とても強い既視感があった。
 目の前に佇む男性にも、彼を含めた場景にも、己を取り巻く状況にも。その全てに見覚えがあって、同時に本能が逃げろと警鐘を鳴らしていた。実際に体験したことはない。でも、確かに知っている展開だったから。


──これって、もしかして原作の最初……?


 漫画か、はたまたアニメか。この世界がどちらに準ずるものかはわからない。かの物語は、それぞれで話の流れや内容に違いがあるのだ。こと細やかな原作知識があれば良かったが、あいにくとそこまでの記憶力はなく、それと判断するだけの材料に欠けていた。
 しかし、いずれかの原作で見たことがあるのは間違いなかった。かつて第三者として、わくわくしながら傍観していた記憶がだんだんと甦っていく。白昼夢を揺蕩うような曖昧な感覚が、理解したくないと拒む脳内を押し退け、鮮明な現実へと重なっていく。


「(あ、終わったわ)」


 警戒はしていたはずだった。物語に関わりたくないと心にも決めていた。回避しようと努力もしているつもりだったし、原作知識がゼロではない以上できるとも思っていた。
 甘かった。していた『はず』でも、している『つもり』でも、結果がこのありさまなら意味がない。あるいは、自分でも気づかぬうちにどこかで楽観視していたのかもしれない。

 “いちご”以外では成り立たないから大丈夫だ、と。
 “私”が原作と関わることなどありはしない、と。

 何の根拠もないそんな甘えがこの不幸を招いたように思えてならない。
 だって、振り返れば『なつめの発表会』も『スイーツフェスタ』も原作に出てくるイベントと同じだ。どうしてもっと早く気づけなかったのか。わかっていたなら、こんなところ近づくことすらしなかったのに。


「失礼、顔色が悪いようですが……」


 ふと投げかけられた声に肝を冷やした。「お姉ちゃん?」と不思議がるなつめの呼びかけがずっと遠くに聞こえる。
 心臓が痛い。嫌な汗が背中を伝う。血は巡っているはずなのに、それとは逆に体温が急速に冷えていく。微かに手が震えるのは寒さだけが原因ではない。極度の緊張で喉がひりつく。まるで、金縛りのようだった。今すぐここから逃げ出したいのに、得体の知れない恐怖に苛まれた体は全く言うことを聞いてくれない。
 もう、何が最善かわからなかった。どうすればいいのか。何をしてはいけないのか。思考が凍りついて、上手く働かない。ただ、取り返しのつかない大きなミスをしたことだけは痛切に感じていた。


「っ……だ、大丈夫、です」


 それでも、かろうじて声を振り絞ったのは、僅かに残った理性が沈黙は不自然だと訴えたからだった。とはいえ、咄嗟に装った平静はほとんど形になっていない。震えも、吃りも酷く、これでは冷静でないことなど相手に筒抜けであろう。
 対照的に、男はやや心配を浮かべているものの、依然として優雅さは消えていなかった。相手に見つめられようが、さらにその相手が彫刻の如く固まろうがあまり気にならないらしい。
 たぶん、見惚れられること自体に慣れているのだろう。(私の場合は決してそんな理由ではないのだが)彼はたいへん見目麗しいので。

 何にせよ、人の顔を見たまま固まるのは気まずいし、印象も良くない。そろり、と。ぎこちなさを隠すべく、できる限り自然を意識して視線を逸らす。
 直後、目に飛び込んできた情報に、またもや度肝を抜かれた。


──“アンリ・リュカス”と“聖マリー学園”。


 知っていた。わかっていたけれど、自分にとっての最悪を改めて肯定される衝撃は計り知れなかった。
 上記の二つは、彼の胸元の名札に刻まれている文字だ。これで確定してしまった。眼前の男が何者なのか。他人の空似かもしれないという淡い期待があっさりと打ち砕かれる。
 ああ、やはり彼は“アンリ先生”なのだ。
 主人公に大成するきっかけを与えた重要人物。あの“いちご”の才能を見抜いた彼女の恩人であり目標。


「(詰んだ──)」


 現実逃避って、良い言葉だよね。
 この時の私は果てしなく遠い目をしていた。と、のちになつめは語る。


「ふふ、すみません。突然話しかけて驚かせてしまいましたか? 君が私のスイーツをあんまり美味しそうに食べてくれるので、嬉しくなってしまって」
「……」
「それに少し気になったこともあり……つい声をかけてしまいました」
「……」


 もはや、何も返す気力もないこちらを知ってか知らずか、彼は愛想よくふわりと微笑んだ。もしかしたら、場の緊張を和らげようと大人の対応をしてくれたのかもしれない。
 キラキラスマイルにばっちり引っかかったなつめは「わあ……」と小さく感嘆の声をもらしている。私はその間にそっと顔を伏せ、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。脳に酸素を送り、少し落ち着いた頭で状況を捉えてみる。

 こっち見てんじゃねえよ、とか思わないでもなかったが、申し訳なさそうでいて嬉しそうでもある表情を見るに『つい話しかけた』というのはあながち嘘ではない気がする。ならば、人として世間話程度に対応すべきだろうか。そもそも、彼には関係ないこちらの事情で邪険にするのも可哀想だし、良心が痛む。
 うん、これはただの接客だ。心を殺せ。
 やや肩の力を抜き、相も変わらずいやに速い鼓動を無視し、控えめに顔を上げる。瞬間、彼と目が合い、どきりと心臓が跳ねた。一応言っておくが、当然トキメキの類ではない。


「……気になること、というのは……?」
「はい。先程の会話をたまたま聞いてしまったのですが、君たちのお祖母様はパティシエールなんですか?」
「え、あ……ええっと」


 前言撤回。応じるべきではなかった、世間話。

 ど、どどど、どうする??
 回避、とにかく回避しないと……。この返答に正直なものを選んでみろ。その時にはきっと、見事に原作ルートに嵌まる予感がする。それだけは勘弁してほしい。


「違いま──」
「そうですよ!」
「(な、なつめぇぇえええ!!)」


 嘘だろ、こんな近くに刺客が……!?
 とんでもない爆弾発言に唖然として、ひゅっと小さく息を呑む。
 確かに今世の祖母はパティシエールだ。自分のパティスリーだって持っていた。
 だから、彼女は本当のことを言っているにすぎないし、そこに悪気なんて微塵もないのだろう。わかっている。わかっているが、タイミングが悪かった。おまけに相手も悪かった。


「いえ、あの、パティシエールと言っても小さなお店でしたし、そこまで有名ではな──」
「やはり、そうでしたか。少し時間をいただいても?」
「すみませんが忙し──」
「どうぞ! わたしは席外してますから!」
「ちょ、なつめ……!?」


 おい待て、どこに行く。こんなにも絶望した姉(仮)を置いて、どこに……!
 てけてけ、と軽い足取りで両親の元へと向かう後ろ姿に強いショックを受ける。最後に見えた彼女の顔はキラキラと輝いていた。極上のイケメンオーラに魅了されてしまったのだろうか。
 それはそうと、お二人とも人の話をちゃんと聞いてもらっても?? なんで二人だけで勝手に進めるの? あれ、もしかして私いま存在してない??

 はは、とその場凌ぎの乾いた笑いが口からもれる。残されたのは、互いの顔を見ながら微笑み合う男女だった。しかし、それは断じて甘い少女漫画のようなものではなく、片や冷や汗と共に顔を引きつらせ、片や憎たらしいほどに綺麗な笑み(おそらく悪意はない)を浮かべている謎の空間であった。
 さよなら平穏、ようこそカオス。

デイドリーム・キラー
(ことごとく退路が塞がれていく……っ!)
(ああ、夢ならどんなによかったか!!)