永遠にも感じられた僅か数秒間。原作の登場人物という圧力に負けないよう必死に作っていた笑みがいよいよ頬の痛みで崩れそうになった頃。
頼むから何か喋るか、立ち去ってくれという願いが通じたのか、否か。彼はぽつりと言葉を紡いだ。
「君はすごいですね」
それは、思わずこぼれたような、しみじみとした声色だった。視線は私ではなく、角が一部欠けたケーキへと注がれている。彼が先程語っていた「私の(作った)スイーツ」とはこれのことだったのだろう。今思えば、味が似ている時点で気づくべきだった。
ほんの少し前までは昔を想起させる懐かしい宝物を発見したようで心が躍ったのに、今となってはその高揚はどこかへ消え去り見る影もない。青天の霹靂。天国(というと言い過ぎかもしれないが)から地獄へ。とにかく最悪の気分である。今日は間違いなく厄日。人目がなければ全力で床に沈んでいたかもしれない。
「一口食べただけで、そこまで味がわかるだなんて」
「……そんなことありませんよ。さっきのは本当になんとなくで……。しかも失礼でしたね、味が似てるだなんて」
キラキラと輝いて見えたケーキなんて、たぶん幻だった。今、目に映るのは禍々しいオーラを放つキーアイテム(原作ルートフラグ)のみ。あらゆる意味で触れたくない。
張り付きそうになる喉を震わせ、声を振り絞る。眉を下げ、いかにも困った風を装い、愛想笑いを作った。そうして、当たり障りのない平凡な反応をしていれば、その他大勢に紛れ込める気がしていた。
必死だった。彼の記憶に微かでも残りたくなくて。
「(私はモブ……村人B……)」
しかし、大変なことになったなあ。どうやってこの場を凌ごうか……。つらつらと並べた大嘘も、相手が信じてくれないと意味がない。
この身体が覚えている祖母のスイーツの味と、彼の作ったケーキの味が似ていると思ったのは本心だ。そして、それが個人の主観的な意見にとどまらず、実際に似ていることも、その理由も、原作を知っているが故に察しがつく。
一番の懸念は、祖母の経歴がバレる可能性があることだった。彼には原作知識などという奇怪なものはないだろう。ないけれど、彼には“アンリ・リュカス”として生きてきた今までの記憶や経験が存在しているはずだ。“私”とは違った視点で得た、祖母と過ごした記憶や経験が──。
「いえ、気にしていませんよ。お祖母様は今もお店を?」
「……いいえ、二年前に亡くなって。お店は他の人が継いでやっています」
「失礼、悲しいことを思い出させてしまって……」
いや、今それどころじゃないので。いけないことを聞いたとばかりに片手で目元を覆う彼を横目に、何か打開策はないかと思考をフル回転させる。
これ以上、話を続けて失うものはあれど、得るものなど何ひとつとないだろう。多少強引でも会話をぶった斬り、早く逃げるべきだ。それが自分にとって最善だとわかっていた。わかっていて、なおこの場を去れないのは単純に足に力が入らないからだった。念のため否定しておくが、断じて原作キャラとの別れが惜しいわけではない。
そうこうしているうちに、ふう、とため息のような吐息が空気を揺らした。ぎくりと肩が跳ねる。澄んだ瞳がじっとこちらを見つめていた。理知的な光が目に焼きつく。隠された真実を暴こうとしているような、妙な恐ろしさがあった。
「……失礼ついでに聞きますが、その亡くなったお祖母様は若い頃にパリに留学していませんでしたか?」
「さあ、どうだったでしょう……。昔の記憶なので、あまりよく覚えてなくて」
「そうですか……。では、“聖マリー学園”という名前に聞き覚えはありませんか?」
ちくしょう、この人全く引き下がらねえ……!!
聞き覚えだと……? そんなものあるに決まっているだろう。こちとら前世で作品として触れてた上に、今世はそのお祖母様の血縁者なんだわ。むしろ、聞き覚えしかねえんだよ。
とはいえ、ここで「あっ、そうです。その学園です」とか素直さを発揮するわけにもいかない。祖母の出身校が伝わるだけに終わらず、彼の中で『すごい人』として認識されている彼女が、私の血縁者であると勘づかれてしまうかもしれない。というか、高確率でそうなる。だって、この人の話の食いつき方異常だもの。
え? まさかのここから原作ルート??
笑えない冗談はやめてくれ。まだ間に合うはずだ。このフラグをへし折りさえすれば、まだ……!
「……いいえ、聞き覚えはありません」
「なに言ってるの? お姉ちゃん?」
──は?
「聖マリー学園はおばあちゃんが行ってた学校でしょ?」
「なっ、つめ……!」
なに言ってるの、はこちらの台詞だが??
もはや血を吐きそうな心地だった。いつの間にやらそばにいたなつめのきょとんとした顔を凝視し、愕然とする。一瞬にして色々な感情が爆発した。嵐のように吹き荒れ、波が押し寄せ、けれどもあまりの仕打ちに言葉が続かない。あれほど口に出すまいと気を遣っていた禁句が、呆気なく彼の耳に届けられてしまった。
反応を窺うために恐る恐る視線を動かす。そこには、やはり驚いたように目を見開く“アンリ先生”がいた。
「(終わった──)」
今度こそ終わった。やっぱりエンカウントした時点で詰んでたんだ。ああ、何かの間違いで聞こえてなかったとかいうミラクル起きないかな。ないか。
テーブルの空白を意味もなく見つめる。気分は燃え尽きて灰になったそれだった。
こんなにも彼にとって都合のいいことばかりなら、ひょっとすると抗うことのできない謎の力は本当に存在するのかもしれない。原作をなぞろうとする世界の流れのような、何かが。
♦︎
『祖母が聖マリー出身である』という真実を知ったアンリ・リュカスは、水を得た魚のようであった。それはもう、ぺらぺらと語る語る。曰く、彼女は偉大な人であるだとか、尊敬しているだとか……エトセトラエトセトラ。
正直、まともな精神状態ではなかったので、何を力説されようとろくに記憶に残らない。
ちなみに私を背後から刺してきた妹はというと、ひとのトレーからさらりとケーキを強奪し、かと思えば用は済んだと言わんばかりにさっさと戻っていった。話題に対する言及はそれ以上なく、心の中でさめざめと泣いた。更地にするレベルの爆撃をしておきながら(彼女は無意識だろうが)この地獄を放置し、挙句の果てには好物まで奪っていくという鬼畜の所業。姉は致命傷です。
「実は、聖マリーの創立者であるマリー・リュカスは僕のひいお祖母さんです。ですから、同じ学園で学んだ君のお祖母様と僕の味が似ているのは当然です」
「へ、へえ〜……そうでしたか……」
「一口食べただけでそれがわかるなんて、やはり君はすごいです」
目を細め、柔和に微笑んだ彼の流れ弾に当たったらしい周りの女性が小さく歓声を上げた。反対に、私は心底冷え切った気持ちで口を閉ざす。彼が楽しそうに、嬉しそうにすればするほど、首を真綿で締められていくようだった。
だって、すごくなんてない。味が似ていることを指摘できたところで、それは“いちご”の力に他ならないのだから。
この称賛が本来であれば彼女に贈られるはずだったと思うと、やるせなくて。つらくて。苦しくて。立場を奪い、理由もわからず、この世界に存在する自分は一体何なのか、と。そう思うと、もうだめだった。
「お嬢さん、お名前は?」
「…………天野、要です」
「あなたの舌に敬意を表して、僕の新作ケーキを一番に食べてもらいましょう」
それからのことはあまりよく覚えていない。
ただ、ぼんやりとした意識の中で、やたら様になるウインクを最後に見た気がする。名前を教えたのは無意識だった。諦めとか、原作に関わることを良しとしたわけではなくて、単純に茫然自失に陥っていたからそれが悪手だと判断できなかった。
手際の良いプロの動きが、遠い昔の祖母の姿と重なる。まだ前世を思い出してなかったあの頃。口にしていたスイーツたちは今よりいっとう美味しかった。
「どうぞ。召し上がれ、要」
ふと、気がついたら、目の前に美しいケーキがあった。優しい桜色。赤々とした形の良い苺。天使の羽のような繊細なチョコレート細工。
その麗しい見た目に誘われてか、はたまた古い記憶に感化されてか。つい手を合わせていた。
「……いただきます」
もし、未来の私が過去に戻れるのだとしたら、たぶんこの瞬間の私を止めるだろう。それほど救いようのない大失態だった。うっかり名乗ってしまったことが些末に思えるくらいに。
言い訳をさせてもらえるなら、この時の私は非常に疲れていた。“アンリ先生”という原作においての超重要人物との予想外の接触。願いとは裏腹に長引く会話。原作に足を突っ込んでいるという焦燥。何より、“いちご”が得るはずだった夢のきっかけと第一歩を、他でもない自分が侵しているのだという実感と罪悪感で精神的に参っていた。
とにかく、私はやらかした。彼のケーキを食べてしまったのだ。
「──驚きました……このケーキの名は“初恋”。少女の初恋をイメージして作ったんですよ」
しかも、あろうことか正解を引いた。この場合の正解とは、もちろん私にとってのではなく、彼を喜ばせる回答(感想)という意味である。
しかし、困ったことに自分が何を語ったのか一切覚えていない。プロが作ったものならまずいということはないだろうが、どうやら注意散漫な状態で勝手に口が回ったらしい。
だらだらと内心で冷や汗をかく。驚きに目を見張る彼の瞳に期待の色を見つけて、ぞっとした。
「僕のイメージをここまで感じ取ってくれるなんて……。要、素晴らしい味覚と感受性だ」
「(やばいやばいやばい)」
どうせなら見当違いなことを言って幻滅されてしまえばよかったのだ。そうなるようにわざと言葉を選べばよかった。今更、現実に焦点を合わせても遅すぎる。最大のチャンスを棒に振った予感がした。
胃の辺りが痛い。頭も痛い。ぐわんぐわんと高速で巡る思考は、状況を打破しようとする走馬灯に似ていたかもしれない。
不意に、彼がぐっとこちらに身を乗り出してきた。僅かに興奮したような様子で。真っ直ぐな視線を携えて。
途端、警戒レベルがマックスまで引き上げられた。上手い返しを考える余裕も、体裁を取り繕う暇もなかったから、この直後の私はこんな時でもブレることのない指針に従って反射した。『原作に関わるのだけは阻止しなければ』という使命のような本音に従って。
故に、こうなった。
「要、聖マリー学園に来ま──」
「イヤですけど」
「え」
「え」
しーん。遠ざかる喧騒。訪れる静寂。吹き荒れるブリザードを幻視した。
なお、食い気味に台詞を遮られた彼はというと、切れ長の両目をきょとりと丸くし、ぱちぱちと瞬かせていた。
嫌よ嫌よも嫌に決まってる
(え? “好きのうち”??)
(どうあがいてもそれはない)