しるしのない道しるべ
「それでは、私はこれで。その定食屋さんに行ってみますね」
「ええ、美味しいって評判だから間違いないわ」
「色々ありがとうございました」
「お礼を言うのは私の方よ。ミリアに会えて本当によかったわ」
またいつか会いましょうね、と笑顔で手を振ってくれたのが嬉しくて、つい頬が緩む。はい、と溢れる想いのまま返事をすると、サイカさんに倣ってひらりと手を振った。背を向ける瞬間に見えた彼女が、何故か虚をつかれたような表情をしていたのが不思議だったけれど、気にせずに歩き出す。心地良くて、あたたかい。そんな彼女とこれ以上話していると、なんだか離れがたくなってしまう気がして。
サイカさんはきっと、私がいくらお喋りしようと許してくれるし、楽しそうに会話を広げてくれるのだろうけれど、その優しさに甘えてしまうのは嫌だった。それに、お店の邪魔にもなってしまうし……と思ったところで「待って」と、たった今考えていた彼女の声に呼び止められる。ゆっくりと振り返って、それから首を傾げた。サイカさんは何かを思案するように目を伏せていた。今まではっきりとした物言いをしていた彼女らしくもなく、ふらりと一度視線を彷徨わせて最後に私へ行き着く。意志が強く、サイカさんが扱う宝石のように綺麗な一対の黒色が、真っ直ぐに私を映していた。
「サイカさん?」
「……伝え忘れてたから言うわね。そのお店にはおすすめのメニューがあるんだけど」
そこで一度言葉を区切った彼女は、離れていた距離を詰めて私の前までやって来た。その細くてしなやかな指先が私の髪を梳くように滑る。少しくすぐったくて身をよじると、サイカさんは整った眉をほんの僅かに下げて困ったような表情をした。どうしたんだろう、と思う。どうして、そんなに切なそうな、どこか寂しそうな顔をするのだろうか。頭を撫でてくれる姿が、路地裏で見送ってくれた時のマスターと被る。私を見つめる表情が、あの夜頑張れと背中を押してくれたシャガさんと重なる。問いかけようとしたところで、それを察したのか、サイカさんが先に口を開いた。
「ステーキ定食の弱火でじっくり」
「え?」
「やだ、おすすめのメニューよ。ちゃんと覚えておいてね」
絶対食べてよ。と、念を押す彼女に少し違和感を覚えたけれど、特に断る理由もないのでこくりと頷く。先程の表情をぱっと隠して満足そうに笑ったサイカさんと今度こそ別れて、この辺りで評判だと聞いた定食屋へ向かう。大まかな場所の説明と店の見た目を聞いたくらいだから、辿り着けるか若干不安だけれどきっとなんとかなる……はずだ。“ステーキ定食”と“弱火でじっくり”という二つの単語を、忘れないように脳内で繰り返しながら道を辿った。
「……これで、本当によかったのかしら……まだあんなに小さな子供なのに。でも、あのマスターが言うくらいだし……ねえ、ミリア」
ーーお願いだから死なないでね。
小さく呟いた不穏な響きを伴う切実な願いは、すでに遠く離れていた私の耳には届かなかった。
♦
定食屋があると言われた広場で古い建物を探す。見ればすぐにわかると聞いたから、そこまで入り組んだ場所にはないはずだけれど。そう見当をつけてきょろきょろと辺りを見回しながら練り歩き、ちょうど昼時くらいにそれと思わしき店を発見した。木造の建物で、なんだか想像していたよりもずっと古びている。本当にここだろうか。不安になるけれど、見上げた看板には確かに“ごはん”と書かれていた。評判と言う割には行列はないのか、と思ったところで、なるほど隠れた名店というやつだと思い直す。
「へいらっしゃーい!」
がらりと扉を横に滑らせると、中から元気な声が飛び出してきた。カウンター席とテーブル席のほとんどが客で埋まっている。外からではわからなかったけれど、人気があるのは間違いないようだ。ジューッと肉の焼ける音と香ばしい匂いが漂い、自然とお腹の虫を刺激する。ぐうと音が鳴りそうになって、慌ててお腹に力を入れた。危なかった。こんなに大勢の客がいる中で空腹の音なんて響かせた時には、くるりと身を翻し全力でこの場から逃げる羽目になっていただろう。恥ずかし過ぎる。
「いらっしゃいませ。お席にご案内しますね。ご注文がお決まりになりましたらお申し付けください」
「あ、じゃあ……ステーキ定食の弱火でじっくりをお願いします」
「えっ……?」
「?」
案内をしに来てくれた女性店員が空白の席を前に、何故かぴしりと固まった。どうしたのだろうか。首を傾げて彼女を見上げる。驚きに見開いた目と視線が重なって、ますます意味がわからない。震える唇で恐る恐る「もう一度、お願いします」と聞かれたから、普通に同じ単語を繰り返した。ステーキ定食の、弱火でじっくり。何も間違っていないはず。サイカさんが言っていた通りの言葉なのに、どうしてそんなに不可解そうな顔でこちらを見ているのだろうか。
ぱっと目の前の彼女が、カウンターの向こう側にいた店主と思わしき人物に視線を送る。示し合わせたかのように目配せを交わした二人はひとつ頷いて、改めたように女性店員の方が振り返った。空席に座ろうとしていた私の腕を唐突に引いて、店の奥へ連れて行こうとする彼女に戸惑うしかなくて。大量に頭の中に疑問符を浮かべながら、何かしてしまっただろうかと考えたけれど、やっぱり何も思い当たらなかった。
「あ、あの……?」
「ごめんね、まさかこんなに小さな女の子が来るとは思わなくて……」
「え? そうなんですか……?」
「だって危ないでしょう」
危ない、とは。一人でお店に来るのは、そんなに危険なことだろうか。極一般的なお店だったと思うけれど、と店の外観や内装を思い起こしていると、「ここで待っててね」と彼女がある部屋の前で立ち止まった。ドアノブを捻って中に入ると、部屋の中央にあったテーブルの上にすでに焼かれているステーキが見える。随分と準備が早いな、と思う。私が注文をしてから、まだそんなに時間は経っていないのに不思議だ。
「じゃあ、私は行くわね」
「はい、案内してくださりありがとうございます」
「ううん。あなた若いのにすごいわね。ハンター試験、頑張って」
「はい、がんばりまーーえ?」
返事をして、はたと気づく。あれ、と違和感を覚えて、その正体を掴む頃には目の前の扉はぱたりと閉じられていた。彼女を引き止めようと、中途半端に伸ばした手が宙を彷徨う。ドアの閉まった音が空気に溶けて消えた瞬間、はっと我に返った。
「……え? 待って、今、だって、え?」
ハンター試験って言ったの……?聞き間違いじゃない、よね。確かにそう言っていた。どういうことだろうか。私が入ったのは定食屋だったはずなのに。想定外のことに思考が追いつかなくて、ついため息をつくと頭を抱えた。とりあえず、ゆっくりと椅子に近づいて座ってみる。途端にがこん、と何かが作動する音が鳴って部屋全体が揺れるものだから驚いて肩が跳ねた。地震でも起きたのだろうかと焦って辺りに視線を走らせると、壁についている画面が次々と数字を表していく。どうやらこの部屋自体がエレベーターになっており、今まさに地下へと向かっているようだった。
地震ではなくて安心はしたけれど、これで引き返すことはできないと理解して少し心臓がひやりとする。覚悟はしていたはずだった。いくら流れに身を任せるように進んで来たとはいえ、ここを目指したのは一応は自分の意思で。それなのに、やはり怖いものは怖くて、身が竦んでしまう。口を開けばすぐに弱音が出るとわかっていたから、それを押し込むように目の前のよく焼けたステーキの欠片を口に含む。ごくりと飲み込んで、卑屈な感情ごと消してしまえたらいいのにと思った。
それにしても、サイカさんはこの場所が試験会場に繋がっていると知っていたのだろうか。“ステーキ定食”と“弱火でじっくり”。別段珍しくもなさそうな単語なのに、これを聞いた時の店員の反応は今思い返してもやはりおかしかった。あくまで想像だけど、おそらくこの部屋に入るための合言葉のようなものだったのだと思う。サイカさんが教えてくれなければそのメニューは頼まなかったし、そもそもこの定食屋にすら訪れなかったかもしれない。そう考えると、やっぱりサイカさんがハンター試験と無関係だとは思えなくて。
ふと、「周りの声に耳を傾けなさい」と言ったマスターの声が脳内を過ぎる。まさか、と思う。まさか、彼女のことを言っていたのだろうか。いやでも、単純に周りの話をよく聞くように、という意味合いかもしれないし、深く考え過ぎるのもよくない。何より、サイカさんにハンター試験の話は一切していなかったのだから、私へそういう類の言葉を送るのはあまりにも不自然だった。ぶんぶんと首を振って考えを外へ追い出す。きっと奇跡のような偶然だったのだろう。
最後に残った一欠片をフォークで突き刺して口へ運ぶ。美味しかったはずの味はあまりわからなかったし、少しだけ固くなってしまったような気もした。ごくり、とまた嚥下した時、ずっと続いていた部屋の揺れが収まった。部屋の数字も止まっているから、きっとここが目的地なのだろう。勝手に開く扉を前に、なんだか急かされる気持ちになりながらも、ぐっと足に力を込めてその先へ踏み出した。