インターホンを鳴らすも反応がない。
どうやらこの部屋の家主である名前は留守なようだ。
どうしようか悩みつつも俺はその扉に寄りかかりそのまま力無く座り込んでしまった。
体調が悪い訳ではない、ただ気が抜けてしまっただけだ。
名前とあの日再会してから約一年、色々な事があった。
その前から決して褒められた事では無いことも沢山した。
トロンに言われた事とはいえ、それは最終的に自分自身でやると決めた事なのに時折苦しくて痛くて心の中で何かが悲鳴をあげていた。
それは気付かないふりをしていればいつの間にかいなくなってそしてまた現れる。
そんな事を繰り返しているうちに慣れてしまったように感じはじめたその時、俺は名前に再会した。
その瞬間どす黒く不快なものが一気に胃から込み上げてきた。
今にも吐き出しそうになる自分に気がついた名前は急いで俺に駆け寄り声をかけた。
名前の手が俺の背中に触れた瞬間その吐き気を抑えきれなくなった俺はその場で嘔吐してしまった。
名前は驚きながらも俺の背中を擦り俺を安心させようと声をかけた。
俺は昔と変わらない名前の優しさに恐ろしく心を締め付けられ自分の意思とは関係無しに涙が溢れた。
背に触れている手が汚れていない綺麗なものに思えて苦しい。
そのまましゃがみこんでガキのようにみっともなく泣く俺の背中を名前ただただ優しく擦り続けた。
触れさせてしまっていることへの罪悪感はなくならないのにその手がたまらなく愛しくて、そのまま名前に抱き付けば勢いあまって名前は地面に尻餅をつく形になってしまった。
それでも名前は俺を拒む事はなく俺を抱きしめ頭を撫でてくれた。
俺はそれが嬉しくて悲しくて悔しかった。
「全部話してほしいとは言わない。
これだけ悩むってことはトーマスが悪い所もあったんだろうね。
私じゃ理解出来ない事もきっとある。
それでも私は貴方といたいと思っているよ。
貴方の全てを分かってあげられない私がそれでもトーマスの側にいたいと思っていることを許してくれる?」
それは父さん達を裏切る行為に等しく思う。
それでも俺は自分の罪悪感をぶちまけて少しでも心を軽くしたくなってしまった。
ただただ自分が楽になりたいが為に名前に自分達がやってきたことをぶちまけた。
だらだらと自分の行いを少しでも許してほしくて自身に都合の良い言い訳を述べながら。
どこかで名前なら俺を優しく抱き止めてくれると期待しながら必死ですがる俺の目を見る名前の表情は固かった。
そして名前の目に映る俺の姿はおぞましい程に醜かった。
しかし何故か俺は全てを肯定するではない名前が口にした俺の全てを理解出来ないし間違っていることもあるという言葉が何故か妙に嬉しかった。
理由は今なら分かる。
その言葉は俺をしっかりと見て俺の事を考えてくれた上で言ってくれたことだったからなのだろう。
父さんは再会してからというもの姿だけではなく全てが変わってしまったように思う。
兄貴はその父に寄り添う形で俺達とは距離を取りミハエルは温厚な青年に成長していたがその顔に影を落とす事が多くなった。
必要以上に会話をすることはない。
再び再会した家族は同じ道を歩いている筈なのにバラバラだった。
それが寂しくて時折昔の夢を見るようになった。
父さんが昔の姿でミハエルと一緒に兄貴や名前にデュエルを教えてもらっていた頃の夢を。
初めて恋をした女の子と話をするだけで嬉しくて仕方がなかったあの頃を。
「今の俺に名前を望む資格が無いことは分かってる。
それでも、····それでも俺は、もう、名前と離れたくない!」
だからこそみっともなくすがった。
なんて無様だろう、なんて浅はかなのだろう、怖い、怖くてたまらない。
それでも名前を離すことが出来なくて俺に掴まれた名前の腕が軋んで悲鳴をあげる。
爪が柔らかい肌に食い込んできっと名前は痛い思いをしている。
それでも尚俺はその細い腕を離せなかった。
「離れなくたっていいよ。
一緒にいていい?って聞いたの私でしょう。
理由も資格も十分にあるじゃない。
私達友達でしょ?」
名前の言葉が俺の心を抉る。
恐ろしいほどに優しい言葉を貰っているのに、どうして、どうして俺はこんなにも欲が深いのだろう、と泣きたくなった。
「名前····好きだ、ずっと、名前が好きで好きで仕方なかった。
だからずっと、ずっと側に····お願いだから」
肩を掴んで自身の胸に名前を閉じ込めた。
それは名前から拒絶の言葉を聞きたくなかったが故だ。
強く強く抱きしめた。
名前は尚も優しく俺を黙って撫で続けた。
ふと先程掴んでいた名前の腕を見ればそこには赤い痣と爪が食い込んだ事に肌を傷付け、そこから少量の血が出てしまっていた。
自身の心臓が大きくドクンと鳴った。
ほぼ無意識で腕顔を近付け気が付けばそこに舌を這わせていた。
俺の突然の行為に名前はびくりと小さく身体を弾ませた。
舌に残る血液特有の鉄の味に俺自身の血液が沸騰したように感じた。
それは要するにはこのまま抱いてしまいたいと思う程欲情したのだ。
それでもなんとかなけなしの理性を持ってして名前から離れた。
名前はやはり困った顔をしていたし俺はギラギラと腹を空かせた獣のような目をしていた。
「····トーマス、」
「悪い、もうしない」
何か言おうとした名前の言葉を敢えて遮るように謝罪の言葉を口にすればそれを察した名前は開きかけた口を閉じた。
「····もうしないから、たまに会いに来ても、いいか?」
情けなくすがる俺を見て名前はどこか安心したような呆れたような表情を見せる。
「当然でしょう、いつでもおいで」
名前は当たり前のように俺を受け入れた。
どうしてこんなに優しくしてくれるのだろうか分からなかった。
きっと名前は俺じゃなくても皆に優しいんだろう。
きっと兄貴やミハエルにだって同じようにするのだと思えば胸が締め付けられた。
人を好きでいることがこんなに辛いことだなんで笑えない、そうその時心の底から思った。
「あれ?ごめん、トーマス!待たせちゃったね!」
名前の帰宅を待ちながらそんな風に再会した頃の事を思い出しているとようやく本人が現れた。
俺に謝罪を入れると急いで自宅の鍵を開け俺を部屋に入るように促した。
「早く上がって!すぐお茶入れるからね」
どうして顔を見ただけでこんなに安心するのだろうか。
俺に背を向けブーツを脱ごうとしていた名前の背中が愛しくなってそのまま後ろから抱き締めた。
再会しみっともなくすがって泣いたあの時以来こういった接触をしていなかったので名前は驚いて振り返り俺の顔を見た。
近すぎる距離にある名前の唇に思わずキスをしたいと思ってしまったがなんとかその欲求を封じ込めた。
「どうしたの?」
名前は俺を引き剥がそうともせずにそう聞いた。
恋人でもない異性に抱きつかれているというのに無防備にも程があると思う。
「全部、終わったから」
名前はハッとした顔をする。
その短い一言でそれが何を示すかを察したのだろう。
「····お疲れさま、トーマス」
名前の見せる笑顔は時折母親のように優しく思う。
俺はそんな顔についつい甘えてしまいたくなる。
17にもなるというのにそれを名前が拒む事をしないのでやめられない。
それでも俺が名前に求めているものは決して母としての愛情等ではないのだ。
「全部が終わっても俺がやったことは消えない。
許されたとしてもなかった事には出来ない、だから俺に出来る方法で少しでも挽回していきたいと思っている」
名前の顔を見るのが怖い。
いつだって名前は俺を真っ直ぐ見据えているから。
目を逸らさせてくれない、逸らしてくれない、そのままの俺を見ている。
「きっと何をしたって俺の事を嫌って許せない奴もいると思う。
贅沢なのかもしれない、でも俺は」
油断をすると声が震えそうになる。
暑くもないのに背中を汗が伝う。
本当にみっともない人間だ。
「····俺は名前が好きだ、愛している、ずっと昔から。
調子が良いことを言っている自覚もある、でも、········悪い」
俺にそんなことを言う資格があったのだろうか?
こんなに汚れた自分がこんなに綺麗なものを望むなんておかしいのではないだろうか、そんな不安が俺の言葉を封じ込めた。
「お疲れさま、トーマス」
そんな考えが頭から離れず言葉を詰まらせていた俺に今まで黙って俺の話を聞いていた名前が口を開いた。
それは驚く程普段と変わらないトーンだった。
「ねぇトーマス、私もね、貴方の事大好きよ」
それを聞いてフラれたのだと錯覚した。
あまりにも当たり前のように、軽やかに口にしたからこそ異性として見ていないと言われたように感じたのだ。
「····もしかして伝わっていない?
私も貴方を愛していると言っているのだけれど」
俺の考えていることを察した名前が言葉を付け加えた。
その愛とは本当に俺と同じ愛なのだろうか。
「····俺はお前とずっといたいしお前が俺以外の男と仲良くやってたら嫌だし、いつだって抱き締めたいと思ってるしキスだってそれ以上の事だってしたいって思ってる。
····俺の愛しいるはそういうことだ、それと同じだと受け取っていいのか?」
俺の言葉に名前は照れたように笑って首を縦に振った。
そんな名前に俺の思考は完全に停止した。
反応を見せない俺の顔の目の前で名前が手のひらをヒラヒラと振った。
その手を掴んで指を絡ませれば名前は再び頬を赤らめた。
名前が自分のものになったのだと急激に理解して途端に身体の熱は増していく。
「·······やべぇ·····」
「どうしたの?」
正直に伝えていいものだろうか。
何分初めての事なので勝手がわからない。
それでも名前であればきっと怒らないであろうと考えそれを口にした。
「名前にキスしたくて仕方ない」
ストレートに今の気持ちを伝えれば更に顔を赤くして名前は答えた。
「····私も、トーマスとキスしたいよ」
その語尾は言い終わる迄にどんどん小さくなっていった。
だが二人しかいない静かな部屋でそれが聞こえない等ということは無く、俺の耳ははっきりとその意思を受け取った。
「····名前····」
名前を呼んで唇を近付ければ名前は拒むこと無く目を綴じた。
そこにそのまま優しく唇を押し当てれば柔らかい感覚が俺の唇に伝わった。
名前はいつだって俺を優しく受け止めるくれる。
ほんの数秒触れていた唇をゆっくりと離せば名前は目を開けて嬉しそうに笑った。
それはもう母のような表情ではなく女の表情をしていたように思う。
「····ありがとう、トーマス」
今度は名前から俺に抱き付いた。
その華奢で柔らかい身体がとても心地が良い。
「····俺の台詞だろ」
「そんなことないよ。
あ、そうだ」
名前が俺から離れ何かを思い出したかのように鞄をあさり始めた。
そしてお目当ての物を取り出して俺に差し出した。
「これ合鍵作ってきたから、今日みたいな日は部屋に上がって待ってて?」
そう言って俺にそれを握らせた。
それに少し戸惑いながらも頭に浮かんだ疑問を口にする。
「最初から俺に渡すつもりだったのか?」
恋人でもない家族でもない俺に、と続けようとする前に名前は口を開く。
「トーマスは特別だからね」
どうして名前はこんなにも俺を喜ばせる事が上手いのだろうか。
「取り敢えずそろそろちゃんと部屋に入ろうか」
そう言われて気がついた。
自分達がまだ玄関にいたことに。
しかしそれもどうにも悩んでしまう。
「どうしたの?」
動こうとしない俺を見て名前は訊ねる。
言っても怒らないだろうか?多分怒らないのだろうとは分かっているのだろうが罪悪感的なものがないとは言えない。
「····今一緒にいると、色々とまずい。
····理性が持ちそうにねぇ」
「え」
俺の今の正直な気持ちをそのまま言葉にすればやはり名前は固まってしまった。
やはり言わなければよかったかと思い後悔した。
鍵をかけてしまっておきたい程大切な存在だ。
だからこそ大事にしたい。
「····から、俺今日は帰る。
一回落ち着いてからまた連絡するな」
内心は惜しみながらもそう言って再び靴を履こうとした時、名前が俺の背中に貼り付いた。
「····おい、勘弁してくれよ。
今は本当に色々とまずいんだよ。
これでも必死で我慢してんだぞ」
俺の事情にすぎないのだが全ては名前の為だ。
それでも自ら名前を引き剥がすような事は出来なくて言葉で制した。
それでも名前は俺から離れようとしない。
「····大丈夫····大丈夫だから、トーマスといたい」
その言葉にどきりとして振り返るも俺の背中に顔を押し付けている名前の顔は見えない。
「········俺は名前を抱きたいのを我慢してるんだってことだぞ?」
そう言葉にすれば背中にあたるやわらかな胸から名前の速すぎる心音が伝わってきた。
意味は理解しているらしい。
その心音に釣られてどんどん俺の心拍数も上昇していく。
「····わかってるから」
「····その言葉、後悔するなよ····」
小さく小さく呟いた声にそう伝えれば名前は小さく首を縦に振った。
俺は今日夢にまで見る程望んだ女を抱いた。