弱いも強いも紙一重
しぬ、と思った。こんなに大量の蜂に刺されれば、まず間違いなく死んでしまう。刺されたことは今まで一度もないけれど、だからこそ痛みが全く想像できなくて余計に怖かった。いや、想像できたとしても怖いことに変わりはないけれども。咄嗟に逃げようとして後ろに足を引いたら、なんと焦るあまりにずっこけてしまった。どてっとお尻を地面に打ち付ける。鈍臭いにもほどがあるだろうと自己嫌悪している間にも、もちろん蜂が待ってくれるはずもなく。もうだめだ、とぎゅっと目を瞑った時、声が響いた。
「待って! その子は襲わなくていいわ……!」
女性特有の高くて綺麗な声。切羽詰ったような、必死な響きが混ざっているのは、心配して助けようとしてくれているからなのだろうなあとぼんやり考える。どちらにせよ、もうどうにもならないことだと諦めて身を固くしていたのに、何故だかいつになっても痛みがやって来ない。不思議に思って、恐る恐る、それはもうゆっくりと目を開く。ぎょろりとした複眼と至近距離で目が合った。
「っ……!?」
あまりの近さに声すら出なかった。きゅっと飲み込んだ吐息に、飛び出るはずだった悲鳴が喉元に詰まる。ふらり、と体勢が崩れて後ろに倒れそうになるのを、なんとか両手をついて防いだ。何が、一体どうなって……?目の前でぴくりとも動かず、じっと静止している様子に首をひねるしかない。
じりじりと後退してみても、ちっとも襲って来る素振りを見せないのはどういうことだろうか。つい先程までは敵意満々だったのに、と思ったところで、蜂の大群の向こう側に佇む彼女と目が合った。何故だか呆然としていたようだけど、はっと我に返ったのか慌てて地面に落ちていた帽子を拾う。
「も、戻っていいよ」
くるくると人差し指で空中に描く。何かの合図だろうか。静観していたら、その場に留まっていた蜂達が彼女の指示に従って一斉に帽子へと戻って行った。出てきた時と同じように身を隠し、すうっと周りから蜂が消える。何事もなかったかのようにしん、と静まり返る辺りに夢でも見ていた気分になった。人の言う事を聞く蜂もいるんだなあ、と頭の片隅で考えていたら慌てた様子の彼女が駆け寄って来た。
「大丈夫? ごめんなさい、怪我はない?」
「だ、大丈夫です。どこもなんとも……」
無事だということを示すために立ち上がると、やっと安心したように笑ってくれた。そうだ、助けてくれたお礼を言わなければ。絡繰りはよくわからないけれど、蜂から救ってくれた感謝を伝えようと思って「助けていただき、ありがとうございます」と言ったら、何故だか彼女は微妙そうな顔をした。それは……どういう表情なのだろうか。
どうにかそこにある気持ちを読み取ろうとしている内に、彼女は帽子を大事そうに抱えて傍らの壁に寄りかかる。結局わからずじまいだなあ、そう思いながらぽうっと彼女の動きを見送っていたら、当然のように目が合ってしまい、どきりと心臓が跳ねた。盗み見ていたわけではないけれど、なんだか気まずくてあたふたしていると、ぽんぽんと彼女の綺麗な手が隣を軽く叩く。「座って」と小さく呟かれて、ぎょっとした。とりあえず少し距離を空けつつも、「失礼します……」と言われた通りにそこへ座る。くす、と彼女が笑った。
「ねえ、貴方名前は? 私はポンズよ」
「え、と、ミリアです」
「そう、ミリアね。よろしく」
ふんわりと笑う彼女、ポンズさんはとても可愛らしい人だった。年上の人に可愛らしいという言葉を使うのはちょっと失礼かもしれないけれど、本当にそんな言葉がぴったりで。綺麗に笑うなあ、と思う。この場所が不穏な空気の漂う試験会場だということを、ともすると忘れてしまいそうだった。
「……どうしたの?」
「あ、いえ、すみません……。よろしくお願いします」
あまりに見つめ過ぎていたのか、ポンズさんが不思議そうに首を傾げたので、慌てて視線を逸らした。なんだか考えていたことを見透かされているような心地になって、じわじわと顔に熱が集まっていく。見られまいと俯いた先にあった自分の膝を、ぎゅっと抱えることによって羞恥を誤魔化した。けれども、せっかく話しかけてくれたのに沈黙を作ってしまうのも嫌で、必死に話題を探す。あれやこれやと思い浮かべたものは、どれも大した話題にはなりそうもない。
「あの……ポンズさんもハンター試験受けるんですか……?」
「え?」
言ってから、しまったと後悔した。苦し紛れに吐き出した疑問は、本当に何の役にも立ちそうにない。ハンター試験を受けるかどうかだなんて、ここに居る時点で答えはわかりきっているのに。案の定、ポンズさんはきょとんとした表情を浮かべていて、穴があったら入りたいと本気で思った。そして、そのまま埋めてもらえれば良いとさえ思う。
心の中で必死に恥ずかしさと闘っていると、不意にふっと思わずこぼれ落ちたような吐息が聞こえた。つられてそちらを見ると、ポンズさんが耐えられないといった様子で口元に手を当てて笑っている。急にどうしたのだろうか。思わぬ展開に今度はこちらがきょとりとする。
「ふふ……、ミリアが必死すぎて」
おかしくて、と続ける彼女に、心の葛藤が本当に筒抜けだったことを知った。まさか、そんな。今までの恥ずかしさの比ではない羞恥が上乗せされ、ぼふっと体が熱くなる。ぺしぺしと両頬を叩いて熱を逃がそうとするけれど、それすらもポンズさんの笑いの糧となってしまい余計に恥ずかしい。しばらく笑い続ける様子を複雑な心境で眺めていたら、やがて落ち着いた彼女が「ごめんなさい。笑い過ぎたわね」と申し訳なさそうに眉を下げた。慌ててぶんぶんと首を振って否定すると、ポンズさんは仕切り直すように体勢を整えてから壁に背を預ける。
「えっと、ハンター試験だったかしら。もちろん受けるわよ」
そう言ってぴん、と胸に付けられた板を指先で弾く。私の胸にもある番号札と同じ物だった。唯一異なるのはそこに刻まれた数字くらいだ。他の人々にも同様に渡されているそれは、ハンター試験の受験者であることを示していた。
「ミリアもでしょ? ……まさか迷ってたまたま辿り着いた、とかじゃないわよね」
「は、はい。受けるつもり、です……」
彼女の言葉に一瞬だけどきりとしてしまったのは、偶然来れたという内容に心当たりがあり過ぎたからだった。歯切れの悪い、曖昧な返事をする私をポンズさんがじいっと覗き込む。碧色の瞳に戸惑った表情の自分が映っていて、思わずすぐに視線を逸らした。何がそこまで気になるのかはわからないけれど、なおも見つめられる状況に耐えられなくなって、「あの」と声をかける。それから、気になったことを聞いてもいいですかと問うと、やっと彼女の興味が別のところに移ったようだった。
「ええ、いいわよ」
「その……ポンズさんは、緊張とかしないんですか?」
「緊張、ねえ……」
単純に気になったことだった。私はこの場所へ来てからというもの、大勢の人々が集まっている事実だけで圧倒されたし、物々しい雰囲気がずっと体に重くのしかかってくるようでひどく息苦しいのに。ポンズさんも、その他の受験者からも、緊張や恐怖なんかの色は全く窺えなかった。それが、とても不思議で。同時に、自分との差を様々と突きつけられている気がして、場違いなのだと思わされる。
緊張、緊張かあ……と何度か呟いて考え込んでいるポンズさんへ、そっと逸らしていた視線を戻す。答えづらいことを聞いてしまっただろうか。心配になった時、「そうね、私だって緊張してるわ」となんてことないようにさらりとこぼされて、「え?」と間抜けな声が出た。どこか自信満々にさえ見えてしまう笑みは、緊張という感情からは無縁で、ちくはぐとしている。その強い眼差しに、私の弱いところを見抜かれている気がして、また目を逸らす。感じが悪いかもしれない。不快にさせてしまうかもしれない。それでも、彼女の瞳を見つめ返す勇気はなかった。ポンズさんは、そんな私を気にした様子もなく話し続ける。
「私だけじゃないと思う。ここに居る他の人達だって、きっと緊張してるはずよ」
「全然そうは見えませんけど……」
「そうでしょうね。表に出したら舐められるもの。まあ、中には本当に緊張してない人もいるでしょうけど」
さも当たり前だと言わんばかりの声音を聴きながら、なんとなく探るように辺りを見渡す。試験開始までの時間を思い思いに過ごしている人々からは、やはりマイナスの感情は読み取れなかった。彼女の言葉を疑うつもりはないけれど、信じられないような心地になりながら、そういえば先程の蜂の騒動が大事にならなくてよかったなと別のところに思考を飛ばす。離れた壁際だったからか、幸い注目を集めなかったらしい。
「逆にミリアはわかりやすいわよね。正直珍しいくらいに」
「えっ、そ、そんなにわかりやすいですか……?」
「ええ。表情が固いし、わからない方がすごいわ」
「ひょうじょう……」
固いと言われても、自然とそうなってしまうのだからどうしようもない。むしろこんなに殺伐とした空気の中で、優しく笑いかけてくれる彼女の方が普通ではないと思う。ちょっと失礼な言い方だけれど。指摘されたことでより変に力が入るのを感じながら、つまりはもう手遅れかとげんなりした。わかりやすいと言われるほどに緊張している私は、周りからきっと弱いというレッテルを貼られていることだろう。
ぐさり、と心のやわらかい部分に何かが確実に突き刺さった。それが具体的に何であるかははっきりと呼称できないけれど、惨めなことには変わりなくて思わず抱えていた膝に顔をうずめる。やっぱり無理、なんだろうか。私みたいな弱いやつは、試験を受ける資格すらないのかもしれない。自分と周りを“同じ”だとは思わないし思えないけれども、彼らとは違って異質なのだろうな、と思う。きっと私は滑稽なものに映っているに違いない。
次から次へと浮かぶ悲観的な考えを打ち消さなければ、と頭では理解しているものの、悪い妄想は簡単には消えてくれなくて。完全に意気消沈した私の頭に、突然ぽすりと何かの感触があった。不思議に思って顔を上げたら、何故かポンズさんに頭を撫でられていて思わず固まる。よしよしと子供を慰めるような優しい手つきと表情にひたすら困惑した。ど、どういう状況だろうか。
「あ、あの、えっと……?」
「大丈夫よ、あまり気落ちしないで。良く言えば警戒されないってことだし、ある意味ラッキーかもしれないわ」
「そういうものでしょうか……?」
「そうそう、良い方向に考えるべきよ。でも楽観的になるのとはわけが違うから、貴方も警戒は怠らないようにね」
「わかりました……」
とは言え、なかなか難しそうだ。警戒はすべきという考えは理解できるけれど、しなければならないようなことが起こるのかと思うと恐ろしくてしょうがない。一体何が待ち受けているというのだろうか。色々想像をして、最終的に集団リンチに行き着き身震いをする私を横目に窺いながら、ポンズさんは懐から手鏡を取り出し抱えていた帽子を被り直した。
特徴的なそれが頭に乗る様子をぼんやりと眺めていたら、視線に気づいたらしい彼女と目が合ってすぐに逸らされる。何かを思案するような、迷っているような表情は出会ってからそれほど時が経っていないにせよ、珍しいと思ってしまった。「……上手く言えないけれど」と、静かに前置きをした彼女の唇がゆっくり、言葉を選ぶように動く。
「緊張するのは仕方のないことだと思う。怖いのも、不安なのも。感じて当たり前の感情よ、私もそうだから」
そこで一度言葉を区切ったポンズさんは、逸らしていた顔を戻して真っ直ぐにこちらを見つめた。口元に柔らかな弧が描かれた表情の中にも、向かってくる困難の全てを打ち払ってしまえるような力強さを感じて。向かい合う彼女の綺麗な瞳に、相変わらず自信なさげな自分がいたから正反対だな、と思う。
「でもここまで来れたんだから、あとは自分を信じてやるしかないじゃない。無理だって諦めちゃったら出せる力も出せないわ」
「でも、」
「ーー良くない結果を想像したり、それに怯えたりするのは弱い者の証明じゃないと思うの」
息を呑む。言い訳がましく飛び出そうとした言葉が、ぐっと喉奥に詰まった。思考が止まって、ただただ目の前の彼女を凝視する視界に少し安心したような表情が映る。的確に本心を捉えたそれはひどく優しくて、聡明で、ある意味残酷で。「大事なのはその後どうするかじゃないかしら」と続けるポンズさんも正解を探っているようだったから、正しい答えではないのかもしれない。幾ら言葉をもらったところですぐには強くなれないし、根本的な解決には繋がらないけれど。それでも確かに救われたような心地がした。
「……ありがとうございます」
ゆっくり、言葉を紡ぐ。胸の中にじんわりと広がるあたたかなこの気持ちが、どうか彼女に届きますように、そう願いながら。何度も向けてくれたやわらかな微笑みを頭に思い浮かべ、真似るように口元を緩める。ポンズさんのそれと比べると幾分かぎこちなかったかもしれないけれど、ここに来て初めて笑えた気がした。