「名前」
いつぶりだろうか、その声が私の名を呼んだのは。
「···久しぶり、ね」
一年以上は経っている気がする。
そうなるともうすぐ18になるのだろうか。
「髪、伸びたな」
「暫く切っていないから」
貴方が短いのが好きなのか、そう言った。
その言葉に私は貴方が長い髪が好きなのかもしれない、そう思ってなんとなく。
「似合ってんじゃねぇの」
「···ありがとう」
慣れないことをした。
誰かを想って髪を伸ばす、だなんて。
肩より長くしたことなんて随分久し振りの事だった。
お風呂上がりに乾かすだけでも手間がかかった。
直毛というわけではないので梅雨場や湿気の多い日は少々厄介だった。
「IVは相変わらず綺麗な髪だね」
「綺麗なんて男に使う言葉じゃねぇだろう」
元気に跳ねた髪がとても柔らかく指通りが良いことを私は知っている。
何度も何度もその髪に触れていたから。
毛艶に変わりはない。
きっとあの頃と変わっていないのだろう。
「ねぇ·······ううん、なんでもない」
思わず手を伸ばしかけた。
だがすぐにその手を引っ込めた。
彼の頭を何度か撫でたことがあった。
そしてその度に子供扱いするなと睨まれた。
「なんだよ、ちゃんと言えよ」
言葉に怒気は感じられない。
表情は昔よりずっと穏やかで、まるで知らない人のようだった。
「今、何をしようとした?」
彼の手が私に伸ばされた。
その手は私の髪を一房掬う。
そしてごく自然にその髪に口付けた。
あまりにも自然に行われたその行動。
それは驚く程様になっていて見惚れてしまった。
「まるで王子様みたい」
彼がけして聖人では無いことを私はよく知っている。
あの頃私は彼への好意を利用されていたから。
人から見ればさぞかし私は惨めだっただう。
それでも私は幸せだった。
「笑えねぇ冗談だな」
するりと彼の指から落ちていった髪が私の身体に触れた。
間接的とは言え久し振りに彼の手が私に触れた。
それだけのことで私の目から涙が溢れてしまった。
「お前が泣くの、初めて見た」
IVの指が私の涙を拭った。
指先が触れた場所がジンと熱を帯びていく。
どうしてこれ程迄に、それを一番不思議に思っているのは私自身だろう。
「俺は嫌な奴だからな。
今俺のせいで泣いてるお前を見て嬉しい、なんて考えてる」
IVは笑っている、今まで見たこともない程優しい顔で。
目の前にいる彼は本当に私の知っている彼なのだろうか。
「そんなに俺が忘れられなかったのか?」
彼の問いに素直に首を縦に振る。
「俺意外の男に抱かれたのか?」
今度は横に、酷い事を言う人だ。
そんな事私が出来る筈がないと知っている癖に。
「今俺がまたお前を、名前を抱きたいと言ったらどうする?」
敢えて聞くようなことなのだろうか。
きっと彼はここで私が嫌だと言えば二度と私を抱いてくれないのだろう。
それはあと頃にはなかった彼の優しさだ。
だがその優しさは私にとって残酷なことでしかなかった。
「行かないで」
彼の手を掴んだ。
きっと彼は私が拒めば姿を消してしまう。
あの頃の彼であれば、そんなことはあり得ないのだがもしあの頃途中で怖くなって彼を拒んだ所でそれをやめることはなかっただろう。
だがあの頃の彼はもういないのだ。
きっと今私の前にいる男はあっさり私を手離してしまう。
「名前」
彼の手を掴む私の手に力が入る。
どこにも行っちゃやだ、と駄々を捏ねる子供のように。
「そんなに必死にならなくていい、ずっとこうしててもいいから」
空いた方の手が私を抱き締めた。
背にあてられた手の優しさに心がざわついた。
「なぁ」
彼の声が、吐息が耳元で揺れる。
なんて心地が良いのだろうか。
「前みたいにやってくれよ」
「···前?」
彼の言う前、というのがなんのことか分からず同じ言葉を返した。
すると彼は声を出さずに笑った。
抱き締められていた私には彼の小さな振動を感じとることが出来たのだ。
「頭」
「······いいの?」
彼が言わんとしてる事を察した私は聞き返す。
あの頃は嫌がられていた事だったから。
それを今度は自らおねだりしているのだ。
本当に彼は別人に、いや、きっとこれは本当の彼なのだろう。
「ああ」
頷いた彼の頭にそっと触れた。
久し振りに触れた髪はあの頃と変わっていない。
荒くならないよう優しく彼の頭を撫でた。
おそるおそる彼の顔を見ればそれはもう穏やかに目を閉じていた。
「、ふぉ、IV····」
胸にじんわりと広がった暖かいもの、これを母性と呼ぶのだろうか。
思えば私は求めてばかりだった。
例え都合の良い存在であろうがそれでもいい、なんて言いながらも私はずっと振り向いてほしいと願っていた。
荒れた彼を見て、傷付いた彼を見て安心していた。
そのおかげで私は求められているのだから、と。
そんな私に彼への愛はあったのだろうか。
今抱いた感情、きっとこれこそが愛情なのだろうと気が付いたのだ。
「っ、ご、ごめんっ···なさっ····!」
私はあの時彼に利用してくれて構わないと言いながらも実のところ彼を想う気持ちなんて持ち合わせていなかったのだ。
ただただ自身の欲を満たす為に。
その醜い欲望をまるで彼の苛立ちや不安を受け止めるだなんて尤もらしい言い訳を言って自身を犠牲者のように見せかけて。
なんて、なんて
「今名前が謝ってる理由なんとなく分かってるけどな、んなのお互い様だろ。
でもお前がそれで楽になるってんならいくらでも聞いてやる。
だがその代わり俺の話も聞け」
謝罪というものにはいくつか意味がある。
一つは心底後悔して相手の痛みを知り自然と出た言葉。
一つは形式上に行われた義務的なもの。
一つは自分が楽になりたい、許されたいから出た言葉。
私は一体どんなつもりで彼にごめんなさいを言ったのだろうか。
考える事が怖かった。
「俺はやってはいけない、クズとしか言えないような事をやる必要があったからやっている、そう言い聞かせてやってきた」
私は彼が何をしていたか知らない。
「散々他人を傷付けておいて被害者だと言わんばかりに行き場のない苛立ちをお前にぶつけて名前の俺への好意を利用した。
都合の良いことにお前は口が固かった、それをわかった上でだ」
それは私だって同じだ。
彼は有名人だからこそ恋人でもない女と体を交えているだなんて、絶対に口外しないだろうと分かっていた。
だから応えてくれる事はなくとも一時の火遊びだとしても好意を寄せる人の憂さ晴らしに手を上げたのだ。
「名前、俺は今幸せだよ。
確実にその筈だ。
でも足りないんだ、これは俺が望んでいいことじゃないって分かっている。
それでも俺はやっぱり我が儘なガキのままなんだろうな」
彼の手を掴んでいた手の力が抜ける。
IVは私の顔を両手で包んでそして顔を近付けた。
「···嫌だったか?」
久し振りに唇が合わさったその瞬間彼に抱かれた時の事を思い出した。
そこに愛なんてものはなかった筈だ。
それでも、例え快楽を得る為だけだったとしても彼が何度もキスをしてくれる事が嬉しかった。
「今度は俺がずっと名前を想うから。
···だから俺を傍にいさせてくれないか?」
こんな未来を想像しただろうか。
愛されたいと叫びそうになった。
それを望んだ。
でも愛されてもいない人に身体を開いた私にそんな未来は来ないと気付いていた。
それでも彼にとって通行人Aにはなりたくなかった。
プライドなんてものは持ち合わせていなかったのだ。
「···同情、してる?···罪滅ぼし、とか」
彼が本当は優しい人なのだろうということはなんとなく気が付いていた。
でもそれに気付かぬフリをしていた。
負い目を感じていてくれたら、きっとそんな気持ちがどこかにあったのだ。
私は聖母マリアのようにはなれなかったのだ。
「情はある。悪いとも思ってる。
でも、もっとシンプルに考えたら···名前、俺はお前が隣にいないのが寂しい。
顔が見たくなる、顔を見れば触れたくなる。
お前にとってそれはただの性欲に思えるかもしれねぇ。
でも俺は今お前を抱きながら、···わかるだろ?」
IVは私の頭をぐっと胸に押し当てた。
彼の心臓は驚く程早く鼓動を刻んでいる。
「ガキみてぇで笑えるだろ?
···もう何度も抱いてるってのに」
言いたいことは沢山あった筈なのに私はその心音を聞いてそれを忘れてしまった。
ただただ彼が愛しいのだ。
「俺はガキだから難しい事は分からねぇ。
そんなガキのただの我が儘だ。
名前、俺はお前を誰にも渡したくねぇ。
俺以外の男に抱かれるお前なんて想像しただけで腸が煮えくりかえる」
言葉は多少荒々しかった。
それでもその声色はとても穏やかで優しくて、甘い。
「······名前、呼んでもいい?」
「ああ、呼んでほしい」
彼の本名を知ったのは事故のようなものだった。
それを知った時彼は絶対に自分の名を口にするなと私に厳しい視線を向けた。
彼の機嫌を損ねたくなかった私は何も聞かずにただ頷いた。
そんな私に彼は一人言のように小さく呟いたのだ。
全てが終わるまでその名は捨てたのだと。
「······トー、マス、」
「···ん」
彼の目が私を見る目が語っていた。
「トーマス、っす、すき、なの···ずっと、ずっと」
「ああ、待たせて悪かった。
俺も名前が好きだ」
まるで夢のようだった。
嬉しくとも心臓が痛くなるのだろうか?
それでもその痛みが今これが現実なのだと私に教えてくれている。
「···トー、マスとする、時、好きって言っても、いい?」
それは言葉に出すことは躊躇われた2文字だった。
重い女だと思われたくなかった、捨てられたくなくて言えなかった言葉。
「いくらでも言えよ。
まぁ俺の歯止めが効かなくなる覚悟はしてもらうがな」
今だって可愛くて仕方ないのに、なんて···彼の言葉ひとつで私は死ぬのではないかというくらい心臓の鼓動が早くなっていく。
「トーマス、····おかえり、なさい」
「···ん···ただいま」
トーマスはあの頃よりずっと子供の表情で笑った。
でもその笑顔は優しく暖かく私を包みこんでくれた。
きっと私は彼よりずっと子供なのだろう。
そんなの一年前の私を見れば一目瞭然だ。
だが子供であったことで良かった事もあった。
あの時方法を選ばず駄々を捏ねた。
結果私は大好きな人を手に入れたのだ。
きっとこれでようやく私は大人になれるのだろう