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暖かい日差しに柔らかな風。キノさんが忘れていった薬を届けた後のこと。タンバルンを包む温暖な気候につい眠くなり、ふわと飛び出そうになったあくびをかみ殺す。日光浴に最適だなあと、そんな呑気なことを考えながら目的地の店主にひらりと手を振ると、彼は軽快に笑って応えてくれた。


「よお、アリス嬢ちゃん。今日の飯当番は君か!」
「こんにちは。そうなんです、昨日は白雪だったので」
「そうかそうか! よし、可愛い嬢ちゃんに免じてたくさんおまけをしてやろう」
「ありがとうございます。でもいつもそう言ってますけど、赤字とか大丈夫ですか?」


気前の良いこの店主はいつ来てもおまけと称して色んな食べ物を追加してくれる。驚くべきはそれが、私と白雪のどちらでも変わらない対応というところだろうか。こちらはありがたいけれど、毎度のことに少し心配になってしまう。

首を傾げて彼を窺うと、きょとりと一瞬目を丸くした後に「わはは!」と豪快に笑われるものだから、今度はこちらが呆気にとられた。ぱちりと瞬く私の頭に、ぽんと彼の大きな手が乗る。何故だかわからないけれど、そのまま撫ぜつけられて思わず目を細めた。


「……そういうところだぜ、アリス嬢ちゃん」
「何の話ですか?」
「はあ、全くこれだから! 無自覚って怖いね!」
「??」
「とにかく! 赤字は心配いらないよ。それに、こっちも二人にはいつも世話になってるからね」


はいよ!と注文以上に詰め込まれた紙袋を渡され、反射的に受け取る。なんだか上手くはぐらかされた気がするけど、まあいいか。大幅に負けてもらった金額を払い店主と別れると、白雪の待つ店へと向かう。今の時刻はお昼頃だから、きっと客足が減っているはずだ。休憩を取るにはちょうど良い。

両腕で抱えた紙袋の中身を見ながら歩いていたら、チリンと聞き慣れたベルの音が響く。何気なく顔を上げると、少し離れた薬剤店から一人の男性が出てくるのが見えた。その姿に思わず眉を顰めたのは、単に見知らぬ人だったというだけではなく、彼の騎士のような風貌と腰に携えられた一本の剣があまりに日常から浮いていたからだった。

まさか、王宮に仕えている人だろうか。剣と服装からそう予想を立てるけれど、今まで王宮からの使者が来たことなんて一度だってなかったし、そもそもこんな小さな店に訪れる理由があるわけない。きっと、王宮とは無関係だと思うのに、カチャカチャと時折り聞こえてくる金属の音がその可能性を否定しているように感じた。

不意にその人と目が合う。瞬間、驚いたように目を見開かれて、理由を悟った私はそっと視線を逸らした。すぐに逃げるように店へと向かうと、後ろから肩を掴まれて引き留められる。びくりと大袈裟に体が震えた。目の前の紙袋をぎゅう、と抱きしめる。


「……な、なんでしょうか?」
「異色の瞳……貴方がアリスどのですね」
「そう、ですが……」
「先程白雪どのには事情を説明致しましたので、貴方も今夜の内に身支度を願います」
「事情? 身支度……?」


一体何の、と私が言葉にする前にくるりと身を翻した彼は、こちらを気にした様子もなくそのまま去って行ってしまう。引き止める暇すらなかった。中途半端に伸ばした腕が宙を漂う。あまりに一方的で大事なところが全て抜けている内容に未だ理解が追いついていないのに、一体何の身支度をしろというのだろうか。首を傾げつつ、白雪に話を聞けばわかるだろうと店の扉を開いた私は目の前の光景にぎょっと固まった。白雪が床に蹲っている。


「白雪っ!?」
「アリス……?」
「どうしたの!? 具合悪いの……?」


慌てて駆け寄った私に、白雪はぼんやりと顔を上げた。焦点が合ってないような感覚にひどく不安になる。まさか熱でもあるのだろうか。そう思って白雪の額に手を伸ばした瞬間だった。はっと我に返った様子の彼女が、勢いよく私に抱きついた。飛びついたという方が正しいかもしれない。バランスを崩して尻餅をつく。白雪の赤い髪が首元をくすぐった。


「アリスどうしよう……! 大変なことになっちゃった!」
「……もしかして、さっきの騎士みたいな人が関係してる?」
「! 会ったの……?」


白雪のその答えは私の問いを肯定していた。彼女をここまで錯乱させるなんて、一体どんな内容だったのだろう。ゆっくりと離れた白雪を気遣いながらも説明を求めれば、彼女はひとつ頷いてから信じられないような話を語った。
訪れるは、始まりの音