四日目(3)



狛犬の横を通り抜け、彼岸花と灯籠が灯る参道を進む。暖かな光が無数の花弁を照らし、ひどく幻想的で美しい景色なのに、どうにも気分は高揚できなかった。この数日間で浴びることに慣れた茜色の夕焼けも、今だけは時間の経過を示す無情なシステムのように思えて。沈んでいく太陽を目にしたら、ふと、不安に駆られてしまったのだ。

母とはぐれてどれだけ経っただろう。神社から出られなくなって、どれだけ。母は今、どうしているだろう。心配してくれているだろうか。そもそも、今の状況って何なのだろう。疑問をあげたら切りがない。彼のことも、タガタさんのことも、巻き込んで迷惑かけて。その上、手を貸してもらって。私は何をやっているのだろう。自分で望んでここに来たくせに、一体何を。

時間の経過と共に冷静にものを考えられるようになって、やっと大事になったのだと実感したのかもしれなかった。帰れるだろうか。その可能性に思い至ったら、想像したら、だめだった。唐突に力が抜けて、気力をごっそりと削がれたように、その場に立ち尽くす。自分が呼吸をしているのかさえ曖昧で、気にしていられなくて、茫然と考えが纏まらない。遠くで彼がこちらを振り返った気配だけがした。


「……ナマエ?」
「…………わたし、ちゃんと帰れるのかな」
「……それをこれから試すんだろ。どうしたんだよ、今更怖くなったのか?」


俯いてただ地面を見つめ、けれども焦点が合わなくてぼんやりした感覚に陥る。彼の茶化すような声は私を和ませようとしてくれたのかもしれないのに、上手く反応ができなくて。手が震える。私は今、ちゃんとここに居るだろうか。


「きゅ、急に、わからなくなって……怖くもなって。イミゴくんにも、タガタさんにも、たくさん迷惑かけて……自分で来たくせに、何してるんだろうって……」
「……」
「ばか、みたい……ごめんなさい、こんなこと、」


泣くつもりなんてなかったのに、勝手に頬を伝う涙に自分でも制御ができなくて。認めたくなくて、気づかれたくなくて、顔を上げられない。彼がどんな表情をしているのかはわからなかった。確認する勇気もない。それでも、いつまでもこうして悲観して情けない姿を見せて彼に呆れられたくなかったから、荒い手つきで目元を拭った。ハンカチを取り出す余裕がなくて、袖を押し当てたせいで少しひりついたけれど、視界が塞がれて僅かに安心もできた。

真っ暗な世界の外で、不意に「おい」と彼の声がする。動揺の色は想像よりも薄い。それよりも、リィンとこんな時でも軽やかで心地の良い鈴の音が、今までと比べてずっと大きく聞こえて。あまりにも近くから鳴ったように思えたから、思わず目を開けて視界を開けさせると、すぐ目の前に見慣れた青色が映った。予想外のことにぴしりと固まった体はそのままに、恐る恐る視線だけを上げていく。

四つの目と、目があった。唖然と口を開けて、瞬いた拍子にほろりと涙が一筋だけ伝い落ちる。彼が唇をへの字に曲げた。そんな小さな仕草もよく見えてしまうほどに距離が近くて。動揺しているのは私の方だった。いつもよりもずっとずっと、彼をそばに感じる。お互いの吐息も、呼吸も。衣擦れの音でさえ、聞こえてしまうくらいに。

驚きで目を見開いたのは、この状況もそうだったけれど、何よりも彼が自ら距離を詰めたことが初めてだったからだ。あんなに頑なに保っていたそれを、彼が守れといったそれを、彼自身が壊したから。

呆然として、目の前のお面をただぼうっと見つめていると、徐に彼が片腕を持ち上げた。青い袖が宙で揺らぐ。ゆっくりと、大切なものに触れるようにひどく丁寧な仕草で、彼の指先が私の前髪をすいた。そのまま輪郭に這う横の髪に流れ着き、優しく掬い上げた束を丁寧に耳へとかける。肌にはなるべく触れないように努めていたのかもしれない。そう気づいたのは、そのずっと後のこと。

今はただ、目の前のことに精一杯で、何が起きているのかよくわからないほどに混乱していた。“近づくな”と言われていたのに。“触れるな”と言っていたはずなのに。どうして、そんなにも優しく……。脳内の処理が追いつかなくて、自然と止まった涙に彼は少し満足そうに微笑んだ。しょうがない奴、とそう言われているような気がする。


「泣くなよ」
「イ、ミゴく……」
「心配しなくても平気だよ。ナマエは、俺が必ず帰すから。それに俺は迷惑かけられたなんて思ってない」


だからもう、泣くな。もう一度はっきりと伝えられて、余計に涙が溢れそうになるのを必死に堪える。彼のその優しさも気遣いも、全てはどうしようもない私を救うために与えてくれたものだと思うと、胸の奥がきゅうと甘く締め付けられる心地がした。そっと呼吸を整えて、目元をしっかりと拭う。いつまでも彼の前でみっともない姿を晒したくはない。


「……ありがとう、もうへいき」
「……擦りすぎて目元赤くなってないか?」
「え、ちがっ……これは……! み、見ちゃだめっ」


違う。これは、たぶん違う。泣いたせいで赤くなったのもあるかもしれないけれど、これはそれだけが原因ではないはずだ。指摘されたことによって、そして彼が様子を窺うために覗き込もうとしたせいで距離が近づいて、より頬に熱が集まった。慌てて顔どころか体ごと背け、背中を向けた状態で両頬に手を這わせる。掌からは平常よりも高い体温が感じ取れて、異様に恥ずかしくなった。もちゃもちゃと熱を逃すために頬を弄ぶ。


「………………」
「……あ、そ、そうだ! 昨日言ったイミゴくんに渡したいもの、持って来てるから今渡すね……!」


話題を、というよりもこの空気を変えたくて、今気づきましたと言わんばかりに声をあげる。実際、ここに来てからの目が回るような展開のせいで、忘れていたのは本当のことだった。タイミングと心の余裕がなかった、とも言う。大丈夫、頬の熱はだいぶ冷めてくれている。何故か無言でこちらを見つめていた彼に、ポケットから取り出した桜色のお守りを摘むようにして差し出した。もちろん手渡す時に触れないように、という配慮から。

先程、彼が自ら触れてきたからもうこの約束はいいのでは、という疑問は今は置いておく。考えないようにしていないと、ふと彼の指先の感覚を思い出してしまいそうで、たまらない気持ちになるのだ。


「これ、よかったら受け取ってほしいの」
「……お守り?」
「うん。お母さんに教えてもらって作ったお守り。今までずっと持ってたから、お下がりで悪いんだけど……でも効果はばっちりだよ」
「へえ、自分で作ったのか。結構綺麗だな。でも、いいのか? お守りなんてヒトにあげて」


自分のだろ。そう言ってなかなか受け取ろうとしない彼に「イミゴくんに持っててもらいたいの」と、急かすようにお守りを軽く揺らす。てこでも動かないのを察したのか、やっと彼が手を伸ばしてくれた。掌に落とすようにして渡す。「ありがと」と小さくお礼を呟く声に、「それ、縁結びのお守り」と何気なく解説すると、途端にぎょっと彼が面白いほどに体を強張らせた。


「っはあ!?」
「え、そんなに驚くこと? イミゴくん前に『会ってみたい人がいる』って言ってたでしょ? だから、ちょうどいいと思って」
「………………。俺は別にそいつと恋仲になりたいわけじゃないからな」
「う、うん? 縁結びって確か恋愛以外にも効くって聞いたから、その人とイミゴくんの縁が繋がればいいなって思った、んだけど……」


なんだろう。この微妙な違和感は。会話が噛み合っているような、いないような。首を傾げると、一拍置いた彼が大きくため息を吐いた。


「なんだ、縁結びが恋愛だけに限ったものじゃないこと知ってたのか。一般的にはそのイメージが強いし、てっきりそういう意味かと……」
「イミゴくんがその人に会えますようにって、しっかりお祈りしておいたよ。だから、きっと会える」
「……そう、だな。会えたらいいな」


お守りをそっと掌に閉じ込めて、ふわりと彼が口角を緩める。どこか含みを持った言葉のような気もしたけれど、それには触れずに柔らかく笑みを返した。男の子が持つには随分と可愛らしい色合いを贈ってしまった自覚はある。本当は配慮が足りないだろうかとも心配していた。それでも、そのお守りはよく馴染んでいるように見えたから、相変わらず彼は不思議な人だと思う。これで彼の願いを叶える手伝いが、少しでもできたなら。

その後、拝殿に行く道すがら。ずっと気になっていた“触れても平気だったのか”ということをはぐらかされる前提で聞いてみたら、あっさりと“少しなら平気”だと返されて驚き、さらに“そもそも、初めて会った時に思いっきりぶつかってるだろ”と続けられて、私は唖然と言葉を失うことになる。脳裏を過ぎる、木から落ちた彼の姿と、それを受け止めようとする自分の図。ああ、そういえば。完全に失念していた。