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「君が遊偽ネロだね?」


 クク、と静かなバー内に不気味な笑い声が響く。
 不意に電源がつけられた画面にぽっかりと浮かぶ顔。目も鼻もないそれを顔と認識できたのは、その人物がこちらへと語りかけてきたからだった。

 それまで優雅にカウンターでお茶を楽しんでいたネロはそっとカップをソーサーに戻し、ゆるりと首を傾げた。
 はて、誰だろうか。
 ともするとポルターガイストのように思える危機的状況だったが、しかしネロはそうまでして姿を見せた人物が何者であるのか、という方が気になっていた。


「どうも、こんにちはです。初めまして、ですよね?」


 つと横目で窺う姿勢をやめて、くるりと丸椅子を回転させる。画面を正面にしたネロは、腰かけた状態をそのままに興味津々に身を乗り出した。「名前は……ご存知のようなので省きますね〜」呑気な口調を崩さず、口元に完璧な笑みを作る彼女の姿に、画面の男──オールフォーワンはほうと感心と興味の混ざる吐息をもらした。

 初めて会う不審人物が自分の名前を知っている異常事態。突然のビデオ通話。オールフォーワン自身の奇妙なナリ。その全てにまったく動じていないとは。
 やはりネロは相当変わっていた。


「もしかして、あなたが弔くんが言っていた『せんせー』ですか?」
「おや、聞いていたのかい? まあ、私が弔に君に接触するように言ったから、知っていて当然か」
「やっぱり、そうでしたかぁ。では、弔くんや黒霧さんに会えたのはあなたのおかげというわけですね。ありがとうございます〜、最近は退屈しないので楽しいです」


 ふにゃり、と力の抜けたような心からの笑顔。本心で思っていなければ作ることのできない純粋なそれは、まるで善悪の判別がつかない子供を相手にしているようで。オールフォーワンはクッと溢れる笑いを堪えきれなかった。

 ああ、本当にこの世界は! なんて馬鹿なのだろう……! きっと、とんでもない子を生み出してしまったことに気がついていないのだ!!

 弔といい、この子といい、先が楽しみで仕方がない。


「喜んでもらえて私も嬉しいよ。私が君を紹介したのに、挨拶が遅れてすまないね。見ての通り、こんな状態だからなかなか時間も取れなかったんだ」
「いえ、全く気にしてないので大丈夫ですよ〜。弔くんも『先生は忙しいから会えない』って言ってましたし。たまにしかできない連絡を私に使ってくださったのですから、むしろ光栄です」
「はは、そうか。そういえば、その弔が面白いことを実行しようとしているんだってね。何でも……“オールマイトを殺す”、とか」


 一般人が聞いていたなら間違いなくぎょっとする話題だったが、ネロはごく普通に「ええ」とだけ相槌を打った。二人にとってはなんてことない日常会話なのである。
 ソーサーから再びカップを手に取り、香りを楽しむようにゆらゆらと揺らす。ちゃぷ、と波打つ水面を見つめながら、うーんとネロは思案した。

 あのナンバーワンと謳われるヒーローを相手に、果たしてどう動くのが最良なのか。彼は『平和の象徴』という仰々しいシンボルそのものなのだ。それほどの存在を殺すのは簡単ではないだろう。そもそも、過去の実績だけで彼の強さを測ったところで、結局は実際に手合わせしてみなければ正確な実力はわからないのだ。
 ネロは以前、新聞で取り上げられていたヴィラン逮捕の記事を思い出していた。一面を飾るオールマイトがパンチを繰り出している写真。静止画では伝わってこないけれど、あれは間近で見たらどれだけの速さと威力なのだろう。非日常を想像するとわくわくする。

 高揚する気分のままに紅茶を一口飲み下す。「どうなるんでしょうねえ〜」ぽろりと独り言をこぼすと「失敗してしまうだろうね」と平静な声が返ってきた。返事を期待していたわけではないのだが、その答えに彼女はぱちりと大きな目を瞬かせる。


「およ? 弔くんの成功を望まないんです?」
「望んでないわけではないよ。ただ、今はまだ時期が早い。“今回”は失敗する。けれど、失敗は人を成長させるからね」
「まるで、子供の成長が嬉しい親のような感情ですねえ? まさか、本当に親子だったり?」
「聡いねえ。血の繋がりはないが、気持ち的にはその通りさ。弔のことは大事に思っているよ」


 ほへ〜、と気の抜けた反応を示し、ネロは何度か頷く。
 血の繋がりはない。そうは言っているが、死柄木を見守っているような発言は、そこらの親よりもよっぽど親らしいと感じていた。しかし、同時に他人の子供に対して正しく愛情を向けられる人間は少ないだろうとも思っていた。

 さて、彼はどちらのタイプに属するのか。
 オールフォーワンの思惑を無意識に探っていた彼女だったが、ふとそれより先に湧き上がった疑問に「でも」と心地の良い声音で囁き、首を傾げた。さらりと踊るように流れる艶やかな髪。相も変わらず真っ白の手袋を纏う指先が桜色の唇をゆったりと滑る。その様子は、絵画を切り抜いた瞬間のように美しかった。


「──わざと負けろというわけではないですよね?」
「ククッ、もちろんさ」
「よかったです。例え殺せなくとも、雄英に乗り込むなんて機会はそうあるものではないですから、すごく楽しみだったんですよ〜」


 朗らかに告げたネロは心配事はなくなったと言わんばかりにまたカップに口付ける。
 終始マイペースでとんでもないことを平然と紡ぐ肝の据わった少女を前に、オールフォーワンはそれはそれは愉しげに喉を震わせ、そうして「期待してるよ、ネロ」と一方的に言葉を残し、ぷつりと姿を消してしまった。


「……今のは嫌味でしょうか?」


 無人の画面にぱちくりと瞬くネロの姿が映る。勝てないとわかっていて期待とは、なんて人の悪い。ただの世辞だとしても何らかの含みを感じてしまう。しかし、ネロにとってはそこにどんな意味合いがあろうとダメージなどないに等しかった。楽しければそれで良いのである。
 唐突に始まり、唐突に終わりを迎えた通話を全く意に介さず、くるりとカウンターに向き直る。数分前と同じ静寂に包まれたバー内に、今度はネロの可愛らしい鼻歌が混じった。


「さてさて、そろそろ弔くんも黒霧さんも帰ってくる頃でしょうか? 雄英の内部情報を手に入れるって言ってましたけど……捕まってないといいですねえ〜」


 形ばかりの心配を述べたものの、その実ネロは少しも悲観していなかった。彼らの身を案じていないわけではなく、黒霧の個性を容易に封じることはできないだろうと思っていたからだ。空間系個性の利便さは己が一番よく知っている。加えて、雄英への侵入を妨げる強固なゲートは、死柄木の個性でもって楽に突破できるときた。

 雄英の誇るものなど、所詮はその程度。
  信頼 ヒーローは侵入されてしまった時点で、いずれ脆く崩れゆく運命だということに人類は気づくだろうか。

 それは、小さな小さな綻び。されど、王手への着実な一歩だった。

暗躍する影たち