、よっぽど頭に来ているらしい。思わず少し吹き出してしまった。窓辺にぽつんと取り残された一束の髪。なんだかそれが寂しそうに見えて、そうだ、と思いつくままに鋏を手に取ったら、慌てた様子の白雪にすぐさま取り上げられてしまった。


「アリスは切らなくていいの!」
「あれ、どうしてわかったの?」
「わかるよ。何年一緒にいると思ってるの。それに、アリスは髪が原因じゃないでしょう」
「まあ、そうなんだけど……」


断固拒否、と言わんばかりに鋏を戸棚にしまわれては、髪を切ることは叶わない。もちろん押し通すこともできなくはないけれど、さすがにそこまで強引になるような内容でもない。大人しく諦めた私に、白雪は心底安心したようだった。


「でも、目を置いていくなんてできないからなあ……」
「何もしなくてもいいと思うけど……」
「うーん、せっかくなら二人いた痕跡を残そうかと思って。二人で出発するんだから」
「!」


私の特徴も白雪と同じ珍しい髪色だったなら、その髪を切って簡単に置いて行けるのに。残念ながら私の髪はそこまで珍しくもない金の色をしている。代わりに、と言うのは違うかもしれないけれど、私の目は生まれつき左右で色が異なっていた。右は緑で、左は青。全くもって奇抜だった。心底嫌になる。どうせならどちらも緑で白雪と同じだったら良かったのに。

部屋にあった手鏡を忌々しげに睨みつけていると、にゅっと横から現れた両手が私の頬を包み込んだ。そのままぐいと無理やり白雪と向かい合わせにさせられて思わず固まる。急になんだろうか。あと、白雪の手が頬に沈んでいて、絶対に変な顔をしている気がする。何もできずに硬直する私の瞳を、白雪が覗き込む。そうして、彼女はふわりと微笑んだ。


「私は好きだよ。アリスのその目。すごく綺麗だと思う」
「! ……ありがとう」


綺麗、だなんて。わざわざその言葉を選ぶ辺り、先程のお返しだろうか。まっすぐな褒め言葉に少しだけ恥ずかしくなって、白雪の手を引き剥がす。それから、くるりと身を翻すと共に後ろで髪を結っていたリボンを引き抜いて、白雪の切り離された赤髪に括り付けた。白雪とお揃いだから気に入っていたけれど、他に残せるものが思い浮かばないので仕方がない。それに、白雪もそのリボンごと置いて行くようだし、さすがに二つも括られていれば片方は私の物だとわかるだろう。

くどい程にリボンが付けられたその赤髪は、側から見れば滑稽かもしれなかった。けれども、私達にとっては二人の象徴のように思えて。「これで一緒だね」と満足げに白雪を振り返った私に、彼女はおかしそうに「そうだね」と笑って応えてくれた。
二対の跡を残して