(まずい)
私は駅から自宅への道を必死で走っていた。
走るにはけっして適していないヒールのあるパンプスでは思うように走る事は叶わなくてそれに苛ついた。
早く帰らなければ、時間を確認する為の腕時計を見ればギリギリの時刻だった。
(大丈夫、間に合う)
マンションのエレベーターは最上階に止まっていた。
それを待つよりもう階段を走って登ってしまった方が早い。
そう判断して私はヒールを脱いで4階まで階段をかけ上った。
汗で服が、髪が貼り付いて気持ちが悪い。
息も絶え絶えになる頃自室の扉の前についた。
鞄から鍵を取り出して鍵を開け扉の中へと滑り込んだ。
腕時計を確認する。
今日も予定通りの時刻に家に帰って来ることが出来たことを知り私は安堵のため息をついた。
玄関に倒れこむように座りこんだ。
汗を腕で拭う。
今すぐにでもお風呂に入って不快な汗を洗い流してしまいたい。
そう考えながら持っていた靴を玄関に揃えて置いた。
買ったばかりのストッキングは破れてしまった。
それはもう使い物にならないだろう。
私はその場でそれを脱ぎくしゃくしゃにして握りしめた。
「名前」
そんな時後ろから声をかけられた。
思わず私の喉がひゅっと鳴った。
呼吸を整えゆっくりと声のした方に振り返った。
恐ろしいまでに綺麗な顔をしたまるで天使のように整った顔をした男が私を見下ろしている。
「おかえり、名前」
「····ただいま、トーマス」
トーマスは笑顔を浮かべ私を抱き締める。
私の心拍数はどうしようもない程加速していく。
「····汗、凄いから、汚いよ」
「名前に汚い所なんてないだろう?」
トーマスはそう言って私の首筋に顔を埋め大きく息を吸うように匂いを嗅いだ。
そんなトーマスの行動に更に私は汗を吹き出した。
トーマスに顔が頸動脈のすぐ近くにあるという事実が恐ろしくてたまらなかった。
「今日も時間通りに帰って来られて偉かったな」
トーマスはその美しい顔で無邪気な笑みを浮かべる。
その笑みは私を愛してやまないと語っている。
「一緒に風呂に入ろうか」
トーマスはそう言って私の首筋を舐めた。
ぞわっと全身の毛が逆立つのを感じた。
震えそうな足になんとか力を入れて立ち上がる。
トーマスは私の手をとり脱衣場への連れていった。
トーマスに丁寧に服を脱がされ浴室へと足を踏み入れた。
シャワーで軽く身体を洗い流され既にお湯の張られた浴槽に入れられた。
トーマス自身もそこに入り私を後ろから抱き締めた。
「今日も良い子にしていたんだな」
トーマスは私の身体をまさぐりながら全身くまなく確認していく。
この時間は私にとってまるで裁判の判決を待つ罪人のような気分にさせる。
「言い付け守ってるし偉いな、あんなに汗だくになってまで走って帰ってきて、そんなに俺に早く会いたかったのか?」
一体私にいつトーマスが心配するような事をする時間があるというのだろうか。
だがトーマスのその言葉を聞いてようやく緊張を解く事が出来るのだ。
私の門限は午後7時45分だった。
仕事は7時に終わる。
すぐに会社を出れば歩いても7時30分には自宅に帰る事が出来る、そんな距離だ。
だが今日は上司に呼び止められたおかげで会社を出られたのは7時20分を少し過ぎていた。
何故大の大人の門限がこんなにも早いのか、だがそれさえもトーマスの譲歩の結果だった。
共に暮らす事になった時トーマスは私に仕事を辞めて毎日自分を自宅で迎えてほしいと望んだ。
けれど私は望んでいた仕事に勤める事が叶い数年が経ち心にゆとりも出来てきた頃だった。
だからこそまだまだ頑張りたい気持ちがあった。
いずれ結婚して子供が出来れば嫌でも仕事は辞めなければならない。
だからその時まではまだ辞めたくないと主張した。
トーマスはそれに難色を示しつつも必ずその時間に家に帰るという門限を条件に仕事を続ける事を認めた。
この時私はトーマスがどんな気持ちでその条件を提示したのか想像出来なかった。
一緒に棲み始め暫くしたある日帰宅時間が門限を5分程過ぎてしまった。
その日家に帰ればトーマスは信じられない程激昂し恐ろしい程罵倒の言葉を私にぶつけた。
ヒステリックに喚き散らし、折檻するように私を荒々しく抱いた、いや、あの行為にそんな生易しい言葉は相応しくないだろう。
そんな恐ろしい暴力を私に奮った後トーマスは思わず耳を塞ぎたくなる程たかが外れたように泣いたのだ。
何故自分を大切にしてくれない、何故自分を一番に考えてくれない、と。
私はそんなトーマスが恐ろしくてたまらなくて泣くことすら出来なかった。
ただごめんなさいと謝ることしか出来なかった。
自身にすがって泣きじゃくるトーマスの背に恐る恐る腕を回せば泣きつかれたのかそのまま私の腕の中で眠ってしまった。
そこにきてようやく私は緊張感が解け先程経験した恐ろしい体験を理解して涙を流す事が出来た。
何が起こったか分からなかった。
でもただただ恐ろしかった。
彼に愛されている自覚があった。
私自身も同じくらい彼を愛していた。
それなのに急変した彼を見て分からなくなってしまったのだ。
混乱した頭で必死で考えようとするも私の精神はあまりにも緊迫していてその負荷に耐えられなかった。
私はその場で気絶するように意識を飛ばしてしまった。
翌日目を覚ませば私はベッドの中にいた。
トーマスは私の隣で眠っている。
いつもと同じ可愛らしい寝顔をしていた。
その顔を見て私はとてつもない悪夢を見ていたのだと認識し、それに安堵した。
いまだすやすやと眠るトーマスの頭を撫でようと手を伸ばした瞬間私は硬直した。
自身の腕についた強い手形と傷痕に。
それは受け入れ難い昨日の出来事を事実だと物語っていた。
「起きてたのか?」
私に話しかけたその声に信じられない程心臓が大きく鳴った。
視線をゆっくりとトーマスの方に向ければトーマスは甘えるような視線をこちらに向けている。
「おはよう」
まだ眠そうな顔をしたトーマスが身体をのそのそと起き上がらせ私に顔を寄せそのまま頬に唇をあてた。
私は自身に近付くそれがとても恐ろしいものに思えて逃げ出したいと強く思った。
その対象にとてつもない恐怖を感じているにも関わらず私の身体はその恐怖に支配されそこを一歩も動けなくなった。
頬に唇が触れた瞬間昨日肉を断とうと言わんばかりに強く肩を噛まれた事を思い出した。
噛まれたのは肩だけではない。
身体のあちこちが痛みを訴えている。
自覚した途端じんじんと痛みを訴える傷口に普段当たり前のようにおこなっている呼吸の仕方さえも分からなくなって息苦しくてたまらなくなった。
昨日自分を散々痛みつけたその凶器のような歯がすぐ傍にある事に背筋がゾッとした。
「昨日は床で寝ちまってたからな、身体痛くねぇか?」
トーマスは何を言っているんだろうか。
その表情は昨日とはうって変わって穏やかだった。
その目からは私に対する慈しみさえ感じる。
硬い床で眠る痛みなんかよりもっと恐ろしい痛みを私に与えたことを覚えていないのだろうか。
そのあまりの変貌ぶりに昨日起こった事は全ては夢だったのだ、きっとそうに違いないと錯覚させた。
しかし思い込もうとする私の願望を身体中の痛みが否定する。
私の身体中に出来た傷痕が私を嘲笑う。
「昨日はちゃんと頑張れて偉かったな」
トーマスはそう言って私を抱き締めた。
それに怯えて更に身体が強張った。
「俺は名前の事大好きだから、だから悪い事をしたらちゃんとそれを叱ってやらなきゃならねぇ。
怖かっただろう?俺だって怖かったんだ、名前が俺なんかどうでもいいって蔑ろにしようとする事が。
そんなの許せないしあっちゃいけないことだろ?」
何を言っているのか分からない。
私がいつトーマスを蔑ろにしたというのだろうか。
ほんの5分遅くなっただけだ。
少し遅れると連絡も入れた。
それだけの事でトーマスは怒り狂って私を傷付けた。
なぜ自分がこんな目に合わなければいけなかったのか、それがあまりにも理不尽で涙がぼろぼろと溢れていく。
「怖かったよな?大丈夫だ。
名前が悪い事をしなければもうあんな事はしない、ずっとずっと名前だけを愛している」
私を抱き締めたまま頭に撫でる。
背に回された手の爪が背中を抉っているように錯覚した。
「ごめん、ごめんな、こんな俺で、でも俺には名前しかいないんだ。
名前以外はいらない、俺は名前だけを愛してる」
トーマスの言葉が重くのし掛かる。
涙が止まらない。
今心にあるのはトーマスへの恐怖ではない。
トーマスの背に腕を回した。
「大丈夫だ、ずっと一緒だ」
こんなにも動揺してしまう程にトーマスに恐れを抱いているのに私はトーマスを嫌いになれなかった。
その感情がただ純粋な愛情からくるものなのか分からない、それが怖いのだ。
私は恐怖で彼に縛られているのだろうか。
この恐怖の鎖はどこまで伸びているのだろうか。
未来が見えない。
「愛してる、名前」
私の頭をなで続ける大好きだったその手に怯えている事がただひたすら悲しかった。
トーマスの私に向ける感情が間違っているものであるのは分かっている。
それでも私を愛してくれていることに違いはなかった。
培った二人の思い出が私をそこに縛りつける。
この日私はトーマスへの強い愛を誓ったのだ。
「ごめんなさい、私もトーマスだけよ」
貴方といられるならどんな恐怖にだって耐えられる。
だからお願い、ずっと私を愛していて