隣に住む(自称)恋人

「····」

朝起きて一番に私は郵便受けを覗きこんだ。
それは何故かと言うと昨晩はそれを確認する作業を怠ったからだ。
その中にはチラシ一枚入ってはいなかった。
それが答えだ。



「ちょっと!!IV!!!」

パーカーにショートパンツという家着丸出しの格好のまま私は急いで部屋を出て隣の部屋のドアをガンガンと叩いた。
インターホンを押せばいいだけの話なのだがこれは半分嫌がらせの意味も込めてやっている。

「おやおや、こんなに早くにどうされました?
そんなに僕に会いたくて我慢できませんでしたか?
可愛い人ですね、貴方ならいつここに泊まってくれても構いませんよ?」

開かれたドアから姿を見せた男は180度回って逆に不快としか思えない笑顔を浮かべ私を見てそう言った。
その顔を見てぶん殴ってやりたくなるのを必死で我慢した。

「また私の郵便受けの中身抜いたでしょう!?」

「いけません、女性が抜いただなんて、····興奮するじゃないですか」

この男はいつも私の言葉を自分に都合よく解釈する。
顔を赤らめそんな風に言うこの男は無駄に顔が良いのも相まってそれが逆に彼の異常さを増幅させていた。

「くだらないこと言ってないで早く返して!」

「おかしなことを言いますねぇ。
僕達は愛し合っている、よもや夫婦のようなものでしょう?
妻のものは僕のものでもあるのに、それを僕が所持していてなんの問題があるというのでしょう?」

IVに言葉が通じないのはいつもの事だが今日はそれが群を抜いて酷い。
イライラは募る一方だ。

「貴方と夫婦になった覚えはないし仮にそうだとしても私のものは私のものよ!
だからそれを返せと言っているの!」

「なぜそんなに苛立っているのですか?
···ああ、先週は僕の仕事が忙しくてろくに顔を見る事もできませんでしたから、寂しかったんですね?」

IVは慈しむような目で私を見てそう言った。
それがゾッとする程気味が悪い。

「それ以上近付いたら警察呼ぶから」

「おやおや、いけませんよ?
痴話喧嘩で人様に迷惑をかけては···叱られてしまいます」

IVは私に手を伸ばしかけた。
それに気付いた私は慌てて扉を閉めた。
私は私宛に届いたであろう手紙の類いを諦めるほかなくなってしまったのだ。



「·····なんで、私なの?」

自宅に戻りつい先程まで眠っていたベッドに再び横になった。
IVと顔見知りになったのは少し前に隣に彼が越してきた時だ。
出会った頃は今のような事をする人ではなかった。
有名人の彼が挨拶に顔を見せた時は驚いた。
正直に言えばファンだった。
だからほんの少し下心だって持っていたのだ、あの頃までは。







「申し訳ありません、夜分に」

「え、あ、こ、こんな格好ですみません!」

プロデュエリストとして活躍する彼が隣に引っ越してきたのは大体1ヶ月程前の事だった。
その際に軽く挨拶を交わすも彼も忙しいのかその後顔を合わす事は殆どなかった。
そんなある日、夜8時を回った頃に彼が再び私の部屋を訪問した。

モニター越しに見た彼に驚きつつもお風呂を済ませて既にパジャマ姿だった私は慌ててロングカーディガンを羽織って少し髪を整えてから扉を開けた。
すると彼は一瞬目を大きく見開いた後すぐに愛想の良い笑顔を浮かべ私に紙袋を差し出した。

「こちらをお返しに参りました」

「え?な、····」

彼に差し出された紙袋を受け取り中身を確認した私はそこで思考が停止した。
そこに入っていたのは最近見当たらないと思っていた下着だったのだ。

「え?あ、ああ!す、すみません!も、もしかして、IVさんのベランダに、でも、と、飛ばされていました、···か?」

動揺して上手く言葉を発する事が出来なかった。
恥ずかしくて顔から火がでそうになるということがこういうことだというのをこの日初めて身を持って体感した。


「ええ、少し汚れてしまっていましたのですが僕が綺麗にしておきましたのでご安心を」

「····は?」

彼は以前笑顔のままだった。
だが私は彼が善意でおこなったであろうその行動が少し気持ち悪く感じた。

「あ、····ありがとう、ございま、す····」

そして怖いと感じた。
だからこそ目の前にいる彼がいるのが恐ろしく感じその行動に疑問を抱きつつも早く一人になりたいとの思いからそうそうにお礼を言って彼の帰宅を促した。

彼は何かを含んだような視線を私に向けるも終始笑顔だった。

「それでは、おやすみなさい、····名前さん」

自分の名前を呼ばれてこれ程ぞくりとしたことも初めての事だった。
ドアを閉め鍵をかけた。
扉に耳をあてれば彼が私の部屋から離れて隣の自室に入ったのが分かった。

私の心臓は騒がしくなっていた。

なんだか触れたくないと思いながらも私は先程彼に手渡された下着を袋から出した。
ふわりと香るその匂いは私の使っている洗剤の匂いではなかった。
本当に彼が洗ったのだろう。
私が洗った時よりもふわふわとした手触りをしているのが妙に気持ち悪かった。

私は彼に悪気はなかったかもしれないがどうしてもその時感じた不快感が払拭出来なかったのでその下着を捨ててしまった。




幸か不幸か彼が有名人であったのもあって暫くの間彼を見る事はなかった。
テレビを付ければたまたま彼がデュエルをおこなっていた。
少し前までは嬉々としてみていたそれにさえ複雑な感情を抱いてしまいチャンネルを変えようとリモコンをテレビに向けたところで彼の顔がアップで写し出された。

その表情に私の身体が硬直した。
普段は、少なくとも私達ファンに向ける柔らかい笑みとは違うその真剣な表情に心臓がきゅっと縮み上がった。

「····私の、被害妄想なの、かな···?」

私はチャンネルを変えようとテレビに向けていた腕を下ろした。
デュエルをしている彼は以前と変わらずかっこよかった。

「····そもそも、私相手に、···うん、私の考えすぎだったんだ、きっと」

ファンだった筈の私が彼を悪者のような扱いをしてしまった事を反省した。
きっと彼はただ人より親切なだけなのだ。
あの行動に意味なんてなかった、そう心の中で納得した。

「あ····そろそろ洗濯物を取り込まないと」

朝のニュースで夕方から天気が崩れると言っていた事を思い出した私はベランダに干していた洗濯物の存在を思い出した。
自分の中で最近抱えていた不安が解消されたことで私の心は随分軽くなった。

素早く立ち上がりベランダと繋がるガラス戸を覆っているカーテンを開けた。


「······」


私は先程心の中で彼に謝罪したことを心の底から後悔した。
それは何故か、簡単な話だ。

今まさにその対象である男が私のベランダから私の洗濯物を盗ろうとしていたのだ。


「····何してるの!?」

恐ろしさより怒りが勝った私は衝動的にベランダを乗り越え彼の胸ぐらを掴んでその場に張り倒した。

「普通に犯罪だから!ああもう!こんな人のファンだったなんて!信じられない!」

彼が動けぬように本気で彼を地面に抑えつければこの状況でこの男は笑みを浮かべたのだ。

「いけません、このような場所で···貴方とするならベッドでじっくりと楽しみたいのです。
さあ、早く中に入りましょう!
それとも貴方はこういったプレイがお好みですか?」

彼はそう言って私の太ももを優しく撫でた。
私の全身が悲鳴をあげるように鳥肌を立てた。

「ふざけないでよ!っこの下着泥棒!!」

「泥棒?なんのことですか?あれは恥ずかしがりやの名前さんが僕の為に用意してくれていたものでしょう?」

つい先程反省した自分すら殺してしまいたいと思った。
この男は疑いようがない程ただの変態だった。

「馬鹿な事言わないでよ!そもそも、なんでそんなことするの!?
溜まってるとでも言うの!?
貴方くらい人気者なら女になんて困ってないでしょう!?」

「駄目じゃないですか、女性がそんな風に···それにおかしな事を言いますねぇ。
貴方という人がいるのに他の女性で、だなんて····少し傷付きましたよ?」

相変わらず柔らかく微笑んだままIVは私の手首を握った。

「ひっ··!は、離して!!」

「先程は貴方の方から触れてきたではないですか。
僕が普段どれだけ貴方を想っているのか貴方はご存知ないようだ」

IVは上に跨がる私を強引に引き剥がして腕を取ったたま起き上がった。

「貴方に乱暴な事などしたくありません。
ですが騒ぐのであれば···何もしないとお約束は出来かねます」

お前に拒否権はないとIVの目が言っていた。
先程彼に掴みかかった勢いはどこへいったのだろうか。
私の膝が小さく震えた。

「ええ、それで良いんです、良い子の貴方には何もしません。
さぁ、部屋にどうぞ?」

「っ、そ、そんなの···信じられるわけがっ···!」

IVは私の言葉に肩をすくめた。
そして呆れたように私に話しかける。

「先程の事で分かりませんでしたか?
男の僕はやろうと思えばいつでも今すぐにだって貴方を犯すことなど容易いんです。
それでもそれをしないのは僕が貴方を愛しているからです。
その為の誠意ならいくらでも我慢します」

一体なんなのだろうか、この男は。
つい先程自分が下着泥棒をしようとしていた事を忘れたのだろうか?
こんなにトキメキを感じられない告白をされたのは初めてだ。


「···だったらどうして私の下着盗ろうとしたの」

「盗るだなんて人聞きの悪い、ちゃんと返したじゃないですか」

つまり前の下着も偶然飛んだものではないという事なのだ。
なんて奴だ。
悔しくて泣きたくなってきた。

半ば強引に部屋に押し込まれたが彼は本当に私に何かをしようとはしなかった。
彼の部屋には最低限の家具しかなかった。
滅多に帰ってきている気配がなかったのだからそれも当然のことなのかもしれない。

「···ねぇ、早く帰りたいのだけれど」

「少しくらいいいじゃないですか。
貴方の好きなお店のスコーンがありますよ?
お茶にしませんか?」

私の言葉など聞こうともせずに彼は紅茶を淹れる準備を始めた。
だがツッコミどころはそこではない。


「なんで私の好きな店なんて知っているの」

「貴方の事ならなんだって知っていますよ」

そんな馬鹿な話があるかと叫びたくなった。
だがおそらく本当にこの男は知っているのだろう。
その手段は、考えたくもないのだが。

「····というか鍵かかってるから玄関から入れないからやっぱりベランダから戻るから」

「あぁ、鍵なら僕が持っていますのでご安心を」


「···はぁ?!」

IVは悪ぶれのない顔でにこりと笑う。
そこになんの罪悪感も持ち合わせていない事がわかる。

「·····ねぇ、ほんとになんなの?
なんでそんなことするの?私なんてたまたま引っ越してきた隣に住んでいた女に過ぎないじゃない」

IVは私から視線を逸らし蒸し終わった紅茶をカップに注いだ。
そうしている間も彼の口元は緩く弧を描いていた。

「貴方にも、····そうですね、ふふっ···やはり話してしまうのは寂しいので今は言わないでおきましょうか」

どうぞ、とIVはカップの乗ったソーサーを私に差し出した。
カップの中にはとても綺麗な琥珀色の液体が小さく揺れている。
上品な良い香りだ。


「····何か入れたんじゃないでしょうねぇ」

「心外ですねぇ、そんな無粋なものは僕と貴方の間に必要ありませんよ。
さっきも申しましたが僕が貴方を抱くことなど実に容易い事なのですよ?」

だからそんなものは必要ない、とIV自身もカップに紅茶を注いでそれを口にした。

もう考えた所でなにも分からなくなった私は半ば自棄だと言わんばかりにその紅茶を飲み干した。
それは本当にただの美味しい紅茶に過ぎなかった。

「帰るから鍵開けて」

「···仕方ありません、今日はこれで満足しましょうか」


IVはそれ以上私を引き止めようとはしなかった。
益々彼の考えていることが分からない。
IVは先程私に見せた私お気に入りのお店のスコーンの入った袋を私に差し出した。

「本当は二人で食べたかったのですが、今日はお茶を飲めただけでも嬉しかったです。
ですが貴方の為に用意したものでしたので今回はお一人で召し上がってください」

今日起きた出来事は偶然だった筈なのにIVはそう言った。
今回の事がなくてもこの男は今日私を部屋に連れ込むつもりだったのだろうか。

反論しなければならないと思うも心底疲れてしまっていた私は何も言わずにそれを受け取った。
これだって私が黙って処分してしまえばそれで済む話だ。


部屋を出て私の前でIVは私の部屋の鍵を鍵穴に差し込んだ。
それがカチャリと音を立てて回った時大きくため息をついた。


「どうぞ」

「····」

私は黙ってドアを開けて私の部屋に入った。
そんな私の背中にIVは声をかける。

「返せと迫られるかと思いましたが···」

それを分かっているなら黙って鍵を置いて今すぐ消えてほしいと強く思った。

「どうせ今取り返したって貴方また合鍵を作るのでしょう」

「ええ、僕には貴方を守る使命がありますから」

なら今すぐ鍵を返して消えてほしいと言えたらどんなに楽だろうか。
鍵を持っている以上どんな無茶な事でも出来る筈なのにどうしてこの男は下着泥棒などというくだらない真似をしたのだろうか。


「僕以外の人には渡さないでくださいね」

「貴方にだって渡したつもりはないんだけど」

IVはにこりと笑って私の玄関に置かれた時計を確認した。

「すみません、僕はこれから仕事がありますので」

「仕事でもなんでもいいから、早く行って」

つれない人ですね、と今度はIVがため息を一つついた。
そんなに釣りたければ外に行けば貴方が声を掛ければいくらでも釣られる女がいると言いたくなった。

IVは一瞬私に寂しそうな顔をして今度こそ自室に戻っていった。

ドアを閉め今では殆どその意味を無くしてしまった鍵をかけた。
この鍵を持っているのは私だけではないのだという恐ろしい事実。

それが怖くて堪らない、なのにどこか余裕を感じるのは隣に住む男が有名人だからなのだろうか。

テレビの中では先程とは違う男とデュエルをしているIVの姿があった。
どうやらこの番組は最近行われたトーナメント戦の録画放送だったようだ。

デュエルも終盤を迎えていたようでIVはライフに殆ど傷をつけることなく勝利した。
黄色い声援を上げる観客に笑顔で手を振っている。
先程と同じ、今となっては胡散臭いとしか思えない笑顔だった。

手渡されたお菓子を食べる気にも捨てる気にもなれなかった私はそのまま机に突っ伏してしまう。
衝撃的な出来事でドッと疲れてしまった私は何を考えるのも面倒になってしまい私はそのままそこで眠りこけてしまった。

そして次に起きた時には背中にブランケットがかけられすぐ側には畳まれた洗濯物があった。

外を見れば天気予報で言っていたように雨がザーザーと降っていた。
洗濯物を取り込んだ人間が誰かなんて、考えるまでもなかった。





それ以降IVはまるで私が眠っている間に私をフォローする絵本の妖精のようになっていた。
スーパーから帰ってきて醤油を買うのを忘れたと呟けばすぐに醤油を持って彼がうちを訪れた。
眠れず遅くまでゲームをしていれば眠らないのは身体に良くない、とノンカフェインの暖かい紅茶を差し入れてきた。
聞き耳を立てているのか、或いは盗聴されているのか、あれ以来彼は自身がやっている非常識な事を隠そうともせずに私の前に現れるようになった。

最初は拒んでいたもののあれ以降彼が私の下着を盗むような事もなく眠っている間に身体に何かされている気配もなかった。
ただ彼が私の事を助ける為だけに行動していたこともあって最初に持ち合わせていた警戒心はかなり和らいでいたのだ。





そのまま平穏に過ごしていたかった。
だが神様はどこまでも残酷だった。
その日はたまたま体調が悪くその日は仕事を早退けさせてもらうことになった。
私は普段とは違う時間に帰宅した。

そのせいで知ってしまったのだ。
彼が私の部屋の鍵を何に使っていたのかを。


「···返して」

IVはいるはずのない私が現れたことに驚いて少し動揺した顔を見せるも曖昧に笑う。

「少しは貴方の事、受け入れられるかもしれないって思ってたのに、それどうするつもりなの?」

IVは私の郵便受けの中を漁っていたのだ。
最近チラシすら入らなくなったなとは思ってはいたものの基本的に端末のメール機能や電話でことを済ましてしまうこともあり手紙のやり取りなどはしていないこともあったのでとくに中身がないことに疑問ももたなかったのだ。

IVは私の顔を見て苦虫を噛んだ表情を見せるもそれを素直に私に返した。

それを一枚一枚確認するも中身はダイレクトメールやチラシばかりでなにが目的で彼がこんなことをしているのかが分からなかったのだ。

「ねぇ、一体どう····」

話を聞こうと彼を見ようとするも目の前から彼は姿を消していた。
気が付かなかったが既に部屋に戻ったのだろうかと思い彼の部屋の扉を見るもとてもインターホンを押す気にはなれなかった。

「(·····だめだ、今は何も考えられない)」

なあなあにしていい問題である筈がないのに私はそれを考えるだけの体力は残っていなかった。
先程確認した郵便物をごみ箱に入れ体温計で熱を測った。
熱は39℃を越えていた。

その熱を自覚した途端私の身体が一瞬で力尽きてしまいそのままベッドに倒れ込んだ。

そして次に起きた時当然のように枕元に薬とミネラルウォーターのペットボトルが置かれていたのだった。

これを置いていった人物は、やはり考えるまでもなかった。


それから何日経っても彼の行動は変わらなかった。
顔を見ない日が殆どだ。
だがやはり私の郵便受けの中身は回収しているようでいつ見てもその中身は空っぽだった。

正直な所支障はとくにない、だがあまりにもしつこいのでいい加減嫌気がさして隣の彼の部屋を荒々しく訪問したのだった。

久々に見た彼は以前と変わらず余裕の表情をしていた。
相も変わらずに私たちは恋人だなどと語った。

考えたところで私がなにか対策をとらなければ意味がないのだ。
いっそ引っ越してしまおうか?
だが正直な所今は貯蓄が厳しい。

警察を呼ぶのが一番なのだ。
そんなことは分かっている、分かっている筈なのになぜ私はしないのだろうか。

何かが私の胸につっかえている。
その得体のしれないなにかが私を引き止めた。
それでもいくら考えても私はそれが何か分からない。

「(····買い出しがてら少し散歩でもしよう)」

私はそう思い至って服を着替え最低限の化粧をして部屋を出た。
部屋を空ければまた勝手に入られてしまうだろうか?
そう考えるも今更かと思い外に出た。
私の感覚もかなりおかしくなっていると自覚はしている。

少し歩いて途中で自動販売機で飲み物を買おうとしたその時気がついた。
財布を持たずに来てしまった事を。

やってしまった、もうこのまま適当にぶらつこうかとも思うもそもそも外に出た一番の目的は買い出しだった。
私は億劫ながらも自宅へと引き返した。

一瞬彼に連絡を入れれば財布を届けてくれたのではないかなどと考えた私は本当にどうかしていると思う。
と言ってもそもそも私は彼の連絡先など知らないから無理な話なのだが。




「いいじゃんかIV!俺とデュエルしようぜ!!」

マンションの階段を上がりきる前にとても元気な男の子の声が聞こえたことで私は足を止めた。
もしかして彼のファンが自宅に押し掛けているのだろうか?
そんな風に思ってその場でそっと聞き耳を立ててみた。

「すみません、兄様。遊馬とこの近くを通りかかった時最近この近くで兄様が一人暮らしを始めたと口を溢した所兄様の家に行くと言い出してしまって」

どうやら彼の弟もそこにいるようだ。
口振りからして遊馬という少年は彼の弟の友達なのだろう。
彼のファンなのだろうか。

「ったく、遊馬!てめぇは俺を誰だと思ってんだ?プロの俺とタダでデュエルしようだなんて相変わらずだな、てめぇは」



今遊馬という少年に話しかけたのは誰なのだろうか、分かっている、分かってはいるのだが私は今とても動揺している。

そっとそちらを覗きこんだ。
そこにいたのはやはりIVだったのだ。
私やファンに向けるような笑顔とは違う、ごく自然に年相応に笑う彼がそこにいたのだ。

「(私はなぜこんなに動揺しているの?)」

心臓の鼓動がいつもより大きく早く鳴っていた。
意味が分からなかった。
あれが本当の彼なのだろうか?
そうだとしたらそれにショックを受けているのだろうか?
おそらくそんな感情も少しはある気がする。
けれど違うこの感情はそれではない、だが理由が分からない。

「(·····だとしてもここでいつまでも覗きのような真似を続けるわけにはいかない)」

私は覚悟を決めて自分の部屋の前へと足を進めた。
足音に気が付いた彼は私を見てあからさまにしまった、とでもいうような顔をして固まった。

「兄様?どうされました?」

彼の弟さんは突然態度が変わったIVに声をかけた。
その彼のお友達は私の気配に気付いたようでこちらを振り返った。
いかにも活発そうな少年だった。


「····こんにちは」

「え、ええ···こんにちは」

IVはひきつった笑顔で挨拶を返した。
ここまで動揺した彼を見たのは初めてだ。

「えっと、お隣さんすか?兄がご迷惑をかけていませんか?」

「バッ、お、おい、III!」

彼の弟さんはIVにはあまり似ていなかった。
どちらかと言うと可愛らしい、IVと同じように敬語を使うがその話し方はとても自然で優しいものだった。

III、彼の弟の呼び名だろうか。
IVと言う名が本名では無いことは分かってはいたが家族間でもそのような呼び方をしていることに少し驚いた。

「まぁIV兄様が自室に誰かを入れることなんて滅多にないでしょうし騒いでご迷惑を、ということはないとは思いますが」

「は、はは····え、ええ、大丈夫ですよ」

貴方の兄が自室に人を呼んで騒ぐことは無くても私の部屋に何度も不法進入しているのだという事をこの少年に話せば彼はどんな顔をするだろうか、と考えた。

いっそ言ってしまおうか。
III君という少年はIVよりよっぽど良識的に見える。
彼の家族ならばIVの奇行もとめてくれるのではないかと淡い期待を抱いた。

「(····なんだろうか····先程から感じているこの既視感は)」

III君の友人の彼には見覚えがある。
特徴的な髪型をしている、数年前にIVも出場していたデュエルの大会で優勝した少年だということに今気が付いた。

問題はIVの弟のIII君だ。
彼を見ていると何か靄のかかったソレが頭を過るのだ。
だが私にはその得体のしれない靄の正体が何なのか分からない。


「あ····え?あの、もしかして·····僕の勘違いでしたらすみません、貴方はもしかして名前さんですか?」

「え····」

「おい、III!!!」

III君が私の名を呼んだ。
III君の友人はそんなIII君を怒鳴りつけたIVにいきなりどうしたんだよ、と驚いている。
なぜIII君が私の名を知っていたのだろうか、IVが話したと考えるのが自然ではあるがどうにもそれは違うようだ。

「えっと···私は、···はい、そう、だけれど····」

「やっぱり!とてもお綺麗になられていたので始めは気が付きませんでした!
またお会い出来て嬉しいです。
兄様も教えてくれても良かったのに」

III君は嬉しそうにそう言って私の手を握った。
彼は私を知っているらしい。
そして私は彼を知っているようだ。

「取り敢えずお茶菓子多めに買ってきたんです。
名前姉様も一緒に召し上がられませんか?」

III君は私を姉様と呼んだ。
勿論私に弟などいない。
だが何か、何かが引っ掛かる、私はその呼び名に違和感を感じていないのだ。


「····ありがとう、お言葉に甘えさせてもらう、ね?」

私がIII君の誘いに了承したのを見ていたIVは手で顔を覆った。
III君の友人は何が何だかわからないという顔をしている。

私達はIVの自室に入った。
ちらりと彼の顔を見るも彼は気まずそうに私から視線を逸らした。
一体なんだというのだろうか。



「IIIにも姉ちゃんがいたのか?」

「ううん、昔沢山遊んでもらったんだ、それこそ本当の姉様みたいに。
だから僕にとっては姉様みたいなものなんだ。
名前姉様、彼は僕とIV兄様の友人の九十九遊馬君です」

III君は私に友人の彼を紹介してくれた。
遊馬君はIIIの姉ちゃん宜しくな、と気持ちのいいほど明るい笑顔で挨拶してくれた。

背中には痛いほどの視線が向けられている。
それを向けている相手は確認するまでもない、IVだ。


「兄様どうされました?
僕がお茶を淹れますので兄様も座ってください」

III君はIVにそう話かけるもIVは自分が淹れると言ってIII君を制止した。
III君は素直にわかりました、お願いしますと言った。
そして再びIII君は私に向き合った。

「あの····もしかして僕の事、覚えていませんか?」

III君は眉尻を下げて私にそう訊ねた。
その表情に罪悪感を抱くも嘘をつくのもばつが悪いと思い正直に頷いた。

「その···ごめんなさい、なにか引っ掛かってはいるのだけれど···」

「そうですか·····あ、ならIV兄様、トーマス兄様の事も覚えていらっしゃいませんか?」

III君がそう言った直後後ろでガシャンと大きな音が鳴った。
それは間違いなく食器の割れた音だ。

「兄様!?大丈夫ですか!?」

III君は慌ててIVに駆け寄った。
IVはあからさまに動揺していてそれでもIII君に大丈夫だと言った。

「兄様はプロデュエリストなんですから指先は大切にしないと!
怪我をしては困るので僕が片付けますのでお下がりください」

「は?いや、大丈夫だから、ミハエ···、III!」








『なんでもう会えないんだよ』

『ごめん、お父さんのお仕事の都合で引っ越す事になっちゃったの』

『俺んちに住むように父さんに頼んでやるから行くな!』

『だめだよ、そんなの。それに私お母さんやお父さんと離れたくない』

『俺の事好きって言っただろ!全部嘘だったのかよ!』

『トーマスの事好きなのも本当だよ。でもお母さんとお父さんの事も大好きなの、トーマスだって同じでしょう?』

『っ、だったら!約束しろよ!大人になったら俺と結婚するって!じゃなきゃ行かせない!!』

『····わかった、私大きくなったらトーマスのお嫁さんになる』

『絶対、絶対だからな!ずっと、ずっと名前の事好きでいるから』

『うん、私も離れてもトーマスの事ずっと好きでいるから』







トーマスとミハエル、その名を聞いて私の頭にかかっていた靄は完全に消え去った。
なぜ、どうして、私はそれに気が付かなかったのだろうか。
思い出してしまえば早かった。
視線の先にいる二人の横顔、そこには確かにその面影があった。
二人の姿に幼かった頃の彼らが重なった。

私は、私はどうして



「お、おい姉ちゃんどうしたんだよ?腹でも痛いのか?」

遊馬君は私を見て慌てている。
何を慌てているのだろうか分からなくてぱちくりとまばたきを一つ。
それにより流れ落ちた水滴を見て私が今泣いていることに気が付いた。


「なっ、名前!?」

IV····トーマスはそんな私に驚いて慌てて駆け寄ろうとした。
しかし途中で固まってその場で固まってしまった。
そんなトーマスを不思議そうな目で一瞥したミハエルが私に近付いてハンカチを差し出してくれた。

「どうされました?もしかして体調がよろしくありませんでしたか?」

「大丈夫か?トイレ行くか?」

ミハエルも遊馬君も私を心配してくれている。
私自身も私が泣いている理由が分からずいた。
いや、本当は

「ごめん、大丈夫。ちょっと目に何か入っちゃったんだと思う」

ミハエルはそんな私をジッと見て優しく微笑んだ。

「そうですか、でも顔色があまりよろしくないように思います。
今日は僕達は帰りますので、名前姉様····名前さんもごゆっくりお休みになられた方が良いと思いますよ」

ミハエル君は自分を覚えていなかった私に気を使ったのだろうか。
姉様という呼び名を訂正してそう言った。
先程まで完全に忘れていたにも関わらず私の胸はチクリと痛んだ。

遊馬君も私に早くよくなるといいな、と言ってミハエル君と共にトーマスの自宅を後にした。

二人には悪い事をしてしまったと罪悪感を感じるも私にはやらなければいけない事があった。



「····どうして、教えてくれなかったの?·····トーマス」

「っ、····んなの、···俺はお前の、名前の事忘れたことなんてなかったのに···!名前は俺の事なんて完全に忘れてやがったんだ!
そんなの····そんなの、」

悲しそうに、恨めしそうに私に向けるその顔は思い出の中のトーマスと何も変わっていなかった。
私はもっと早くに彼に気が付かねばならなかった。

「····ごめんなさい、でもだからって····ねぇ、どうしてあんな····せめて、今の姿を取り繕ったようなあんな態度、···あんなの、気付けない····ごめんなさい、きっとそれも何か理由があったのよね?」

「これは····仕事の上ではあのキャラがやりやすかったんだ···名前の前でもそれを変えなかったのは半分は自棄で、半分は····期待した、仮に変わっていても名前ならいつか俺に気が付くんじゃないかって」

そうだとしても彼が私にしていた行為に正統性はないだろう。
それが許された事ではないと分かりつつももうそれもどうでもいいかと思ってしまっている私はあの時確かにトーマスの事を好きだったのだろう。

「ここに引っ越してきたの、偶然じゃないんだよね?」

「····名前去年の大会、最前列の席で見てただろ?
その時お前に気が付いて、でもお前が俺を見る視線は明らかに昔馴染みの人間を見るものじゃなかった····だからあの後名前をつけた」

その大会を見に行った事は覚えている。
友人がたまたまとてつもなく良い席を当てたのだ。
ペアチケットで当初は恋人と行く予定だったのだが友人の恋人の都合がつかなくなり、私が代わりに同行する事になったのだ。

「それで隣に越してきちゃうだなんて、···無茶な事するわね」

「それだけお前が好きだったんだ」

迷いなく言うトーマスにため息をついた。
どうしてこの言葉をもっと早くに言ってくれなかったのだろうか、と。

迷いなく言うトーマスにため息をついた。
どうしてこの言葉をもっと早くに言ってくれなかったのだろうか、と。

「私貴方の事本当に悩んだのよ、何度も警察につきだしてやろうかって怒りに震えたわ。···それでもプロとして活躍する貴方のファンでもあった私はそれを躊躇してしまって、貴方を応援しているファンの気持ちも考えたら···結局私にはそれが出来なかった」

「通報されたらそれはそれでどうでも良かったんだよ。
お前に気付いて、振り向いてもらえないならもう俺が生きる意味なんてなかったんだからな」

本当に気が付いてほしいだけならやはりもっと他に手があったと思うのだが、そんな事に気が付かない程トーマスは余裕がなかったのだろうか。

「ねぇ、どうして私のポストの中身、抜いてたの?」

「·····どうしても、伝えたくて、でも····やっぱりそれでも思い出してもらえなかったら嫌だって·····」

歯切れの悪い言葉に話が見えてこない。
私の顔を見てそれを察したのかトーマスはごみ場の中からくしゃくしゃになった封筒を取り出し私に差し出した。

それを受け取り封筒から中身を取り出し私はそれ目を通した。


「······貴方が書いたもの、だったんだね」

「·····ああ」

それは所謂ラブレターというものと呼べるだろう。
幼い頃からトーマスが私に抱き続けた想い、それは今も変わらない気持ちであるということとても丁寧な字で綴られていた。

まるで出来の良い詩集のようだった。
その文面が今の彼が子供の頃のがさつに見えて繊細で優しい男の子だった頃と変わっていないのだと語っていた。



「トーマスとの約束を忘れてしまっていてごめんなさい、トーマスにとってはただの言い訳にしか聞こえないとは分かってるけどあの後ね、お父さんとお母さん離婚しちゃったの」

トーマスは私の話を静かに聞いてくれている。

「大人になった今では私の意思で二人に会いに行けるようになったけどあの頃の私はそれが出来なくて、私は二人とも大好きだったから一緒に暮らせなくなった事が悲しくて、ずっといなくなったお父さんの事ばかり考えてた。
今考えるとほんと凄いファザコンだったんだろうね」

「····名前が家族を大切に思ってたのは知ってる、俺だって···俺だってそれは名前と大差ねぇよ」

静かに私の話を聞いてくれていたトーマスが自身の右頬に触れた。
大きくついたその傷痕にはなにか家族に纏わるエピソードでもあるのだろうか。

「····今まで、悪かった。
もう、何も、名前を怖がらせるような事、しない、から····」

だから嫌わないで、トーマスの目はそんな風に言っているように感じられた。

「···絶対に、約束出来る?」

「····」

トーマスは無言のまま首を縦に振った。
私を本日何度目か分からないため息を再びついて彼の頭を撫でた。

「ならもう良い。····でも今度約束破ったら即通報しちゃうからね?
····絶対に変な事しないって言うなら、鍵、持っててもいいよ」

「····良い、のか?」

無断で複製までやってのけた男が今更何に驚いているのだろうか。
今の彼はまるで別人だった。

「もう手紙を入れる必要も回収する必要もないでしょう?
····そうね、私だけじゃ不公平だからトーマスの部屋の鍵も頂戴?
それでチャラで」

トーマスは私の提案に首を何度も縦に振って慌てて予備の鍵を取り出して私に手渡した。
あまりにも準備が良かった事から推測するにいつかは私に鍵を渡そうと思っていたのかもしれない。
 
「下着、もう盗らないでね」

「········ああ」

私の念押しにトーマスは渋い顔をしながらも頷いた。
私が彼の事を忘れてしまっていたせいで妙な性癖を植え付けてしまったようだ。
なんとか軌道修正しなければと決意した。

「···その、トーマスは今でも私をお嫁さんにしたいって思ってるの?」

「····はぁ?今の状況になってそれを聞くのか!?」

「え、あ、いや、ごめん、謝るからその顔やめて」

トーマスが私を睨み付けた。
その顔があまりにも迫力があったのでそう言って視線を逸らせばトーマスに二の腕を掴まれた。

「こっち向け」

「え、な、なに?」

先程まで私が優位にいた筈なのにその苛立ちを含んだ強い口調に萎縮してそれに従った瞬間


トーマスの唇が私の唇と重なった。


それはほんの数秒の事だった。
突然のその行為に私は固まってしまった。

「····目くらい閉じろよ」

トーマスは呆れ顔でそう言って私を抱き締めた。
だがその顔はほんのりと赤みを帯びていた。

「ごめんね、慣れてないのよ···キスなんて····」

「····ふぅん」

トーマスの私を抱き締める腕に力が増した。
横目で彼を見ようとするもその表情は窺えない。
だが赤くなった耳が全てを物語っていた。
私がそういった事に慣れていない事が嬉しいのだということを。

「ねぇ、どうして自分の手紙だけじゃなくポストの中身全部持ってったの?」

「あ?ああ···名前にとっては気にも留めない事かもしれないけど企業からのDMにしたって今お前がどんなものに興味があるかだってそこから分かるだろ。
俺にとってはお前の事が知れる大事な情報源だったんだよ」

「····そんな真似するくらいなら普通に話しかけて親しくなろうとは思わなかったの?」

トーマスは当然のように話しているがやはりその思想はトーマスの事を思い出した今でも気持ち悪いものだと思う。
本当にあと一歩遅ければ警察沙汰になっていたと思う。

「だから言っただろ!半分意地になってたんだよ!」

「堂々と言えたことじゃないけどね」

私は本当に人間なんて何年経ってもそうそう変わらないものだなぁと感じた。
つい最近までただただ気持ちが悪い男だと思っていた筈なのに今ではただただ不器用な可愛い男の子にしか見えなくなってしまったのだからおかしな話だ。


「取り敢えずまたお友達からってことでいい?」

「は?婚姻届貰いに行く流れだろ」

「···」

やはり少しはこの行き過ぎた思想の軌道修正は必要だと思う。

まぁ先程キスを許してしまった時点でお友達も何もないのは分かっているのだが。

「トーマスが私が今すぐにでも結婚したくなるような素敵なプロポーズしてくれたら考えるよ」

私が試すような言葉をかけるとトーマスは少し思案するような顔を見せた後大真面目な顔をしてとんでも無いことを口にした。


「してくれないなら今すぐ犯して孕ませる」


「····」


本気で通報するしかないと思った。
やはり結婚なんて当分考えられそうにない。

「···私結婚したら暫くは旦那さんと二人で暮らしたいって考えてるからトーマスとは合わなさそうね」

「嘘に決まってんだろ、俺だって名前とイチャイチャしたい」

トーマスは早口でそう言ったが先程私に言った言葉がとても冗談だったとは思えない、それほど本気の目をしていたのだ。


「なら当分我慢できる?」

「あ?何をだよ」

「何って····わかってるでしょう?」


昔は素直ではない所があったとは思うがこんな風に意地悪を言う子ではなかったのにとふと視線を落として視界に入れてしまったそれに思わず悲鳴をあげそうになった。

「···あ?そりゃ仕方ねぇだろ、お前をやっと抱きしめてキスしたんだ。
んなことしたら勃つにきまってんだろ」

「そういうこと一々言わなくていいの!!」

トーマスには羞恥心がないのだろうか。
そう思う程言っている本人は平然としている。
きっと私の下着も···そういう目的だったのだろうなと改めて考えて顔が熱くなった。


「なんだよ、そんな顔して···襲われたいのか?」

「うーん、ほんとに、ね、そこから軌道修正していかないとね」

再び唇を寄せてきたIVの唇を手で塞いだら何をするんだと言わんばかりに眉間にシワを寄せられた。


「私にも心の準備ってものが必要なのよ。
···始まりがちょっとおかしくなってしまったけれど私だってトーマスときちんと向き合いたいって今は思ってるから、少しだけ待って?」

「···まだ俺を焦らすのかよ」

不満を洩らしてはいるもののそう言ったトーマスの表情は柔らかいものに見えた。
きっともう大丈夫だと思う。


「ごめんね、もう少しだけ待ってて?」

「·····約束、守る気があるんだな?」


あんなことをしてあんな発言をしていたトーマスが見せる不安を含んだ眼差しにどうしようもないほど庇護欲が芽生えた。
狡い、本当に狡い。


「あるよ。····おいで、ハグならしてもいいよ」

「····ったく、こんなの生殺しだろ···」


不満を溢しつつもトーマスは私に抱きついた。
首筋に顔を埋めるトーマスの頭を撫でれば猫のようにすりすりとそこに顔を擦り付けた。


あの頃は体格差なんて殆どなくて、寧ろ私の方が大きかったのに今はトーマスの胸に顔を埋められるようになってしまった。
二人とも大人になったんだなぁと感慨深い気持ちになった。

思い出した途端こんな風に思ってしまう私は単純なのかもしれない。
それでもその気持ちは自然と私の中から湧いてきたものだった。


「(ずっと待っていてくれてありがとう、私も好きだよ)」


もう暫くそれを口にはしないでいよう。

最もこれから毎日トーマスから惜しみ無い愛を注ぎ込まれた私がそれをどこまで我慢出来たかなんて

想像することは容易いものだろう