全私が泣いた『“アンリ・リュカス”遭遇事件』より、数時間が経過した頃のこと。
場所を移し、自宅にて──原作の圧力という名のハリケーンが再来していた。
「あら……! 聖マリー学園の講師からスカウトされるなんてすごいじゃない!」
「あの男の人かっこよかったな〜。ね、お姉ちゃん」
「待て待て、寮生活なんてパパは心配だぞ……」
もう更地のレベル。悲しいったらない。
この惨状を脳が理解することを拒んでいるのか、盛り上がる彼らの声は雑音に等しく、ことごとく嫌な方向に転がる現実には眩暈がするようだった。頭を抱え、がっくりと肩を落とす。この世の終わりに直面したみたいな深いため息をついても、当人を置き去りにした家族会議は無情に続いてゆく。
事の発端は、些細なことだった。
熱烈な、いや、言葉を選ばなければしつこい“アンリ先生”から渡された『聖マリー学園のパンフレット』をゴミ箱に捨てただけ。
誤解のないように付け足しておくが、決して喜んで受け取ったわけではない。彼がそれを差し出したタイミングと帰宅の時間がミラクルバッティングしてしまい、“アンリ・リュカス”と“いちごの家族”を顔見知りにしたくなかった私は焦りに焦り……。
結果、パンフレットを受け取ることで会話をぶった切り、強制終了させるに至ったというわけだ。この瞬間に金縛りが解けたのは不幸中の幸いであった。
そうして、帰宅後。パンフレットは本来の用途を一切果たすことなく、ゴミ箱へと収まった。……はずだった。
否、間違いなく捨てたのだが、端的に言うとゴミ箱から拾われた。
何を言ってるかわからないと思うが、私も何をされたかわからなかった。正直、頭がどうにかなりそうだった……。
「(普通、捨てたものわざわざ拾うか??)」
風呂上がりのさっぱりとした気分でドアをくぐった刹那。捨てたはずのパンフレットをわいわいと囲む家族を目の当たりにした衝撃といったら──! 温まった体が急速に熱を失ったのは言うまでもないだろう。
楽しそうにページを捲る母。記憶の中のイケメンにうっとりしている妹。私が家を離れるという想定で勝手に青ざめる父。
誰かこの人たちを止めてほしい、切実に。しかし、願ったところで救世主が現れるはずもないとわかっているので、しぶしぶ重い口を開く。
「……盛り上がってるところ悪いけど、私は行かないからね?」
「えー! せっかくなのにお姉ちゃん勿体ないよ〜」
「そうよ、要。あなたはケーキだってそれなりに作れるじゃない。こういうチャンスは掴まないと」
「ね、あなたもそう思うでしょう?」と、父へ問いかける母は何故かノリノリだった。頷かせようとする強い意志を感じる。
こうなっては唯一反対している父に全てがかかっていた。どうか意見を押し通してくれと応援しながら様子を見守る。彼は気まずそうにそっと母の強い視線から逃れた。あ、ダメそう。
「お、俺は寮生活なんて賛成できないぞ……寂しいし」
「あなたねえ……!」
案の定、否定の材料が弱いと判断された父は母の怒りを買った。すっくと立ち上がった彼女はぷりぷりしながらどこかへ消え、かと思えばその肩に厳ついゴルフラケットを担いで戻ってきた。その姿はさながら不良の如く。
「ご自分は趣味で好きなことをやっているのに、娘の行動を縛れるとでも思っているんですか」
「いや、それは……」
「この前も新しいものを買ったんじゃなくて?」
ぶんっ! と風を切り、振り下ろされたゴルフラケットが父の目と鼻の先で止まる。こわ。
先程とは違った意味で青ざめた彼は、ごくりと喉を鳴らすと諦めたようにため息をついた。
「……わかったよ、賛成する」
「わかればよろしい」
「わーい! やったね、お姉ちゃん!」
「えっ。待って待って。私は行かないってば……!」
何もよろしくないっての!
父が折れてしまった以上、残る反対派は自分ひとりとなった。このままでは望まぬ学園生活に突っ込まれてしまうという焦りから顔面蒼白になる私の隣にゴルフラケットを手放した母が腰かける。
そうして、彼女は小さい子供に言い聞かせるように、優しく宥めるような口調でゆっくりと話し始めた。
「私はね……要がやりたいことをやってほしいと思ってるのよ。……あなたにはいつも我慢させていたでしょう」
「そんなこと──」
ないよ。そう続けようとした言葉は、母の真剣さを帯びた瞳に射抜かれ、どうしてか喉に詰まってしまった。緩慢な動作で、それ以上言わせないみたいに、母が首を振る。罪悪感を滲ませたような、複雑で、控えめな笑みだった。
「あるのよ。知ってたわ……。なつめばかりに構っていたから、あなたは寂しがってた」
「……それは小さい頃の話だよ」
「そうね。でも、だからこそ、その頃の要がおばあちゃんと一緒に楽しそうにケーキを作る姿を見て安心したわ。この子にもちゃんと好きなことがあったって」
「!」
どきりと心臓が跳ねる。何故か、核心を突かれたような心地がした。
記憶を揺さぶられ、当時の感情が甦る。
昔の私は──前世の記憶を思い出す前の私は祖母と同じ場所に立つことが夢だった。その職業の内容も、大変さも、何もわかっていない頃の漠然とした憧れ。社会の厳しさも、この世界の理も知らない。可愛くて、残酷で、愚かな自分。
小さな頃に胸の奥底で想い描いた夢は、今では考えることも烏滸がましい禁忌となった。けれども、それは、確かにかつての自分が求めていた理想でもあった。
無知は罪である。もっと早い段階で前世を思い出せていたなら、自分の立場を弁えていたのなら。きっと、こんな虚しい気持ちにも、厄介な状況にもならなかったのに。
「……やりたいことをやるべきよ。要はケーキを作ることも、食べることも、人より大好きなんだから。きっと大丈夫」
頭の中で声がする。幼い子供の声が。
──おばあちゃん、わたしね……!
この世界の主人公を犠牲にして自分が成り立っているのだと気がついて、必然的に捨てた夢。
思い出すな。拾い上げるな。もう、未練なんてない。あってはならないのだから。
──わたし……パティシエールになりたい!
思い出すな……!!
「っ……ごめん、今日はもう寝るね。その話はまた今度……」
慰めるように頭を優しく撫でてくれる母の手から逃れ、みんなの反応を見る余裕もなく自室へこもった。この場にいたら何を口走るかわからなくて。
スイーツは好き。甘いものを食べるとほっとする。幸せな気分になる。
作るのも好き。趣味の範囲だけれど、想像したものが形になるのは楽しい。それを口にした人が美味しいと笑顔になる瞬間は、もっと格別。
でも、それだけだ。
それだけでなくてはいけない。
これ以上を求め、本格的に原作と関わるような事態になったら──。そう思うと怖くてたまらなかったから。
だから、私は耳を塞ぎ、目を逸らし、頭の中の幼い自分を丁寧に押さえ込みながら眠りについた。現実逃避といえば、それもまた正しいのかもしれない。とにかく一度休んで、考えを整理する時間が欲しかった。冷静になりたかった。
まさか、この選択が更なる絶望へ繋がっているなんて、思いもよらなかったのだ。
「は? い、今なんて……?」
「あら、何度聞いても変わらないわよ」
翌朝。前日の夕飯を抜いたためか空腹で目が覚めた。
途中まではいつも通りの食卓だった。別段気に留めるものなどなく、朝食を用意してくれている母の姿をぼうっと眺めて、ふと。おかしな発言を耳にしたのだ。寝起きの頭が少しづつ覚醒していく。
やや不服げな父の表情。食パンを頬張り意味ありげにニマニマする妹。意志の固そうな母の眼差し。
とてつもなく嫌な予感がした。
「え……? なに……冗談だよね??」
「冗談でこんなこと言わないわよ」
続けて母はこう言った。
「いい? 要は“聖マリー学園に編入する”ことになったの。行くからにはしっかり学んできなさいね」
「は…………はあ〜〜〜〜!!??」
それは間違いなく、とどめの一言であった。
思わず柄が悪くなったのも、食欲が消え失せたのも、もはや仕方のないことである。
M・H・5
(マジで・憤慨・5秒前)
(あれよあれよと話が進んでいく……)
(当人を置き去りにするのやめてもらっていい??)