どうしよう。ものすごく不可解なことが起きている気がする。目を擦ったり、瞬きを繰り返しても、最初に訪れた時に見た神社の鳥居がそのまま変わらずに存在していた。
やっぱりおかしい。確かに山を下ったはずなのに、麓ではなくて元の場所に戻ってくるなんて、どういう構造をしたらそうなるのだろう。あり得ない。その感想が真っ先に浮かぶけれど、今目の前で、自分自身が体験したと思うと、どうにも理解が追いつかなかった。
「〜〜〜〜っ、クッソ……!」
「イミゴくん!?」
それまで呆然と動きを止めていた彼が急に頭を抱えてその場に蹲る。驚いて反射的に駆け寄ろうとしたけれど、“近づくな”と言われていたことをぎりぎりで思い出して、蹈鞴を踏んで留まった。具合でも悪くなったのかと心配になるほど、ひどく追い詰められた様子で小さく小さくなっているから、今更彼に触れられないことがもどかしくなる。少し離れた位置からあわあわと意味もなく腕を動かしたり、顔を覗き込もうと試行錯誤していると、不意に髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた彼が震える声で独り言のように何かを呟いた。
「…………いつもは帰れてたくせに、ここがダメなのは神域だからか……?」
「え、なあに?」
「……どっちにしても境が曖昧になってるのは多分オレのせいでもあるよな、」
「イミゴくん? ねえ、大丈夫……?」
「あ〜〜もう、俺のバカっ!!」
「えっ! 本当にどうしたの!?」
がばっと勢いよく顔を上げた彼が、今度は額に手を当てて悄然と肩を落とす。最悪だ、とぼそりと嘆く彼の情緒はわからないけれど、唇を小さく噛み締めているのが見えたから、思わず「泣いてるの?」と問いかけてしまった。それまで、まるで一人の世界にこもっていた彼はやっとこちらを見つめて私を認識したみたいに薄く唇を開くと、すぐに取り繕うように強く引き結んだ。「泣いてない」と帰ってきた声はいつもよりも数段固かったけれど、もう震えてはいなくて少し安心する。自分で確認するように言ったくせに、それが当たらなくてよかったと心底思っていた。
「……とりあえず一旦神社に入ろう。帰る手立てを探す」
「でも、こんな意味のわからない現象どうにかできるの……?」
「それをこれから探すんだよ。これ以上おまえをここに長居させるわけにはいかないし、タガタなら何か知ってるかもしれない」
「タガタ、さん?」
誰だろう。彼もそうだけれど、また珍しい名前の響きだ。この神社の人だろうか。徐に立ち上がった彼は先程とは見違えるような、しっかりと意志を持った足取りで鳥居を過ぎていく。途中で神社の成り立ちと境内の案内図が書かれた看板があったから、何気なく横目に眺めていると、ふと「イミゴ?」と聞き覚えのない若い青年くらいの声がして、はっと視線を前に戻す。そこには、彼とよく似た若草色の和装と、深緑の髪を持った男の人がいた。
「タガタ。ちょうどよかった」
「うん? まだこんなところにいたの? いつもならもう……あれ、そこのお嬢さんは? ……まさか」
「そのまさかだ。困ったことに神社から出られなくなった。帰る方法を知らないか?」
「……一応聞くけど、イミゴが自分から連れてきたわけじゃないよね?」
「は? そんなことするか」
「ごめんごめん、そうだよね。あんなに気を遣っていたものね」
最後の言葉につんとそっぽを向いた彼をおかしそうに笑いながら、タガタと呼ばれた青年がこちらに来て僅かに膝を折る。
「はじめまして、僕はタガタ。イミゴが夢中になってる女の子ってお嬢さんのことだよね。お名前は?」
「おい待て、タガタ。変な言い方するな」
「え、と……私は、」
私の名前、は。あれ……?
「ナマエ? どうした、体調悪くなったか?」
「あ、ううん。なんでもない。私は、苗字名前です。はじめまして」
「ナマエちゃんだね。安心して、帰る方法はちゃんとあったはずだから」
何故か一瞬だけ頭が真っ白になって焦ってしまった。自分の慣れ親しんだ名前のはずなのに、すぐに浮かばないなんておかしな話だ。神社から帰れなくなる、という不可思議な現象に直面して疲れていたのかもしれない。
「……あの、他の人も帰れなくなったことがあるんですか?」
「うん、本当にごく稀にだけどね。そういう迷い人のために、帰る方法を巻物に記してあるんだ」
「すぐに試せそうか?」
「どうだろう。でも、巻物は大切に保管してあるから、内容自体はすぐに確認できるよ。待っている間ここにいるのもつまらないだろうし、イミゴはナマエちゃんに神社を案内してあげたら?」
「そんな悠長なことしてる場合じゃないだろ……」
終始、柔和な笑みを浮かべていたタガタさんは彼の呆れた声に少しも臆することはなく、手慣れたようにあしらうと神社の奥へと戻っていった。あっという間に二人きりで取り残され、また静謐が訪れる。会話をしないでいると本当に森閑とした場所で、どこか現実とは隔絶されているような気さえした。視界の端で常に彼岸花がちらつくから、それも理由の一つだろうか。
「あ、お礼言いそびれちゃった……」
「また会うことになるんだから、後でいいだろ。案内云々は置いておいて、まずは手水舎に行くぞ。身を清めないと神社の中へは入れないからな」
「ちょうずや?」
「神社の入り口に大体設置されてるだろ。柄杓で水を掬って、手や口を清めるやつ」
「ああ、それなら知ってる。あれってそんな名前だったんだね」
程なくして境内の端に設置されていた手水舎に辿り着いた。身の清め方というか、手水の作法を今まで気にしたことがなかったから、手元と柱に掛かっていた説明書きとで視線を行ったり来たりさせていたら、横で見ていた彼にお腹を抱えて笑われた。曰く、必死な表情が面白かったらしいけれど、事実その通りだったのでただひたすらに恥ずかしくなる。結局、見かねた彼が指示をしてくれて、無事に身を清めることができた。きっと、これから先、もう二度と手水の仕方は忘れない。
「ふっはは、あー、手水で百面相する奴がいるとはな」
「笑いすぎだよ……もう忘れてってば」
「無理」
よっぽどツボに入ったのか、「これからここに来る度に思い出して笑う自信がある」と、名残でくすくすと笑いながら愉しげに囁く。涙を拭うような仕草もしていたから、さすがに羞恥が限界を迎えそうで咎めようとも思ったのに、彼のその言葉を聞いたら急速に衝動が萎んでいった。
それは、つまり。会えなくなった後でも私のことを少しでも覚えていてくれる、ということだろうか。そうだったなら嬉しい。そこまで考えて、慌ててその思考を振り払う。おかしい。今のは、明らかにおかしい思考回路だった。そういう深い意味を持つような会話ではなかっただろうに。
無性に恥ずかしい思いを抱いた自覚はあったから、不思議そうな顔をする彼からそっと目を逸らし、ちょうど良く足元に広がっていた彼岸花にあたかも興味を惹かれたように蹲み込んだ。じっと独特な形状の花を見つめて心頭滅却していると、少ししてから同じように彼が隣で小さく膝を折る。隣といっても、相変わらずしっかりと距離はとっていたけれど。
「……彼岸花、好きなのか?」
「え? ええっと、どうだろう……嫌いではないから好きに入るのかな。この神社にはたくさん咲いてるし、すごく綺麗だよね」
「まあ、見た目はな」
「イミゴくんは好きじゃないの?」
「俺? 俺は……多分あんまり好きじゃない」
そう言って、もの憂げに小さく息を吐いた彼が静かに彼岸花から離れていく。数歩後ずさった先で、徐にこちらを気遣うような柔らかな笑みを作った。でも、と唇が音を紡ぐ。
「ナマエが気に病むようなことは何もないよ。だから、そんな心配そうな顔しないでくれ」
「……そんな顔してた?」
「してた。モノの見方なんて、立場によって変わるだろ。俺は彼岸花好きじゃないし、ここらの群生を見て特別綺麗だとも思ったことなかったけど……」
「けど?」
「あー、いや、やめとく。なんでもない」
ものすごく気になるところで切られてしまった。自ら会話を断った彼はそのまま背を向けて、神社の奥へと逃げるように早足で進んでいく。慌てて立ち上がって追いながら言葉の続きを強請ってみたけれど、結局頑としてその先を教えてくれることはなかった。
ーーおまえがそう感じるなら、綺麗なのかもって。
「(……なに、小っ恥ずかしい台詞言おうとしてんだか)」