「(面倒なことになってしまった)」
私は思わずため息をついてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
それをしてしまえば状況が悪化するのが目に見えているから。
「映画でも見る?」
トーマスはこちらを見向きもしないで首を横に振る。
それはやはり寂しい。
タイミングが悪かったのだ。
トーマスの家までの道のりなんて迷う筈が無いほどしっかりと覚えている。
それでも彼は私を駅まで迎えに来てくれる。
それは私を大切にしてくれているから、それが分かっているから強く拒絶することはなかった。
トーマスと二人で歩く道のりは好きだ。
本来であれば楽しい時間だった。
誰も悪くない、強いていえば私の対応が悪かった。
いっそ私がほんの5分でも遅刻していれば起こらなかった出来事だっただろう。
だが私が早く着きすぎることはあっても遅刻することは無い。
浮かれているのだ、それほどに。
「ごめん、お手洗い借りるね」
居たたまれなくなった私は一時的にトーマスの部屋を出た。
そこでやっとため息がつけた。
こんな筈ではなかったのにただただ時間だけが過ぎていく。
大したことではない、トーマスが着く直前に知り合いに声をかけられたのだ。
よりにもよってその相手は私が昔付き合っていた人だった。
その場は挨拶程度ですぐに別れたのだけれどそれを見ていたトーマスはその人が立ち去ったその人の事を聞いてきた。
隠すのも後ろめたいと思った私は正直に彼のと関係を答えた。
そうしているとスマホがメッセージの着信を知らせた。
先程話したばかりの彼だった。
内容は《久しぶりに飯食いに行かない?》と至ってシンプルなお誘いだった。
彼が私に下心なんてもう持っていないことを私は何となく察していた。
彼は私に今恋人がいるかなんて知らない。
だからこれはただ友人としてのお誘いだ。
きっと悪意は無い。
だがこのメッセージを見たトーマスは眉間に深くシワを寄せ舌打ちをしたのだ。
それは私を愛されているが故の苛立ちだろう。
けれど私だってトーマスの事が好きでこうしているのに嫌味ったらしく「どうすんだよ、物好きが案外いるもんだな」なんて言われてしまったものだから少し悲しくなってしまった。
私は彼に《お付き合いしてる人がいるので行けません》と返信した。
するとすぐに彼は了承したと返事をくれたのだ。
だから本当に何もなかったしトーマスは全て見ていた筈なのに部屋で二人っきりになっても私の顔も見てくれない、話しかけても素っ気ない態度、寂しかった。
洗面台の鏡に写る自分を見る。
いっそ顔でも洗えばすっきりするのかもしれない。
だが化粧をしているのでそれは叶わない。
今日塗ったリップはトーマスがくれたものだった。
自分では買わないようなハイブランドのリップはトーマスと会う時にしかつけていない。
色もトーマスが決めて贈ってくれたものだ。
私に似合う色を考えてくれたことが嬉しかった。
こんな場所であまり長居をするわけにもいかない。
私は憂鬱な気持ちを抱えながらも再びトーマスの部屋に戻った。
ドアを開けた瞬間トーマスと目が合ったがまたも逸らされてしまう。
それがとても寂しかった。
「······トーマス、私こんなの寂しいよ」
重い空気が漂う中私は勇気を出して彼の隣に座った。
逃げはしないもののこちらは見てくれなければ返事もしてくれない。
もう今日は駄目なのかもしれない。
「···ごめんね、今日は帰るから、またトーマスが会いたくなったら誘ってくれる」
そう声をかけながらもそんな日が2度と来ないのかもしれないのではと考えた。
私は彼に嫌われることが怖かった。
あの鋭い目付きでこちらを睨み付けられたら怖くて悲しくて何も言えなくなってしまう。
だから不安を感じながらも今は一旦身を引いた方がいいかもしれないと考えたのだ。
立ち上がり先程脱いだばかりの上着を取ろうとしたそのとき、トーマスが私の手首が掴んだ。
「···帰れなんて言ってない」
「······でも···」
トーマスの手に力が入る。
それはもう痛いくらいに。
私はもう一度彼の隣に腰を掛けた。
「···いてもいいの?」
「···当たり前だろ」
トーマスは私の手を離さない。
逃がさないと言っているようなものだ。
私だって望んで帰るだなんて言ったわけではないのに、全く変な状況だ。
「······あいつ···」
「···なに?」
トーマスは何か言おうとしたのだがすぐに口を閉ざしてしまった。
内容は想像がついている、けれど私はトーマスの言葉で聞きたかったから彼が話してくれるのを待った。
「···いつ、付き合ってた?···どのくらい、どんな風に、······どこ、まで···」
本来であればマナー違反、デリカシーの無い質問だ。
だが私はトーマスにならば別に聞かれても構わない。
やましいことは何もない。
今私が愛しているのはトーマスだけなのだから。
過去の私だって彼とはきちんと付き合っていたのだ。
不適切の行いはしていない。
「高校生の頃、半年くらい。
お互い部活や勉強で殆ど会えなくなっちゃって恋人らしいことも出来なかったから別れましょう、って。
······キスまで」
私がキスと言った瞬間私を掴むトーマスの手に再び力が込められた。
痣でも出来そうだ。
「···ムカつく」
「···許してもらえない?」
トーマスはやはり不快に思ったらしい。
トーマスが独占欲が強いということは知っている。
でもだからと言ってそれは過去の話だ。
起こった出来事は無かったことになんて出来ない、だからどうしようもないのだ。
「ト、トーマス?」
謝るべきなのかと決めかねていた私をトーマスがソファーに押し倒した。
そして今度は両手首をがっちりと掴まれてしまう。
「···名前とたまたま同じ学校に通ってたからって理由で俺より早く出会って俺より先に恋人になって手出して、全部むかつく」
「んぐっ」
トーマスは私に覆い被さり噛みつくかのように荒いキスをした。
こんなに荒っぽいキスをされたのは初めてだ。
トーマスにされるのであれば別に嫌ではない。
だが本音を言えばこんな風に力でねじ伏せられるよりも抱き締められてされたかった。
「···名前、名前···」
舌が捩じ込まれた。
初めて味合う他人の舌の感覚に背筋がぞくりとした。
トーマスはこんなキスを私以外ともしたのだろうか?なんて考えてそこで彼の気持ちを理解した。
好きだからこそ悪い想像をしてしまうのだと。
私もトーマスを求めているのだと伝わるように私も口内を荒らすトーマスの舌を吸ってみた。
すると一瞬ぴくりと反応したのが可愛かったのでもう一度同じようにした。
するとトーマスは驚いて私の上から身を起こした。
自然と目に入ってしまったそれを見て私の顔が熱くなる。
見てはいけないものを見てしまったと気まずくなって慌てて顔を逸らした。
トーマスは乱暴なことをする方が興奮する人なのだろうか?
だとしたら少し悲しいかもしれない。
「···お、男なんて皆こんなもんなんだよ」
「え、なにが?」
考えていたことが顔に出てしまっていたのだろうか?
トーマスは顔を真っ赤にして怒り始めた。
「す、好きな女とキスなんてすりゃあそりゃあ勃つに決まってんだろ!!」
「え、あ、う、うん···?」
どうやらトーマスは私がトーマスが元気になっていることに引いたと勘違いしているらしい。
「なんなら手繋いだだけでも抱きしめた時でも勃ちそうになってんの我慢してんだよ!!」
「わ、分かったから!
別におかしいなんて思ってないから···」
開き直ったかのように次々と暴露を重ねるトーマスを宥めようとした。
これはきっと後で本人が後悔することは目に見えているから。
それにしても手を繋いだだけでも、なんて大変なんだなぁと思ってしまった。
でも私もトーマスと手を繋げばドキドキするしその延長なだけなのかもしれない。
「···だから俺以外の男が名前とキスしただなんてムカつき過ぎて殺したくなんだよ」
「···ご、ごめん······」
謝罪の言葉を口にしながらも果たして彼が今のトーマス程私を熱烈に求めていてくれたかは分からない。
そもそも始まりも緩かったのだ。
いつも遊んでいてなんとなくお互い付き合ってみる?なんて。
これは言わない方がいい情報だろう。
若すぎたのだ、あの頃は。
だって今トーマスの事は間違いなく。
「もうトーマスとしかしないよ」
なんとなく、なんて気持ちではない。
手を繋ぐのも抱きしめられるのも、もっともっと、って望んでしまう。
きっと時間が合わないから別れよう、なんて言われてしまったら私はそれをすんなり受け入れることは出来ないと思う。
「なっ、泣くことないだろ!?」
「えっ···」
自覚は無かった。
だが目元を拭えば確かに濡れていた。
少し想像しただけで泣いてしまうだなんて、これ程までに私は繊細だったのだろうか?
「あ、はは···ごめん、トーマスにフラれちゃったら怖いなって考えてたらちょっとセンチメンタル入っちゃったみたい」
「は、はぁぁああ??!!
俺が今どんだけお前が好きかって話してんのになんでそんな訳の分からねぇ想像してんだよ!?」
それは多分子供じみて恋とは呼べずとも恋人と別れるという体験をしたせいだろう。
いつか別れる時がくるかもしれないという想像が出来てしまったせいだ。
絶対はあり得ない。
それが分かっているからこそ今トーマスと過ごす時間を大切にしたいのだ。
「ごめんね、でも私トーマスが思ってるよりずっとトーマスの事好きだよ」
だからこそ出来れば余計なすれ違いはしたくない。
過去の私よりも今の私を見てほしい。
「私はトーマスにだったら、トーマスが好きでいてくれるなら、その···む、むらむらしちゃってもいいし受け入れたいからいっぱいハグだってキスだってしてほしいよ!」
「あっ、お、おい···!」
今度は私の方がトーマスを押し倒す勢いで抱き付いた。
細いけれど私より広い胸に顔を寄せぎゅうぎゅうに抱き付いた。
トーマスの心臓の鼓動は凄く速かった。
それが可愛くて愛しくて嬉しい。
「キスしてもいい?」
「···責任、とれるんだろうなぁ···」
これはシたいということだろうか?
トーマスの言葉に私は今日はどんな下着を着けていたかを考えた。
確か先週買ったばかりの刺繍が可愛いデザインのものだ。
ちゃんと上下も揃っていた。
「···うん、大丈夫」
「っ······ああもう、俺はお前の前だとホントにダセー男で嫌になる···」
多分私もどこかで期待していたのかもしれない。
トーマスとこんな風になる日を。
「私はそんなトーマスも大好き」
嫉妬深くて独占欲が強くて、私を好きで好きで仕方ない貴方が。
でもきっと私も同じかもしくはそれ以上かもしれない。
だって私の心臓はトーマスよりもずっと大きく鳴っているのだから。