四日目(1)



四日目のまだ夕暮れには早い時間のこと。私は母と共に山道を登っていた。最初の日に見た四ツ目神と彫られたあの大きな石。その神様を祀っている神社が四津村にあると、そう母から聞いて無性に気になってしまったのがきっかけだった。

四つ目と言われて自然と思い浮かべるのは、もう見慣れてしまった彼のお面のこと。四ツ目神社と呼ばれるその場所と、四つ目のお面をつける彼が、何らかの繋がりを持っているような気がして。彼の秘密を暴こうだとか、神社の関係者に話を聞こうだとか、変に詮索するつもりはなかった。ただ、深い結びつきがありそうな神社に興味を惹かれて、そこに行ってみたいと思っただけ。言わば、観光客のそれと近かっただろう。

けれど、これは失敗だったかもしれない。そんなに遠くないと聞いていた割にはなかなか登って来ているし、余裕をもっていたはずの時間も今となっては心許なかった。空を見上げると、そこ彼処に目一杯に伸びた枝の隙間からまだ青い空が見える。あまり遅くなったら約束の時間に遅れてしまうから、神社に着いたとしてものんびりとは見ていられなさそうだ。場合によっては辿り着く前に帰る選択肢すらある。

二人でぽつぽつと会話を交わしながら、午前中に来るべきだったと後悔し始めた頃。不意に目の前が開けて、奥に“四ツ目神社”と掲げられた鳥居が現れた。ようやっと辿り着いた安堵と達成感、それから辺りに咲き誇る真っ赤な彼岸花の群生が彼とのいつもの場所を想起させて、高揚した思いのまま駆け寄って鳥居を潜り抜ける。

それにしても、本当にすごい彼岸花の量。あの場所よりも、こちらの方がずっと多くて壮観なくらいだった。赤色の主張があまりに激しくて、いっそ眩しいほどに。しばらくその景色に見惚れていると、ふと差し込む日の光がいつの間にか夕焼けを思わせるオレンジ色を孕んでいることに気づき、はっと我に帰った。


「ごめんね、せっかく来たけどもう帰る……って、あれ?」


言いながら鳥居を振り返った先に、果たして母の姿はなかった。お母さん? と、もう一度呼びかける声が神社の纏う清廉な空気に溶かされていく。おかしい。つい先程まで会話をしていて、ましてや見失うほど離れてはいなかったはずなのに。この一瞬で、どこに行ってしまったというのだろう。

慌てて辺りを見回す。さわさわとやけに冷たい微風が肌を撫ぜ、樹々をざわめかせ、彼岸花を揺らしていく。人影はなく、生き物の気配さえも感じられなくて、まるで世界にたった一人取り残されたような心地になるほどに、この神社はひどく静かだった。大袈裟かもしれない。けれども、急激に寂しさに襲われたら、もうだめだった。


「……ナマエ?」


ひやりとした嫌な予感が身を竦ませて、ただ呆然とその場に立ち尽くしていると、不意に背後から名前を呼ばれた。リィン、と聞き慣れた軽やかな鈴の音がする。探していた母の声ではない。この数日間で慣れ親しんだ少年の声が、ほんの少し疑念の混じった形で投げかけられて、鳥居の外を眺めていた視線をまた神社の奥へと戻していく。

そおっと慎重に、あるいは怯えたように振り返る様は随分と滑稽だったかもしれない。けれど、その先に立っていた不思議なお面と青い和装の見慣れた姿を視界に映した途端、そんなことはどうでも良くなった。ほっと無意識に肩の力が抜ける。ひとりぼっちだったところに知り合いを見つけて安心したのだろう。ここで彼と会うことまでは想定してなかったけれど、とりあえず母を見なかったかを聞いてみよう。

そう思って一歩踏み出すと、それまでぽかんと口を開けていた彼がびくりと反射的に下がり、詰めた分の距離をしっかりと保ちつつ「バカ!」と唐突に叫んだ。え? 間抜けな私の声はどうやら彼には届かなかったらしい。


「なんで……っ、なんでおまえがここに居るんだ!」
「なんでって、言われても……」


今までにない鋭い声に思わず怯んでしまう。その問いにだって、神社に来ようと思ったから、としか言えない。けれども、この状況で彼がそのままの答えを求めているとも思えなくて、考えあぐねた末にただ首を傾げる。こんなにも取り乱した彼は初めて見た。わなわなと震え、全身全霊で何かを訴えている姿はひどく焦っていて、必死な様子だった。

訳もわからずに戸惑うしかできなくて、黙って彼を見守る。はくはくと意味のない呼吸を繰り返し、言葉を探しては取り止めて。しばらくもどかしそうに葛藤していた彼は、やがて震える唇から声を絞り出した。


「か、えれ……」
「え? なあに?」
「っ今すぐ、帰れ!!」
「えっ」


ぐっと拳を握りしめて、先程よりも大きな声で叫ぶ。この数日間ではやっぱり見たことのない姿だったから、すぐに反応ができなくて放心していると、ずかずかと奥から歩み寄ってきた彼が私を通り過ぎ、早足で鳥居を抜けて行ってしまう。その背を見送りかけて、昨日と同じように送ろうとしてくれているのかもと思い至ったとき、慌てて彼を呼び止めた。


「イミゴくん、待って!」
「なんだよ、もたもたなんてしていられないぞ」
「す、すぐに帰らないといけないのはわかったよ。会ったらすぐに帰るって、今日はそういう約束だったし……」


そもそも、こんなところで会う予定ではなかったけれど。いつもの場所で会うつもりだったから予想外に直面して戸惑っていたのもあり、彼の気迫に驚いていたのもあり、さらに何やら怒らせてしまったのかもと不安にもなり。母の姿もどこかへ行ってしまったし、わからないことだらけで、つい落ち込むように声が萎んでしまう。歩き続けていた彼は不意にぴたりと立ち止まり何かを呟いたようだったけれど、追うことをしていなかった私には聞き取れなかった。


「あの、一人で来たわけじゃないの。お母さんと一緒だったんだけど、急にいなくなっちゃって……」
「……母親と?」
「そう。だから、帰るにしても先に探さないと入れ違いになっちゃうかも」


やっとこちらを向いてくれた彼に安堵して、少しだけ距離を詰めて事情を説明する。母とこの神社を目指していたこと。ほんの数分前までは一緒にいたこと。神社の鳥居を潜った後に母の姿がないと気づいたこと。一つ一つを話す度にだんだんと彼の表情が優れないものに変わっていき、心配すると同時に少なからず不安も煽られた。


「イミゴくん、大丈夫……? 体調悪い?」
「いや、大丈夫……。俺はおまえの母親のこと見かけてないけど、多分探すよりもナマエが帰った方が早いと思う。とにかく、一刻も早くここを出るぞ」
「あ、ちょっと……!」


探すよりも帰った方が早いって、どうしてそんなことがすぐにわかるのだろう。母とはぐれて時間もそれほど経ってないから、向こうだってまだこの辺りを探していそうなのに。お互いが闇雲に探すよりも、家に帰って待っていた方が確実ということだろうか。確かに説得力はあるけれど、この山は一本道だったはずだから、家に着く前に母と合流できてしまえそうだ。

先程、母と登ってきた道を今度は彼と下っていく。数メートル先にある、ひとつに束ねられた髪がゆらゆらと尻尾のように揺れている。赤いリボンが僅かに風に靡き、鈴の音がころころと心地良い。そうは思うのに、なんとなくいつもの彼とは雰囲気が違って見えて、なんだか近づき難かった。というよりも、少し前に思い切り“帰れ”と怒鳴られていたから、私が勝手に思い出して気まずくなっているだけだ。

もう慣れたこの一定の距離がいつもよりももっと遠くに感じられて、これが彼との最後になってしまったらどうしようと、そんなことばかりがぐるぐると脳内を巡る。なんて話しかけようかと迷っていると、ふと歩調を緩めた彼が「さっきは怒鳴って悪かった」とこちらを見ないままに小さく呟いた。あまりのタイミングの良さに思わず立ち止まる。心を読まれたのかと思った。

止まった足音に気づいたのか、そのまま彼もその場に留まり、ゆっくりと振り返る。お面がなければ、同じように気まずげな表情をしていたのかもしれない。そう思えるほどに先程とは違う申し訳なさそうで、ほんの少し恥ずかしさを混ぜたような雰囲気を纏っていて。ようやっと緊張が解ける。自然と表情が綻んで、首を横に振って否定した。


「ううん、いいの。最初はびっくりしたけど、何か理由があったんでしょう?」
「そりゃ、まあ……」
「だったら、いいよ。もう気にしてないから」
「……さっきまで気にしてたのか」
「それはイミゴくんがあんなに焦ってるの初めて見たから」
「あ、焦るに決まってるだろ! まさか神社に来るとは思ってなかっ……あ〜〜」


余計なことを言ったとばかりに、ふいっとそっぽを向いた彼が低く唸る。おそらく誤魔化しが効かないところまで喋ってしまったのだろう。出会った最初の頃のミステリアスな印象と比べると、もう随分と仮面が剥がれてきている気がした。お面はずっと変わらずしたままだけれど。

ただ彼の素を見られることが楽しくて。何よりも彼にとっての自分が、普段通りでいられる相手であることが嬉しくて。それが、ひどく特別なもののようにも思えて。そう感じる度に、ひとつひとつを積み重ねる度に、胸がぽかぽかとあたたかくなる。

神社に重大な秘密があったとして、それが仮に彼と関わっていたとして。そのことを隠す彼を数日前の私だったら無理に問い詰めていたのかもしれない。けれど今は、そこに何らかの理由があることを知っている。そうすることで、真実から遠ざけることで、守ろうとしているものがあると知っている。だったら私は、その想いを汲み取りたい。


「……そうだ。今更なんだけど、携帯で連絡すればすぐに会えるかも」


彼にとっての失態を聞かなかったことにして、代わりに携帯をポケットから取り出す。今まで忘れていたのは本当だった。あまりに身近な方法すぎて、逆に非常事態に思いつかないなんて不思議なものだ。果たして、携帯の電源がつかなくて軽く絶望したのと、ぼうっとこちらを見ていた彼がくすりと笑って元の様子に戻ったのはほとんど同時のことだった。


「あ、こんな時に充電がない……」
「ふっ……、多分電源がついたとしても意味ないよ。電波が通じないと思う」
「え、そうなの? 山奥だからかなあ」
「それもある。こんな田舎だからな。ほら、さっさと帰るぞ」
「うん」


いつも通りの空気感が辺りを満たして、ふっと呼吸がしやすくなる。再び歩き出した彼の後を迷うことはぜずに追っていく。今度は無言が訪れても大して気にならなかった。大きな距離を感じることもない。昨日のあの帰り道と同じで、ひたすらに穏やかだった。

けれど、それも長くは続かない。しばらく山を下り、感覚的に入り口辺りまで戻って来たかと思う頃、突然彼がぴたりと足を止めて不自然に会話が途切れた。呆然とその場に立ち尽くし、上の方をじっと睨みつけている気がする。彼の背からそっと視線を外して、真似るように前を向いて、次の瞬間にはぽかんと間抜けにも口が開いてしまった。


「……うそ、なんでまた」


ーー四ツ目神社、と掲げられた鳥居がそこに佇んでいた。