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「う〜……」
「……」
「あぁ〜……」
「……」
「んんぅ〜……」
「うるせえ」
「あうっ」


 カウンターの上に無造作に散らばっている本を摘み取った死柄木は、そろりと腕を動かすとネロの頭上でぱっと指を離した。
 次の瞬間、重力に逆らうことなく落下した本は容赦なく彼女の後頭部に直撃する。隣でだらしなく体を投げ出していたネロは、突然の衝撃に勢いよく身を起こし「あいたた……」と気の抜けた調子で患部をさすりながら恨めしそうに口を尖らせた。


「なにするんですか〜、弔くん」
「さっきからなんなんだよ。静かにしろ」
「だって暇なんですもん。手元の本は全部読んでしまいましたし……」
「全部……?」


 黒霧に入れさせた飲み物を口に運びつつ、ネロの言葉にすいと視線を向ける。
 軽く十冊以上はあるが、もう読み終えたのか? つい二日前に新しい本を買ってきたと上機嫌で帰ってきたのに。
 死柄木の視線の意味に気づいたのか、痛みから立ち直ったネロは(大して痛がってもいなかったが)ゆるりと綺麗に微笑んだ。


「思ったよりも面白くて、徹夜しました」
「あほか」
「ああ、それで顔色が少し優れないのですね」
「あり? 黒霧さんにはバレてましたか。いや〜、我ながらナイスチョイスだったと思いますけどね」


 言いながら散乱している本を一つ一つ手に取って語り出す。「これは勇者が活躍する王道ファンタジーで、こっちは学園ミステリーです。あ、何冊か漫画が混ざっているんですけど、お二人もきっと気に入ると思いますよ。それから、これは──」放っておけば全ての説明及び感想を並べるのは目に見えていたので、わかったわかったと少し鬱陶しそうに死柄木が止めに入った。


「黒霧、金出してやれ」
「いいのですか」
「静かになるならそっちのがいい」
「わかりました」


 交わされる会話に二人の顔を交互に見やりぱちくりと可愛らしく瞬いていたネロは、ずいと目の前に差し出された桃色の小銭入れにはてと首を傾げた。
 桜の花弁がワンポイントになったそれは彼女が一目惚れして即決した自分用の財布である。幾らか重量が増したように思えるのは黒霧が中身を恵んでくれたからか。


「いいんですか? つい先日もお小遣いもらったばかりですけど……」
「申し訳なく思うのでしたら、もう少し支出を抑えてください遊偽ネロ」
「ええ……! 次は本棚が欲しいと思ってました……ダメですかね」
「おい、これ以上本棚を増やすなよ。狭くなるだろ」


 元々広いとはお世辞にも言えない彼らの隠れ家は、バーのような風貌をしていた。
 その部屋に備え付けられた本棚は、一ヶ月程前に死柄木によって連れて来られた遊偽ネロ──ただ今ぽかぽかと死柄木に攻撃を加え駄々をこねている少女──が集めたコレクションで埋まりつつある。

 黒霧からすると可愛らしくじゃれているように見えるが、絡まれている方は相当うざかったらしい。ギロリと顔面につけた掌の隙間から冷たい死柄木の視線を受け、ネロはしゅんと縮こまった。
 しかし、彼女はそんなことでへこたれるほど柔な精神構造をしていない。一拍の後にぱっと上げた顔には緩やかに弧を描く口元と、良いことを思いついたと言わんばかりのいたずら心が見え隠れする瞳があって。

 ああ、最悪だ。
 彼女がこの表情をした時は決まって突拍子もないことを言い出すものだから、死柄木はそっと目を逸らすことで会話から離脱した。


「お引越しするのはどうです? もしくはリフォームとか!」
「「却下」」




「ちぇー、もう少し考えてくださってもいいじゃないですか。とんでもない即答でしたぁ……」


 とぼとぼと残念そうに路地裏を進むネロは、半ば追い出される形で買い物へと出向いていた。
 暇を潰すための新しい本を探しに行くのだ。あまり多く買うと金銭的にも本棚の残りスペース的にもあの二人に怒られてしまうのは先程の彼らの様子からわかっているので、前回店で見つけた気になる本の中からベストスリーを脳内に思い描き今日はそれを買おうとスキップで角を曲がる。

 数分前に死柄木と黒霧に要望を即答で断られたことは、すでに彼女の脳内から抹消されていた。それより今は未知なる物語に想いを馳せ、高揚していく気持ちのままに駆け出す──のがいけなかった。
 角を曲がり数歩先、前からの通行人と衝突してネロは勢いよく尻餅をついた。


「あうっ、すみません……」
「いって!」
「おい、どこ見て……って、あ? めっちゃ可愛い子じゃん」
「お、マジだ! 俺ツイてるわー」


 おお、チンピラさんです。
 一種の感動を覚え思わず口に出しかけた言葉だったが、状況を素早く察したネロは息を呑むにとどめた。
 ネロは確かに普通とはズレている。当然、彼女はそれを自覚しているし、その上、何を言い、どう振る舞えば相手にどんな印象を与えるのか理解してわかっていた。

 加えて、才色兼備なネロは器用な人間だった。自由奔放も天衣無縫も、品行方正だって、彼女にかかれば楽に模倣できてしまう。やろうと思えば、一般人に完璧に擬態することさえ容易であった。
 そうしたいくつもの仮面がネロにはあるのだ。誰も、彼女も、本当の顔がわからなくなるほどの精巧な仮面が──。


「ひっ、す、すみません……っ」


 小さく喉を震わせ、きゅるりと目尻に涙を滲ませる。戸惑いと恐怖の狭間で縮こまりながら、つと、自然な上目で二人を窺う。
 それはどこからどう見てもか弱い少女、そのものだった。

 この場に死柄木がいたなら戦慄して鳥肌を立てただろうし、黒霧がいたなら動揺で固まったはずだ。そのくらい普段の様子とは異なっていた。が、彼女を少しも知らない男たちはまんまとネロの策略に嵌まった。
 にやにやと品定めをするような下卑た視線が深まる。


「いいよ、いいよ。それよりキミ、俺らと遊ばない?」
「お互い怪我もなかったことだしさ、どっか遊びに行こーよ。な?」


 言外に「ぶつかってきたんだから断らないよな?」とか「大人しく着いてくれば手荒な真似はしない」などといった思惑が透けて見えていた。いいよ、と言っておきながら謝罪を受け取る気はさらさらないのだ。頷こうものなら、きっとろくな目に合わないだろう。
 不安の色をより濃く乗せるように表情を作りつつネロはそれらを正しく読み取り、内心で侮蔑した。どんなにふざけていようと本質は聡明な少女。関わったところで何の面白みも、成果もない内容に自ら進んで飛び込むような愚か者ではなかった。

 くだらないな。つまらないな。楽しくないなぁ。

 池に小石が投げ込まれ、沈殿した泥が舞うかの如く、腹の底で僅かに揺らぐ不快。しかし、完璧な仮面で覆い隠された情動に哀れな男たちが気づくはずもなく。
 怯えた(ように見える)ネロを捕まえようと片方の男が手を伸ばす、刹那。


「や……たすけてください……っ!」


 それまで息を潜めていたネロが声を振り絞り、必死に助けを求めた。同時に、距離を詰めてくる二人の奥へと視線を滑らせる。
 ただでさえ、声のトーンや調子を変えていた彼女の演技は偽物と判別がつかないほど正確だというのに、さらにはまるで誰かが背後にいるかのような動きを見せられては男たちも釣られずにはいられなかった。


「あ? 邪魔すんじゃねェよ──って、は??」
「? 誰もいねーじゃん」
「ハッタリかよ。キミねぇ、あんまり揶揄わない方が……おい、待て。あいつどこ行った……!!?」


 彼女の視線を追い振り返った先に誰もいないことに騙されたと苛つきながら、再びネロを見るも、そこはすでにもぬけの殻。小さくなり怯えていた少女の影はどこにもなかった。
 忽然と消えたネロに男たちはひどく動揺した。何せ、ネロのことを舐めきっていたので、まさか逃げられるだなんて考えてもいなかったのだ。


「な、なっ……! 嘘だろ、今の一瞬で逃げたってのかよ」
「そんな訳ないだろ……目ェ離したのは本当に一瞬だ。その辺の路地裏にでも隠れたんだろ」
「下手に出てればいい気になりやがって……。あの女、捕まえたらただじゃおかねー! 行くぞ!」


 ばたばたと見当違いの方向へ走って行く男たちを“上空”から見下ろし、彼らの標的であるネロはくすりと口元を歪めた。


「あれで『下手に出ていた』のですか……ふふ、驚きです。多少のからかいがいはありましたねぇ」


 ぺろりと唇を舐め、人差し指でそこをなぞる仕草はとても妖艶だった。男たちが目撃したなら、見惚れて顔を赤く染めていたことだろう。
 ここは、先程の路地裏と隣接していた建物の屋上。高みの見物を決め込むネロは己の演技で作り出した彼らの一瞬の隙を突き、あの場からここまで移動してきたのだ。文字通り一瞬で。


「それに思わぬ収穫もありました。もらっちゃいましたけど、別にいいですよね……?」


 必要以上に絡んできたのはあちらですし。
 言いながら、唇に触れていた手とは逆の手を持ち上げてひらひらと振るう。もう見えなくなった男たちに感謝と別れの意を込めて。


「ありがたくもらっておきますね」


 ネロの手に収められているのは二つの財布だった。
 そう、今もなお見つかるはずもない彼女を必死で探している男たちのものだ。

──“空間掌握テリトリー”。

 ネロが移動の際に使用した空間系の個性で、彼女の力の“ほんの一部”である。

綺麗な花には何とやら