いち



教室の中、四つ並んだ机の1番端っこに座って窓の外を眺めているとコツンと何か小さなものが頭に当たった。投げられた方を向くとヘラヘラと笑う白髪とやれやれと呆れ顔の長髪。その向こうの扉が開けば「自習だってー」と伸びた声で硝子がこちらに呼びかける。ああなんだかとても懐かしい、いつでもそこにあるようでもう2度と手が届かない。そんな当たり前にあの時は気付かなかった。





コツコツと近づいてきた足音で意識が浮上してぼーっとしていると勢いよく開いた扉。驚いて顔を上げると「あれ、いたの」と青い目と目が合った。五条はいつものアイマスクを首元に下ろしていて、久しぶりに見たその目からしばらく逸らせずにいるとニヤっと口角を上げて笑った。



「名前居眠りしてたでしょ、サボり?」




「跡ついてる」と自分の頬をつついて指摘され、慌てて手の甲で隠す。その様子を見ながら面白そうに笑う五条は私の側を横切りながらソファーにどかりと腰を下ろした。窓の外から見える空は真っ暗で、壁にかけられた時計は二十二時を過ぎている。確か十九時頃に送迎から帰ってきて報告書の確認をしていたはずだったが、そのままうたた寝してしまったんだろう。先程見たはずの夢も思い出せず、よっぽど疲れていたんだなと小さくため息を吐いた。目覚ましにコーヒーでも淹れようと立ち上がると「あ、僕のもよろしく」とこちらを見ずに手を振る五条を見て、人の心まで六眼は見えてしまうのかと驚いた。




この男はいつだってそうだ。

何をするにも言葉で言う前にお見通しのようで、買い物に出ようと歩いているだけで「コンビニ?アイスよろしく」だの、医務室に用があってすれ違った時も「あー硝子今外出中だよ」だの、目的も行き先も筒抜けなのだ。勘が良いのか目敏いのか。あまりにも不気味すぎて一度「それって六眼の能力?」と尋ねて大爆笑されたことがあり、馬鹿にされているようで何だか無性に腹立たしかったのでそれ以来そのことについて触れることはやめた。



「で、伊地知はー?人を呼び出しといていないってマジビンタ案件だよね」


「私が帰ってきてからは見てないよ。連絡は?きてないの?」


「さぁ?携帯充電切れたから分かんない」




テーブルの上の皿に盛られたチョコレートを摘みながら大して興味なさそうに答える。翻弄されている伊地知に心で同情しながらマグカップを2つ取り出したところで私の机の上で携帯が鳴った。それを当たり前かのように手に取った五条は画面を見てからそれを耳に当てる。



「苗字さん、お疲れ様です。あの」


「おーい、どこいんの?事務室来いってオマエ言ったよね」


「ひぇっ、ご、五条さん!?先ほどから何度も電話して「10数えるからそれまでに戻るか、用件話して。はいじゅーう、きゅーう」



「ちょ、ちょっと、待ってください!」




電話の向こうで慌てふためく伊地知の声に構わず数を数える男に呆れながら、後ろから携帯を取り上げると五条はソファーからこちらを見上げ不貞腐れた顔で口を尖らせた。勝手に人の携帯に出るな。


「お疲れ伊地知、戻りは何時頃になりそう?」

「あ、苗字さん…すいません二十三時には着くと思います」


「了解、五条は捕まえとくから安全運転で帰っておいで」


「ほんとに申し訳ないです…!よろしくお願いします」




そう言って電話を切った後に五条に振り返ると怪訝そうな顔でこちらを見ていた。「あまり伊地知を虐めないで」と言うとそっぽを向いた男を見てコイツは小学生かと心の声で悪態を吐く。そのまま携帯をポケットにしまって給湯室へ戻った。







「どーぞ」





マグカップと角砂糖の瓶が乗ったトレーを目の前に置いて私は自分のデスクに座る。ドボドボと湯気の立つコーヒーに落とされていく角砂糖たちを見ているだけで胸焼けしそうだと視線を目の前のパソコンに向けると「名前はさぁ」と徐に五条は口を開いた。




「…何?」


「…いや、何でも」


「何それ」



何かを尋ねようとして諦める、というのは五条の癖のようでよくあることだった。気にはなるけれど言い淀むようなことならきっと大したことではないんだろうと、私も気に留めることはしなかった。そのままパソコンから目を離さずやりかけの仕事を続けていると、大きな体をぐんと伸ばして立ち上がった五条がデスクの側に来て肩にのしかかると、一緒に画面を覗き込む。



「重たい」


「さっき伊地知に僕を捕まえとくとか言ってなかった?放置?」


「コーヒー渡したじゃん。大人しく飲みながら待ってなよ」


「釣れないねぇ」





そう言いながらマウスを掴む私の手の甲に乗せられたひと回り大きな五条の手。するっと指の間を掴まれて何だかむず痒くなり抗議するため「ちょっと」と振り返ると思ったよりも近くにあった顔にぎょっとして固まる。そのまま耳元に唇が触れるか触れないかの距離で五条はくすりと笑った。



「構って欲しいって言ってんだけど」




くすぐったさと恥ずかしさで勢いよく後ろに仰け反れば、手元に置いていたコーヒーカップにぶつかり「しまった」と目を瞑る。しかし陶器が割れる音だけが響いた後、淹れたてのコーヒーは私にかかることはなくポタポタとデスクから床へそのまま落ちていた。何事か、と思いふと手元を見て納得。



「無限…」

「あーあーハデにやったねぇ、無限なかったら大ヤケドだ」

「誰のせいで…!」


「あはは、ごめんて」




苛立ちを含んで五条を睨むと思いの外簡単に解放してくれた。両手を上げて一歩下がってからしゃがみ込んで落ちたマグカップの破片に手を伸ばす五条に慌てて声をかける。



「ちょ、いいよ私やるから」

「手怪我したらどうすんの、大丈夫。僕そんなヤワじゃないし」

「ヤワとかそーゆーわけじゃなくて」


「名前」


「え」



ふと顔を上げれば、一緒にしゃがみ込んでいる五条の目がやたら真剣な事に気付き言葉に詰まる。たまに会話の中でふとこういうことがある。私の名前を呼んでいるようで、目の前の私じゃない誰かに話しかけているような。私を通して誰かを見ているような、そんな不思議な感覚にさせるその青い目を見つめながら名前を呼べば、一瞬でいつも通りのヘラヘラ顔に戻り、笑った。




「拭くものある?床ヤバいね」


「え…あ、うん」



近過ぎず、遠過ぎずの微妙な距離感。今のこの距離感が居心地が良い。1日1回は会話をする、どちらかが出張であっても電話したり、こうやって帰り際に事務室に顔を出したり。同期であるから気にかけてくれているのかは分からないけれど、今のこの距離感が私は好きだったりするのだ。



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