気まぐれエンカウント
キルアの後ろ姿が人混みに紛れた直後、ふと一人になったことを自覚した。同時に、辺りに漂う重苦しい空気も息を吹き返した気がして、ぐっと気圧される。おまけに、幾つかの視線がこちらに向けられているものだから、くるりと踵を返した。同い年の子と出会って少し高揚していたのかもしれない。自分が置かれている状況を僅かでも忘れるなんて……。急に現実に引き戻された気分だった。
ほとんどが私の不注意だったとはいえ、よくトラブルに巻き込まれる日だなと思う。これ以上大きな騒ぎを起こさない内に、早く避難してしまおうと先程の壁際を目指した。ゆっくり、ゆっくりと、最新の注意を払って人を避けていた時のこと。不意に置き去りにしてきた缶ジュースの存在を思い出して、はたと立ち止まる。ああ、そうだ。早く立ち去りたくて放置していたけれど、思い返せばこれは不法投棄……ぽい捨てではないだろうか。
意図的ではないにせよ、気づいてしまったらそのまま忘れることなんて出来なくて。慌てて拾いに行こうと身を翻したら、ぬっと目の前に影が差し迫っていた。あ、と思った時にはすでに遅く、どんっと最近よく感じるあの衝撃に襲われた。
「す、すみません……!」
よろり。体制を崩したものの、尻餅をつくまでに至らなかったことは幸いだった。咄嗟に謝って頭を下げる。トラブルを起こさないように、迷惑をかけないようにと願った矢先にこれだ。自己嫌悪に浸りながらも、反射的に閉じていた目をうすらと開く。視界に映った相手の足元を見て、その人がぶつかった位置から一歩も動いていないことに気づいた。そういえば、寸前に少しだけ見えた影は体格の良い大きなものだったかもしれない。
「いいよ、ボクもよく見てなかったからね♦」
初めて聞いた声だった。それは絶対に間違いないはずなのに、どうしてか頭上から届いたその声にぴしりと体が固まってしまった。明確な悪意や敵意は含まれていなかったと思う。それでも、どこか暗闇が纏うような危うさに息が詰まる。この人は危険だと、直感が告げていた。
恐る恐る、相手の足元から順にゆっくりと視線を動かす。そうして、顔を上げた先で見たものは、にんまりと口元を歪めるその人の姿だった。重力に逆らうように立つ独特な髪型に、頬に施された涙型と星型のペイント。まるで、サーカスに登場するようなピエロを彷彿とさせる奇抜な風貌だ。
「大丈夫かい?」
「っ、え、だ、大丈夫です……」
問いかけられた声に、はっとする。相手の顔をじっと見つめていたことに今更気づいて、慌てて逃げるように目線を下げた。そこで不意に目に留まった44番の番号札に息を飲んでしまった。まさか、そんな。信じられない思いでいっぱいだったけれど、それを嘲笑うように数字はそこに存在したままで。
ーー44番の奇術師ヒソカ。
頭の中にそんな単語が過ぎる。それはトンパさんから教わったことだった。曰く、前回の試験では試験官を半殺しにしただとか。すごい戦闘狂だとか。とにかく関わらないことが一番良い、とまで言われた危険な人物ということでとても記憶に残っていた。話を聞いた時は奇術師ってどういうことだろうと疑問に思ったけれど、なるほど確かにその代名詞はぴったりかもしれない。
「本当にすみません。では、これで……」
「待ちなよ♣」
長居は得策ではない。そう判断してすぐにその場を離れようと、ヒソカさんの横をすり抜ける寸前だった。すれ違う際、何故か突然ぱしっと腕を掴まれて体が固まる。ひっ、と反射的に漏れ出そうになった声を慌てて飲み込んだ。ど、どうしよう。何か気に障ることでもしてしまっただろうか。やっぱり、じろじろと顔を見たのは失礼だったか。
困惑しながらもヒソカさんの様子を窺えば、じっとりとした舐めるような視線とぶつかった。恐怖を煽られ顔が引きつる私をよそに、彼は足先から頭までをお返しのようにじろじろと遠慮なく視線を動かすと、それまで放すことのなかった腕を興味がなくなったようにぱっと解放した。
そのまま何事もなかったかのように静かに去っていく姿にしばらく放心していたけれど、だんだんと安堵が込み上げてきて緊張から速まっていた鼓動が緩やかになっていく。なんだったのだろうか、今のは。どっと溢れる疲労を吐き出すように息をついて、ふらふらと壁際へと向かい、そっとそこに寄りかかった。
ーー良く言えば警戒されないってことだし、ある意味ラッキーかもしれないわ。
ふとポンズさんに言われたことが脳裏を過った。警戒されないということは、相手の視界に映らないということ。煩わしいと思われることすらないということだ。つまりは、警戒に値しないと、同じ土俵にいるとも思われていない。興味の対象にもならない。もちろんポンズさんがそうだと思っているわけではないけれど、たった今それを体験した気がしてなんだか複雑だった。まるで、“お前は弱い”と真っ向から突きつけられたような……。
胸の中に暗い影が纏うのを感じて、ぶんぶんと頭を振る。このまま考えていると泥沼に嵌りそうだった。ずるずると壁に背を預けたまま座り込む。ふと、元の目的だった缶ジュースの存在を思い出したけれど、今の私にはそれを拾いに行くだけの気力も、勇気もなくて。思考に蓋をするように、現実から逃げるように、膝を抱えてそこに顔を埋めた。