銀色の少年



「ねえ、それ飲まない方がいいよ」
「え?」


口に含む寸前だった。不意に後ろから声が聞こえて、ぴたりと動きを止める。唇の少し先で、飲み下されるはずだった缶の中身がぽちゃんと音を立てた。振り返った先にいたのは、ふわふわとした銀色の髪を持つ少年で、じいっとこちらを、正確には手の中の缶を見つめていた。彼につられて、視線を落とす。飲まない方がいい、とは。首を傾げたところで、少年がまた口を開く。


「毒入ってるから、そのジュース」
「…………ど、く……?」


滑らかに、なんてことないように紡がれた言葉が脳内で反響する。けれども、あまりに現実味のない話のせいか上手く意味が理解できなかった。聴覚は正常に働いているはずだから、聞き間違いということはないだろう。そうなると、やっぱりこの状況がおかしいはずで。「嘘ですよね……?」と、少年が現れてから声を発していなかったトンパさんに問いかける。情けなく震えた声に、彼は慌てたように両手を振った。疑われたことの焦りからか、その額には汗が滲んでいる。ぶんぶんと腕が忙しなく宙をかく間も、トンパさんはやけに少年を気にしているようだった。


「え、いやっ! 入ってるわけないだろ、毒なんて……!」
「そ、そうですよね……! すみませーー」


ん、と続けようとした謝罪は、突然手元から消えた缶に驚いて、喉奥に詰まってしまった。ぱちりと数度瞬いた視界の端を少年が背後から通過して、トンパさんに近づいていく。その片手にオレンジ色の見覚えのある缶が握られていて唖然とした。い、いつの間に……。全然反応ができなかったし、そもそも気がつかなかった。少年はトンパさんの目の前で止まると、ずいっと缶を彼の口元に突きつけた。


「じゃあ、これ飲んでみて。ね? トンパさん」
「や、俺は自分のがあるからなあ……!」
「ふーん、証明できないんだ?」


ぐっ、とトンパさんが言葉に詰まるのを感じた。猫のように目を細めた少年は心底楽しそうだけれど、対して彼は冷や汗を流し、表情は引きつってしまっている。一歩一歩後ずさる様子は、誰がどう見たって追い詰められている者の行動だ。つまり、少年が言っていた現実味のない“毒”の話は本当だったということだろうか。正確に毒ではなかったとしても、きっとそれは限りなく正解に近いものだったのだと思う。さあっと血の気が引いた。

一歩、また少年が近づく。顔を覗き込むように首を傾けた彼に、びくりと肩を震わせたのはトンパさんも私も同じだった。少年の雰囲気がまるで違う。先程までの無邪気な様子は鳴りを潜め、纏わり付くような緊張感が辺りに漂っていた。ぴんと張り詰めたようなそれに息を飲んだのと、トンパさんが「じゃ、じゃあな!」と逃げるように身を翻したのは同時のことだった。

そそくさと人混みに紛れて、彼の背中はあっという間に見えなくなる。その様子をぼうと眺めながら、改めて危険な状況におかされていたことを理解して、ぞっと背筋が冷えた。祝杯に毒が紛れているなんて、恐ろしいにもほどがある。まるで、どこかの偉人のようだ。少年が止めに来てくれなければ、私は死んでいたのだろうか。起こり得た最悪を想像していたら、彼がくるりとこちらを振り返った。ばちりと目が合う。


「……なに?」
「え、あ、えっと……その、ありがとうございます。助けていただいて……」
「ああ、別にいいよ。オレが飲みたかっただけだし」
「そ、そうだったんですね……え?」


そうか、助けようとしたわけではなかったのか。だったら私は相当運が良かったのかな、と納得しかけた次の瞬間に思考が止まった。彼は今、何と言ったのだろう。飲む?何を……?

ゆっくりと脳内で理解する前に、少年がぐいと缶を煽ろうとするから、咄嗟にその手を掴んで引き下ろした。この人はなんてことをしようとしているのだ。先程自分で毒だと言っていたのに、それを自ら摂取するなんてどうかしている。彼がどうして毒と知っていたのかはわからないけれど、危険なものをわざわざ飲む必要は少しもない。突然のことに驚いたのか、缶を掴む力が緩んだその隙にそれを奪って数歩距離を置く。もう二度と渡さないぞと言わんばかりに缶を遠ざける私に、先程よりも離れた位置にいる彼はぽかんとその大きな瞳を丸くさせていた。


「な、なんだよ」
「どうしてこんなもの飲もうとするんですか。ど、毒なんですよね……?」


下手したら死んじゃいます……!と少し叫ぶように訴えると、彼がぱちりと瞬いた。深い海のような青が珍妙なものを見た時と同じ色を纏ったと思えば、次にはふっとおかしそうに吹き出されて今度はこちらがぽかんとする。今の会話のどこに笑うところがあったのだろう。じいとつい彼を観察するように見つめてしまうけれど、「あはは!」と彼が腹を抱えてまで大笑いするものだから、なんだか居心地が悪くなった。


「あ、あの……?」
「おまっ、必死すぎ……!」
「普通ですっ」
「いや、そういうところがさ……っ」


笑いを堪えるような息遣いがじりじりと羞恥を煽っていく。ぎゅう、と気まずさを凌ごうと彼から奪った缶を両手で握りしめて視線を逸らしていたら、不意に「まあ、確かに普通かもな」と小さく呟いた声が聞こえた。なんてことない言葉だったけれど、そこに滲む感情がどうしてか“普通”ではない気がして、そろりと彼を窺う。瞬間、ぱっと表情を作り変えられて、最初と同じ無邪気な笑みに戻った彼の本心はちっとも見抜くことができなかった。


「そんなに心配しなくとも平気だよ。毒くらいじゃ死なないから」
「死なないって……」
「だから、それちょうだい」


そんなこと言われても。そもそも害のないものを“毒”とは呼ばないんじゃないだろうか。彼の言葉を信じろという方が無茶な話だった。完全に疑いの視線を向けて微動だにしない私に痺れを切らしたのか、彼が一歩近づいてくる。慌てて一歩後退して同じ距離を保つと、一瞬だけ彼がむっとしたような気がしてひやりとした。こ、これは私が悪いのだろうか。いや、どちらにせよ危険なものをみすみす渡すわけにはいかないのだから、と意気込むように缶を持つ手に力を込める。

断固拒否の姿勢を見せる私に、彼は少し呆れたようにため息をつく。その刹那、先程のーートンパさんと向き合った時の彼の雰囲気と似た空気が身を包んで、ひゅっと息を飲んだ。敵意のような刺々しさはないけれど、緊迫する嫌な感覚に心臓が跳ねる。不意に彼がこちらに近づく。その流れるような体運びを、私は見ていることしかできなくて。ふわり、と彼の服が風をはらんで揺れたーー次の瞬間には彼は私の横をすり抜けて背後に立っていた。そこで時間が動き出したようにはっとして、素早く後ろを振り返る。

たぶん数秒にも満たなかったと思う。文字通り一瞬で手の中から缶が消えて、彼がトンパさんを問い詰める際にあっという間に奪っていったことが脳裏を過ぎった。やっぱりそうだ。全く反応ができない。ポップなカラーが彼の手の中に収まっている様子は、まるで瞬間移動でも目の当たりにしたようだった。


「それよりさ、キミ名前は?」
「え?」


唐突に問いかけられた言葉に驚くというよりも放心してしまって、きょとりと首を傾げた。すぐに意味を捉えたけれど、それよりも彼が今にも持っている缶を煽ってしまうのではないかとひやひやして。正直質問に答えるどころではなかったのに、それを察しているのか、彼がゆらゆらと缶を優雅に揺らすものだから、なんだが答えなければ飲むと脅されてるような気がした。


「ミリアです……」
「ふーん。オレ、キルア。ねえ、年いくつ? 見たところ同い年くらいだけど」
「年……? えっと、今年で十二歳になります」
「やっぱり? てか、敬語じゃなくていいよ。オレ堅苦しいの苦手なんだよね」
「あ、はい……うん」


返事をしたものの、もはや癖と言うべきか敬語になっていることに気づいて慌てて言い直す。やっぱり、ということはおそらく彼も同い年なのだろう。この試験会場において子供の姿は全く見かけなかったから、なんだか少し親近感が湧く。


「ま、よろしくミリア」
「よ、よろしく……キルア」


同い年の子と喋ってる、という僅かな感動を隠しながら返事を返す。いつも周りには大人ばかりで、年の近い子と関わることはほとんどなくて。だから、普通に名前を呼ばれただけでもむず痒くて、おまけにほんのちょっぴり緊張さえした。そうだ、言ってから気づいたけれど、名前は呼び捨てにしてしまってもよかったのだろうか。思わず口元に手をやったものの、特に変わった様子もないので彼は塵ほども気にしていないのだろうと解釈して、ほっと胸を撫で下ろした。


「……なあ、」
「どうしたの……?」


キルアが何か言いたげに口を開いたのでそちらを見ると、一度視線を寄越した後に何故か重たそうに口を閉じてしまった。不思議に思って彼の顔を覗き込んでみるけれど、返事はなくて。それどころか、ますます俯いてしまった。彼のどこか緊張しているような様子を意外に思う。なんとなく、今までの彼を見てると言えないことなんてなさそうな印象だったからだ。沈黙を貫くキルアに、体調でも悪くなったのかと心配になってきて、もう一度彼の顔を覗き込む。「大丈夫?」と続けようとして、息を飲んだ。彼の顔が真っ青で、心なしか呼吸もおかしい。


「キルア……!?」
「!!」
「大丈夫……?」
「あ、あぁ……平気になった」


思わず彼の額に触れると、途端に我に帰ったようだった。驚いたように目を見開くキルアは目の前の私を見て、ぱちりと瞬く。白昼夢でも見ていたのだろうかと思ってしまうほど、彼と現実との差にちぐはぐとしたものを感じて。けれども、どうやら熱はないようだ。そっと彼の額から手を離す。何がなんだかわかっていないのはお互い様だった。顔色が悪かったのは確かだったと思うけれど、今はすっかり元通りだ。


「……お前、今何した?」


だから、静かに紡がれた彼の言葉にひたすら困惑した。「何をした」と問われても、特別何かをしたわけではないし、そもそもこちらが何があったのかと問いたいくらいなのに。意図を読み取りたくて表情を窺おうにも、前髪をくしゃりと掴んで俯く彼の顔は全く見えなくて。とにかく、何もしていないことは事実なのでそう伝えると、前髪から覗く瞳に射抜かれた。睨むというより探るようだったけれど、妙に緊張して表情が強張るのを感じた。


「私は本当に何も……」
「……いや、だよな……悪い」


彼の視線に耐えられなくなってきて付け足すようにそう言えば、納得してなさそうなキルアは目をすうっと細めた。やがて、小さく呟いたけれど、それがどこか自分に言い聞かせているようで。なんだかとても心に引っかかる。はあ、と重い重いため息を場に落としたキルアは、ふと手に持っていた缶に目をやった。そこで私もその存在を思い出す。

こ、これはまずいのでは……!そう焦ったと同時に、何故か缶が宙を舞った。ぽいっ、と放り投げられたそれが、視界の端でカランと音を立てて地面に落ちる。一瞬のことで声も出なかった。遅れて、え?と声が漏れたのは、すでに中身が飲み口から溢れ出た後だった。


「え……?」
「飲んで欲しかったのかよ」
「いや、違うよ!? そうじゃなくて……」


ただ驚いた。わざわざ奪っていったものだから、隙をついて飲むのかと思っていた。そう伝えると「別に。オレって気まぐれだからさ」と、頭の後ろで手を組んでそっぽを向いてしまった。つんとした態度に見えるけれど、彼の声音には少しだけ楽しそうな色が窺えた気がして。とにかく、あのジュースを飲まれなかったのは幸いだった。理由はよくわからないけれど、結果が良ければこの際なんでも構わない。


「痛っ……!?」
「バーカ」
「え、えぇ……?」


唐突。本当に唐突だった。地面に落ちた缶を見つめていた私の額に突然鋭い痛みが走って、ぐっと呻き声をあげる。何故……?頭の中をひたすら疑問が埋め尽くす。どうやら今のはデコピンだったらしいけれど、本当に何故そんなことをされたのか不思議で仕方がない。それにしても、とても痛い。額を手でさすりながら、困惑した視線を送るけど彼は悪びれる様子もなく、愉快そうに笑みを浮かべていた。


「きゅ、きゅうになに……?」
「ただの仕返し」
「なんの……?」
「さあな。じゃ、オレもう行くから。お互い頑張ろうぜ」


くるりと身を翻し、去って行く彼の姿を呆然と見送る。何の説明もないとは……。訳がわからないものの、とりあえずは「またね……!」と声をかけておく。咄嗟に飛び出た言葉だったし、いずれ理由を聞けるだろうかと、その程度の認識で。また会いたかったのは事実だけれど、そこに深い意味も、打算的な何かもなかった。誰かと別れる時には当たり前についてくる言葉だと思うのに。

不思議だった。ぴたりと動きを止めて振り返った彼が、目を見開いて驚いた素振りを見せたことが。少し、ほんの僅かだけれど、うっすらと頬が赤くなっていた気さえする。なんだかその言葉を初めて聞いたような反応だなあ、と思う。それでも、呆れたような、今までで一番優しい表情をした彼は、再び前を向くと片手をひらひらと振って今度こそ去って行った。