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 キノさんが忘れていった薬を届けた後のこと。
 暖かい日差しと柔らかな風を受け、つい溢れそうになったあくびをかみ殺す。今日のタンバルンは日光浴に最適だ。きっと、窓辺でうとうとしていたらあっという間に眠ってしまうだろう。
 どうにか眠気を追い出しつつ目的地の店主にひらりと手を振ると、彼は軽快に笑って応えてくれた。


「よお、アリス嬢ちゃん。今日の飯当番は君か!」
「こんにちは。そうなんです、昨日は白雪だったので」
「そうかそうか! よし、可愛い嬢ちゃんに免じてたくさんおまけをしてやろう」
「ありがとうございます。でも、いつもそう言ってますけど、赤字とか大丈夫ですか?」


 気前の良い店主はいつ来てもおまけと称して色んな食べ物を追加してくれる。驚くべきは、それが私と白雪のどちらでも変わらない対応というところだ。こちらとしてはとてもありがたいけれど、毎度のことに少し心配になってしまう。余計なお世話かもしれないが……。
 首を傾げて彼を窺うと、きょとりと一瞬目を丸くしたあとに「わはは!」と豪快に笑われてしまった。呆気にとられ、ぱちりと瞬く私の頭に、ぽん、と彼の大きな手のひらが乗る。状況がよくわからないけれど、そのまま撫ぜつけられて思わず目を細めた。


「……まったく! アリス嬢ちゃんは愛嬌があるなぁ!」
「え? 急になんですか?」
「はあ、これだから無自覚って怖いね!」
「??」
「とにかく! 赤字は心配いらないよ。それに、こっちも二人にはいつも世話になってるからな」


 はいよ! と注文以上に詰め込まれた紙袋を渡され、反射的に受け取る。なんだか上手くはぐらかされた気がするけど、まあいいか。
 大幅に負けてもらった金額を払い店主に別れを告げ、白雪の待つ店へと戻る。今はお昼時だから、きっと客足が減っているはずだ。休憩を取るにはちょうど良い。

 両腕で抱えた紙袋の中身を確認しながら歩いていると、ふとチリンと聞き慣れたベルの音が聞こえた。何気なく顔を上げる。
 直後、思わず眉を顰めてしまったのは単に見知らぬ人だったからというだけではなく、その騎士然とした風貌と腰に携えられた一振りの剣があまりにも日常から浮いていたせいだった。しかも、彼が出てきた店はうちの薬剤店だ。

 いかにも王宮に仕えている人間に見えた。だからこそ、より不自然で。だって、うちの店と王宮との間に繋がりなんてないのだ。
 今まで王宮からの使者が来たこともないし、例え薬を求めていたのなら城下町の薬剤師に頼まずとも、もっと身近に優秀な人材がいるはずだ。彼自身がお客さんという線も薄い。もしそうなら、わざわざ目立つような格好をする必要がない。

 きっと、何かの間違いだ。私たちには無関係だ。そう思いたいのに、カチャカチャと金属の音が近づく度に嫌な予感も大きくなっていく。
 そして、ついにその人と目が合った瞬間、相手の両目が驚きに見開かれたのを見て、即座に理由を悟った。よくある反応だ。そっと視線を逸らし、逃げるように早足で店へと向かう。と、すれ違い様に後ろから肩を掴まれて引き留められてしまった。
 びくりと大袈裟に体が震える。目の前の紙袋をぎゅう、と抱きしめた。


「……な、なんでしょうか?」
「異色の瞳……あなたがアリスどのですね」
「そう、ですが……」
「先程、白雪どのには事情を説明致しましたので、あなたも今夜の内に身支度を願います」
「事情? 身支度……?」


 一体何の?
 言葉にする前にくるりと身を翻した彼は、こちらを気にした様子もなくそのまま去って行ってしまった。引き留める暇すらなかった。中途半端に伸ばした腕が宙を彷徨う。

 あまりに一方的ではないか。大事なところが全て抜けているせいで、何の話か全くわからない。一体何の身支度をしろというのだろうか。首を捻りつつ、とりあえず白雪に聞いてみようと店の扉を開いた刹那。視界に飛び込んできた光景にぎょっと固まった。
 白雪が床に蹲っている。


「白雪っ!?」
「アリス……?」
「どうしたの!? 体調悪いの……?」


 慌てて駆け寄ると、白雪はぼんやりと顔を上げた。焦点の定まらない瞳がどこか虚空を眺めているようで、ひどく不安になる。まさか熱でもあるのだろうか。そう思い、白雪の額に手を伸ばした瞬間のこと。
 はっと我に帰った様子の彼女が、勢いよく私に抱きついてきた。飛びついた、という方が正しいかもしれない。バランスを崩して尻餅をつく。白雪の赤い髪が首元をくすぐった。


「アリスどうしよう……! 大変なことになっちゃった!」
「……もしかして、さっきの騎士みたいな人が関係してる?」
「! 会ったの……?」


 白雪のその答えは私の問いを肯定していた。
 彼女をここまで錯乱させるなんて、余程の内容だったのだろう。ゆっくりと離れた白雪を気遣いながらも説明を求めれば、彼女はひとつ頷いてから信じられないような話を語った。
訪れるは、始まりの音