「おはよう、トーマス」
俺が起きるよりも早く名前は起きていて既に身だしなみを整えていた。
俺がベッドから起き上がった事を確認して閉められていたカーテンを開いた。
憎たらしい程空は晴れていて先ほどまで暗かった部屋は途端に明るくなった。
「朝食出来ているから、顔を洗ってからおいで」
名前はそう言って俺の頬に唇を寄せ、寝室を出ていった。
先程名前の唇が触れた頬に触れる。
その感触も体温も既に残ってはいなかった。
洗面所に行き顔を洗いタオルで濡れた顔を拭った。
鏡に映る自分の顔を見た。
いつもと変わらない、その顔には俺の過ちを忘れるなと言わんばかりの傷痕がくっきりと刻まれている。
「トーマス、今日は紅茶に砂糖は入れる?」
「今日はいい」
朝食の並べられたダイニングテーブルの椅子に腰をかけた。
名前は俺の答えを聞いてからカップに紅茶を注ぎ俺の前にそれを置いた。
「じゃあ、いただきます」
名前はいつものように神様に感謝を伝える決まった祈り文句を口にしたあと日本式の挨拶をして食事を口にする。
俺はそれを聞き流し続いて食事を口に運んだ。
名前の作る食事はなんだって美味しい。
名前と過ごせる幸せな時間だ。
けれどなぜか無性に腹が立つ瞬間でもある。
「今日出掛ける前に教会に寄りたいの。
少し遠回りになるからトーマスが手間であれば先に目的地にむかっていてくれても構わないけれど」
「····別に構わねぇよ」
「本当?ごめんね、ありがとう」
名前は申し訳なさそうな顔で笑う。
どんどん俺の中で名前への苛立ちが増していく。
美しいステンドグラスの前で祈りを捧げる名前は贔屓目無しで見ても美しかった。
名前は今も再会した日も子供の頃と何も変わっていなかった。
昔と同じように俺と接した。
来る日も来る日も飽きる事なく昔と変わらず神様に祈りを捧げている。
俺の目の前で目を閉じ神に祈りを捧げる名前。
それを見ていた俺は全てをぶち壊してやりたいと考える気持ちを必死で押さえつける。
しかしそれも名前のたった一言がきっかけでその押さえが弾け飛んでしまった。
「トーマスもたまにはお祈りしたら?」
子供の頃はしていたでしょう?
その言葉に名前に抱いていた怒りの天秤が振りきれた。
俺は名前の胸ぐらを掴んで乱暴に祭壇の上にその身体を叩き付けた。
その拍子にそこに頭をぶつけた名前は苦痛に顔を歪めた。
「俺達家族に何があったか知っているお前がなんでそんな事が言える?
神様がいるってんならなんで俺達はあんな目にあった?
俺が何をした?答えろ!!」
名前は畳み掛けるように責める俺になんとも言えない表情だ。
それが更に俺の苛立ちを増長させ名前の肩を抑えつける腕に力が入った。
静かな教会にギシギシと名前の骨が軋む音が聞こえた。
その苦痛に名前の眉間にシワが寄った。
「····お前には関係のない話だよな。
お前は苦しんでいない、だから神様なんて不確かで曖昧なものを信仰出来るんだよな。
ああ、そうだ、お前の事は神様が救ってくれるんだよなぁ?
ならお前は俺を救ってくれよ」
名前は顔を歪めたまま何も言わない。
抵抗する気配すらない。
気に入らない、俺が子供の頃と同じく駄々を捏ねているだけだとでも思っているのだろうか。
「俺辛くて仕方ねぇんだよ、何をやっても認められない、信じてもらえない。
俺なんて必要なかったんだよ、まぁお前にとっても同じかもな?
でもお前は俺と一緒にいるって言ったよな?
なら神様なんかより俺を見ろよ」
「····トーマス、わた···」
「っ黙れっ!!!!」
俺を否定する言葉を聞きたくなくて名前が全て言い終わる前に怒鳴りつけてそれを無理矢理制止させた。
名前はその大声に驚いて目をぎゅっと瞑った。
俺は丁度いいと言わんばかりに名前の唇に噛み付くように自分の唇を押しつけた。
動揺する名前を無視して肩を押さえ付けたまま閉じられていた唇を舌で割って入って口内を荒らした。
名前の舌は逃げようとした。
それを捕まえてねっとりと舌を絡ませれば名前の身体が震えた。
笑えるよなぁ?これが俺達のファーストキスだなんて。
すっかり歪になってしまった俺達にはお似合いだろうと思った。
「なぁ、俺の事救ってくれるんだろ?
神様なんかより俺が大切だよな?
ここで俺がお前を抱いてもお前は許してくれるよな?
俺を受け入れてくれるよな?」
名前のブラウスを力ずくで開けばボタンが弾け飛んだ。
ボタンが音を立てて床を跳ねていく。
俺の言葉とその行動に名前は大きく目を見開いた。
そしてその目は哀しそうに細められる。
その哀しそうな目に映る俺は悪魔のような顔をしていた。
名前は同情でもしているのだろうか。
哀れみの目線を向ければ俺が罪悪感を感じるとでも思っているのだろうか。
俺がそんな聖人である筈がないのに。
名前は俺の事なんて分かっていない。
俺が名前が信じる神の前で名前を犯す事を俺自身でも軽蔑する程興奮しているという事を。
大切に大切に保ってきた名前への誠意を今まさにぶち壊そうとしている。
それなのにやっと楽になれる、俺はそれが嬉しい。
そして悲しい。
俺は今この瞬間からもう二度と名前に笑いかけてもらえる事はないのだろう。
それを惜しむ自分を振り切るように固く目を閉じた。
そんな時だった。
「いいよ」
幻聴だろうか、そうに違いない、そんな事はあり得ない、そう思った。
俺は閉じていた目を見開いて再び名前の目を見た。
名前はいつもと同じように柔らかい笑みを浮かべていた。
「私にとっての神様はイエズス様ではないもの。
だからここで貴方に抱かれてもそれは神様への裏切りにはならない」
名前は依然表情を変えずにそう口にした。
その言葉の意味が理解出来ない俺は何も言えずにただ名前の顔を見て呆然としていた。
「ここは最適なの、祈りを捧げるには····それだけ」
なら名前は一体この場所で誰に祈りを捧げていたというのだろうか。
分からない。
困惑する俺の頬を名前の柔らかい手が撫でた。
「私が信じているのはいつだった貴方だけよ、トーマス」
「····は?」
名前の言葉に俺は間の抜けた声しか出せなかった。
名前の言っていることの意味が俺にはやはり理解出来ていない。
「出会った時からトーマスは私の神様なの。
トーマスが昔からここで祈りを捧げていたから私も同じように祈りを捧げるの。
だから、ね、私は見も心もとっくの昔に神様に捧げているの。
だからトーマスに抱かれるならそれは何よりも幸福な事なの、だって神様に抱かれるのだから」
名前は俺の手に自身の手を重ねた。
俺は相変わらず状況の整理が出来ずにいた。
名前の言っていることの意味が分からない。
それでも一つだけ理解したことはある。
「····それは、俺の事が好きだってこと、か?」
「この世に存在する何よりも愛している」
名前は俺をまっすぐに見つめてそう言った。
俺は身体から力が抜けてそのまま床に座り込んでしまった。
「トーマス、大丈夫?」
名前は起き上がって床に座りこんだ俺を見た。
名前の背後には美しいステンドグラスとマリア像があった。
それに背を向けて名前は祭壇の上から俺を見下ろしている。
その光景は背筋が凍る程美しく感じた。
俺はそのゾッとする程美しい姿を冷たい床から見上げている。
「···そういう、こと、か···ははっ····」
「トーマス?」
俺は片膝をついて名前の前でかしづいた。
先程とは逆に今度は名前が困惑の表情を見せている。
そんな名前の手を取ってその甲に唇を落とした。
「····お前にとっての神が俺であるのと同じだ。
俺にとっての神はお前だったんだ、名前。
どうして、どうして気が付かなかったんだろうな」
「·····」
名前は俺の言葉を聞いて俺に手を握られたまま静かに祭壇から地へと降りた。
そして俺を見つめた後俺の背に手を回し抱き締めた。
「····今日は何処にも行きたくない、だから家に帰って私を抱いてくれる?」
背に回された手がすがるように俺の服を握った。
何を不安に思う事があるのだろうか。
俺にとっての神様は名前だというのに。
「ああ、当然だろう?····俺が名前の望みを叶えない理由がない」
俺は名前に負けず劣らず敬虔な信仰者だったようだ。
だからけっしてその信仰の対象である名前の期待に応えないなんて事はあり得ない、それなのに
「好き、トーマス····愛している····何処にも行かないで」
なぜ名前はそんな事を言ったのだろうか。
「······ずっと傍にいる」
名前を安心させるように優しく優しくそう言葉にかけた。
名前は俺の言葉に表情を歪ませた。
「···嘘つき」
小さく小さく呟いたその声は静かな教会に消えた
この時名前がどんな気持ちでその言葉を口にしたのか、それを理解したのはこれよりずっと後の事だった
俺よりずっと大人だった名前は俺達がこの後どうなるかなんて見通してしたのだ