三日目の夕暮れ時がやってきた。もう慣れた森の中を抜け、いつもの川を渡ると、昨日と同じように木に凭れている彼がいた。こちらを見るなり、また驚いて、それから何故か呆れまじりの複雑そうな表情になる。比率としては驚きが三割くらいで、昨日の方がいっそ大袈裟なくらいびっくりしていたはずだ。彼も慣れてきたのだろうか。
「イミゴくんはずっとこの四津村に住んでるの?」
「そうだよ」
「へえ、そっかあ。学校はどうしてるの?」
四津村にはなさそうだから、どこか遠い場所まで通っているのかな。そんな何気ない疑問に、彼はぴしりと一瞬だけ固まって、「行ってない」とひどく硬い声で告げた。「え?」と、つい溢れた音が風にかき消されて、思わず彼を見つめる。昨日と同じ場所に腰掛けてしばらく俯いていたけれど、やがて口元に柔らかく弧を描き、こちらを見返す。でも、と彼の唇が音を紡いだ。
「オレにとっての先生みたいな人はいるから、そういうのには困ってない。だから、勝手に悲観するなよ。オレはこれでも納得してる」
ーー本当に……?
思わず問いかけそうになって、慌てて言葉を呑み込んだ。嘘ではないのだろう、と思う。けれど、本心でもなさそうな微妙な声色の変化に、どこか無理に感情を抑えているような、そんな気がして。胸の辺りがずきりと痛む。また余計なことを聞いてしまった。唇を小さく噛み締めて俯く。彼は綺麗に笑っているのに、私の方が上手く表情を作れなかった。
「…………事情があってさ、村の外には出れないんだ。生まれた時からずっと……四津村以外の場所に行ったことがない。だから、学校にも通ってない」
「……」
「おい、なんか言えよ。別にこんなことじゃ怒ったりしないぞ」
わかってる。そんなことはわかっている。ひたすらに優しい声音が鼓膜を揺らして、穏やかな口調に何故だかひどく涙腺が刺激されていく。きっと涙を流そうものなら、ぎょっと肩を跳ねさせる彼の姿が容易に想像できたから、ぎりぎりのところでなんとか堪える。彼が自分の中で折り合いをつけていることに、他人が首を突っ込むのはお門違いというものだろう。
よし。前向きに、前向きに。心の中で呪文のように唱えて、ありがとうと小さく笑いかけると、彼はあからさまにほっとしたような顔をした。
「じゃあこの先……もしも出られる日が来たら、どこか行きたいところとかある?」
四津村の外に行けない理由はわからないけれど、仮にこの村のしきたりのようなものだったとしたら、いつかそんな日がやって来てもおかしくはない。来てほしい、と勝手ながら思ってしまう。本当はこの話題を終わりにした方が良かったのかもしれない。それでもあえて会話を続けたのは、彼がわざわざ気にしていないフリをしてくれたからだった。
「なんだよ、どっか連れて行ってくれるのか? ……とは言ってもなあ、出たことないから何があるかもよく知らないし。この村以外だったら、どこへでも行ってみたいかもな」
「どこへでもかあ、世界一周とか?」
「いきなり規模がデカすぎるだろ」
夕焼け空を眺めながら、夢を語るように軽い調子で言葉を繋げていく。その様子は先程とは違っていて、随分と明るく楽しげに見えたから、やっぱりこっちの方がいいなと思う。全てを受け入れて諦めたように納得して、無理に綺麗な笑みを作るより、よっぽど。
「それにしても、もしも出られたら、か。今まで考えたこともなかったな。仮に出られたとしたら……あ、会ってみたいやつなら一人いる」
「え、ほんと? どんな人なの?」
「さあ、それは俺も知らない」
肩を竦めてみせた彼に、それもそうかと納得する。知らないからこそ、会ってみたいのだろう。
「おまえの学校ってどんなところ? やっぱ、楽しいもんか?」
「普通の学校だよ。四津村と比べたら、人数は多いだろうけど」
「そりゃそうだろうな」
「楽しいかは……どうだろう。あんまり考えたことなかったな。毎日、勉強勉強で嫌にもなるし、今はちょうど進路にも悩んでるし……」
「うげ。そっちに居ても結局苦労は付いて回るもんなんだな……」
「そっち?」
「いや、なんでも。それより、進路っておまえいくつだよ」
訝しげな彼の問いに中学一年だと答えると、悩むにしては早くないかと返ってきて思わずこくりこくりと全力で頷いだ。そう、そうなのだ。やっぱり進路について、ああだこうだと頭を抱えるにはまだ早いはずだ。少しだけ愚痴のようになりつつも、母に早めに考えておいた方が良いと言われていたことをそのまま伝えると、彼は「へえ、大事に思われてるんだな」と眩しいものでも見るかのように微笑ましげにしていた。
「でも、何を考えても違う気がして。全然まとまらないの」
「焦るなよ、まだ時間はあるだろ。そうやってたくさん悩む時間を作るために、ナマエの母親はわざわざ一年の時から考えさせるようにしたんだろ」
「悩む時間を作るために?」
「そう。二年になってから考えるやつと比べたら、ナマエの方が一年も長く進路を選んでいられる」
「それって、良いこと……?」
自分にとっては苦しい時間が長引くだけのように聞こえた。考えるだけで気分が滅入る。確かこの旅行もどきは私の気分転換も兼ねていたのだった。今のこの状況では、全然そんな気はしないけれど。あまりにも深刻な表情をしていたのか、こちらを見ていた彼がおかしそうに笑う。
「ばか。変に考え過ぎるなよ。今さっき、おまえが俺にしてくれたみたいに、自分のやりたいこととか好きなことを考えていれば、自然と方向性くらいは決まるんじゃないか」
「……確かに、そう考えてた方が気持ちが楽かも」
「だろ?」
「うん……うん、ありがとうイミゴくん。もう少し頑張ってみる」
「頑張りすぎて、知恵熱出すなよ」
「出ちゃうかも」「おい」笑い声の混じるテンポの良い会話が、暗くなり始めた空に溶けていく。茜色が占めていたはず上空のキャンバスは、いつの間にやら遠くに藍色が滲んで、まるでグラデーションのように見えて。とても綺麗で、心が洗われるような気分になるけれど、それは同時に別れの時間が迫っていることを示唆していた。この色には毎回、ひどく切ない気持ちにさせられる。
「……そろそろ暗くなってきたな」
「……うん」
「迷子になる前に帰った方がいいぞ」
「さすがにもう迷わないよ」
そう言いつつも、なんだか名残惜しくて腰掛けている位置から動けずにいると、不意に彼がすくっと立ち上がりずんずんと向こうへ、私の帰り道の方へ一人で進んでいく。突然のことに呆然とその背に眺めるだけになっていたら、足音がついてこないことに気づいた彼が少し先でこちらを振り返った。
「何してるんだよ。早く来ないと日が暮れるだろ」
「え?」
「……送ってく。じゃないとおまえ、ずっとそこにいそうだから」
その意を汲めなかったからなのか、むっとへの字を描いた唇に、慌てて彼の元へと駆け寄る。無意識に鼓動が速まったのは、きっと急に動いたことだけが原因ではなかった。ほんのりと浮かぶ熱を感じながら、二人でゆっくりと川のそばを下って行く。会話は特になくて、ただひたすらに無言だった。それでも、決して嫌な沈黙ではない。ずっと続けばいいのに、なんて非現実的なことが脳裏を過った頃には、短い帰路は終わりを迎え、いつも行き来している場所に立っていた。
「……この川さ、ちょうど四津村と隣村を区切ってるって知ってるか?」
「うん、お母さんに聞いたよ」
「こんなに小さくて大したことない川なのに、俺はこの先には行けない。バカみたいだよな。自分にとって当たり前で、もう慣れた常識なのに、改めて突き付けられると変な気分になる」
山際に沈みかけた夕焼けを反射させて、透き通った水面が淡く輝いている。私にはそう見えるけれど、彼にはその緩やかな流れが、向こう岸への僅かな隔たりが、一体どう見えているのだろう。静かに川を睨みつけながら、淡々と自嘲気味に言葉を漏らす。その様子は私に聞かせるためというよりかは、ただ単に胸に堰き止めていた想いがふと溢れてしまったような、そんな印象だった。
ともすると、彼が泣いているような気さえして、ぎゅっと両の拳を握る。少し前の彼の言葉を脳内に呼び起こす。震える声を無視して、無理やりに前に押し出した。
「いつか……いつかきっと、行けるようになる時が来るよ。だから、その時は一緒に、“どこへでも行こう”」
何が正解かはわからなかったし、きっと何も正解ではなかった。でも、それでも。無茶苦茶なことを言っていたとしても、無責任なことを言っていても、そこに込める想いだけは本物だった。本気でそうなることを心から願っていた。
お面で隠された奥の瞳と目を合わせるようにじっと根気強く見つめていると、一度薄く開きかけた唇が、思い直したようにぐっと一文字に引き結ばれる。何かを堪えるように、葛藤するように逡巡して、やがて根負けしたみたいに彼の肩から力が抜けた。口元にとびきり優しい笑みが浮かぶ。そうだな、と吐息にも似た囁きが小さく鼓膜を揺らして、思わず緩みきった表情でうんと頷きを返した。
「……おまえといると自分の立場を忘れそうになる。普通の、なんてことないただの人として、過ごしている気分になる」
「立場……?」
聞き返した単語に、彼はただ曖昧に笑うだけで答えてはくれなかった。
「それは、俺にとっては悪いことばかりじゃない。でも、一緒にいることに慣れて、これ以上ナマエを巻き込んでしまったら……。手遅れにでもなったら、俺はこの先ずっと、自分を許せなくなる」
ーーだから、もう。
彼の話す内容はときどき難しくて、そのほとんどをきっと私は正しく理解できたことがない。それなのに、この先に続く言葉が何なのか、この時ばかりは何故だか察せられて、ほぼ反射的に「待って」と声をあげていた。台詞を遮られた彼が驚いて口を噤み、そのまま静かにこちらを見下ろす。無理に邪魔をしたのは私だというのに、あくまでも待ってくれている彼の優しさが胸の奥に淡い痛みをもたらした。口の中でもごもごと言葉を探して、纏まらないままに声を紡ぐ。
「わ、私、明後日の朝には元の家に帰るの。だから、イミゴくんに会えるのはどの道明日が最後で……」
「……」
「私と会うことが、イミゴくんにとって良くないことで、無理を言って困らせてるのもわかってるよ。わがままで、ごめんなさい。でも、ずっと楽しかった……本当に楽しかったの」
「……俺も、楽しかったよ」
「さ、最後に……どうしても渡したいものがあるの。大したものじゃないけど、今までのお礼に。それを渡したらすぐに帰るから。だから、お願い」
明日、もう一度だけ時間をください。そう言って誠心誠意頭を下げる。ぎゅっと祈るように瞼を閉じて、しばらくの沈黙に耐えかねてきた頃、不意に深いため息が聞こえて肩が跳ねた。顔上げろ、そう言われた通りに体を起こして彼を見ると、想像していたよりもずっと真剣な表情を浮かべていて。約束を交わす時のそれと無意識に重なる。
「わかった。明日、もう一度この場所に来るから、それが終わったらすぐに帰ると約束しろ」
「……約束する。ありがとう」
「それと、もう一つ。元の生活に戻ったら、もう二度と四津村には来るな」
「え、」
「おまえのことだから、日を改めて来てもおかしくないし、釘を刺しておこうと思って」
「当たってた?」悪戯な笑みを浮かべて、そう言う彼は、見た目とは裏腹に随分と残酷なことを突きつけてくる。だってそれは、本当の意味でもう会えないということだ。どうして。思わずこぼれ落ちる疑問を、彼はまた曖昧に黙殺して、ナマエのため、といっそずるいくらい優しい声で甘やかに囁いた。
「これが守れないなら、明日も会えない」
「〜〜っ、わか、わかった……」
「ははっ、うん、よし。イイコだな」
明らかに渋々頷いたのに、それでも彼は腰に手を当てて満足げに口角を上げる。容赦なく迫る夜がせっかく綺麗な彼の表情に影を落としていく。あんなにも暖かかった茜色はどんどん追いやられ薄くなっていて、夕暮れ時の終わりを示していた。これ以上はもういけない。完全に日が落ちる前に帰らないと。
もやもやとする気持ちを抱えながらも、川を越えようと一歩近づく。また明日、と恒例化した挨拶を一方的に告げて、向こう岸に片足を踏み入れたのと、後ろから彼の声が聞こえたのはほぼ同時のことだった。
「……またな、ナマエ」
私はこの日、彼から最初で最後の“また”の約束をもらった。