「もう来なくていい」
最近では会う度に笑顔をが減っていった名前から今日完全に笑顔が消えた。
怒りなどは感じない、ただただ何も映していない、そんな目で俺とは違うものを見ている。
「なんだよ、冷てぇ女だな」
本当は動揺していた。
それでも名前の言葉に何も気にしてません、なんてフリをして必死で取り繕って俺はいつもと同じように名前の手を取った。
「手まで冷たくなっちまってるじゃねぇか」
室温は快適に保たれている。
名前は極端な寒がりでもない。
きっと名前自身先程の言葉を俺に伝える事は緊張していたのだ。
その緊張の意味はきっと俺の想像通りな筈だ。
「今日はお前の好きな菓子を買ってきてやったから、紅茶淹れてやるよ」
それでもなお震えそうになる唇を気合いで引き締めた。
ポーカーフェイスなんてお手の物だった俺はどこにいったのだろうか。
最もそんな虚勢、振り返ってみれば名前の前で一度も保てたことは無かった気がする。
「今日の茶葉はミルクティーにするのが美味いらしいから今日はお前の好きな甘いミルクティーにしてやるよ」
微動だにしない名前の手を一体離して備え付けのポットから湯を注いだ。
ここではちゃんとした紅茶なんて淹れてやれない。
茶葉も既に一杯分がパックに入って売られていたものだ。
名前は細かい事を気にする女ではなかった。
それでも俺は簡易的なものだとしても一番良い物を用意したつもりだ。
そんな事しか今の俺にはしてやれないことに苛立ちを覚えている。
「火傷したら困るから俺が先に味見するからな」
数分間待って口にした紅茶は俺には甘過ぎた、口直しがいるレベルだ。
それでも名前はこんな紅茶を幸せそうに飲んでいたのだ。
だからもし名前の願いが叶うというのならこの甘ったるい紅茶を毎日淹れてやってもいい、俺も同じように付き合える。
もし、なんて不毛な想像をしてしまう自分はどこまで小さな人間なのだろうか。
「ほら、もう大丈夫だ」
ティーカップではない、安定感を重視したマグカップを名前の両手に握らせた。
その冷えた手が少しでも温まるように。
名前はゆっくりとした動作でカップを口元に運んで傾けた。
喉がゴクンと上下した、どうやら紅茶は無事名前の体内へと流し込まれたらしい。
ただ紅茶を飲んだ、それだけのことで俺は小さな溜息を溢してしまったのだから笑えない話だ。
「名前、俺はあの時の約束を忘れてねぇからな」
何があっても離れないと誓ったのは名前の筈だった。
まるで結婚の誓いの言葉のような。
だがあの時交わした約束はそんなに甘く暖かいものでは無かった筈だ。
どんな俺でも見限らない、そんな事をするくらいなら死んだ方がマシだとまで言ったのだ、あの時名前は。
「...あの時とは状況が違う。
これじゃ貴方を守るどころか足手纏いにしかならない」
何処を見ているか分からない名前のその光のない瞳からぼたぼたと涙が溢れていく。
泣き顔を見たのは今日が初めてだった。
その姿がこんなに息苦しいものだったなんて、俺は知らなかったのだ。
名前はいつだって虚勢を張っていたから。
俺の前で弱音を吐くことなんてしなかった。
それもみんな俺のせいで。
俺が言ったのだから、弱い奴は要らないと。
名前はその約束を破棄しようとしている。
だからこそ今こうして涙を流しているのだ。
もしかしたら俺の知らない場所ではこうして泣いていたのかもしれない。
俺と一緒にいたくてずっと本心を隠して。
「全部終わったんだ、あの時の約束なんてとっくに時効だろ?
もう俺には守るべき家族も成すべき事もない」
すぐに感情的になる女というものが嫌いだった。
自分だってそうだったのに、全くガキだったと呆れてしまう暴君だった。
今だって俺はまだまだガキのままだ。
大好きなものを手放したくなくて駄々をこねているようなものなのだから。
「荷物全部降ろしちまったら身体が軽くて気持ちわりぃんだよ」
名前の身体を抱きしめた。
拒まないよう手首を捕まえて。
俺は所詮ガキだから今だって拒絶されるのが怖い。
「頼むから俺の側にいろ、離れるっつぅなら俺は何するかわからねぇからな」
脅しのような言葉、だがそれに威厳なんてものはないだろう。
俺の手は先程の名前の手首と同じくらい冷たくなっている。
どんなに強い言葉を使ったところでこの手は捨てないでと縋っているのだから。
いつだってカッコ悪い自分が嫌になる。
「...本当にそれで、トーマスは幸せになれる?」
震える唇から絞り出された言葉、涙は止まることはない。
「男ってのは抱える荷物が重い程燃えるもんなんだよ」
本気で名前を荷物だなんて思っているわけじゃない。
それでもそう表現したのは今の名前にどんな綺麗事を言った所で受け入れないと分かっているからだ。
荷物とわかった上で受け入れているという事実の方が名前を縛り付けておける。
もう俺には名前の思考回路なんて分かりきっているのだ。
仮に歩けなくなっても俺が抱えて歩いてやる。
それも出来ねぇくらいジジィになったら車椅子を押してやるから。
だからその瞳で俺が見えなくなったくらいで俺を捨てないでくれ。
その瞳に俺を映すことはできるのだから。
俺の手を握り返して俺の名を呼んで、俺の身体にしがみついて。
自分1人じゃ何も出来ないような弱い奴でいいから。
頼むから俺から離れていかないでくれ。
お前の荷物はいくらでも背負ってやるから。