扉の内から消えた希望

この仕事に意味があるのか、私がやらなければいけない事なのか、そんなよくある不満を持つ事は度々ある。
それでも私には何よりお金が必要だった。
だからこそ都合よく使われているなと内心思いつつも二つ返事でそれをこなしてきた。
全てはお給料をいただくために。
それは私に絶対的な癒しを提供するのに必要だったから。
ただ生きていく為だけならこうまで割りきることは出来なかったと思う。
私には食べる事よりも遊ぶ事よりも眠る事よりも何よりも大切なものがあった。
私にとって唯一の生き甲斐と呼べるもの。

押し付けられたそれが終わり席を立ち身支度をする。
誰もいなくなったフロアの灯りを消して会社を出て駅へと向かう。
人通りも少なくなった道を歩く私の足は軽かった。
ガラガラになった車内にはくたびれたサラリーマンと遊び帰りの若者達が数人。
その中でも今一番幸せな感情を抱いているのは私だろうと思う。

自宅最寄りの駅で電車を降り徒歩10分の道を駆け足で進む。
ヒールで走る事にもだいぶ慣れた。
くたくたな筈なのに身体は軽かった。
全てはご褒美の為だった。


「ただいま」

少し乱れた息を整えながら自宅のドアを開けてる。
そうすると中にいた人物が顔を出す。

「おかえり」

彼の、遊城十代のそのたった一言で私の昼間感じたストレスは全て消え去ってしまうのだ。

「今日も残業大変だったな」

十代は私を労るようにぎゅっと抱きしめてくれる。
その瞬間恐ろしい程に幸福に満ちていた。

「あのね十代、明日はボーナスの日なの。だからパァーっと遊びたいなって思って!付き合ってくれる?」

私の会社はこのご時世幸いな事に残業代もボーナスもきちんと支払われる会社だった。
私と十代は恋人同士なとではない。
十代は所謂私のヒモだった。
お金を支払う事によってこの幸福な時間は保証されていた。
それを支払いさえすれば十代は私のちょっとした我が儘なら叶えてくれる。
そんな関係だった。

「お、やったな!じゃあ明日はなんだって付き合ってやるぜ!」

十代は私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

誰がなんと言おうと私は本当に幸せだった。





「じゃあいってきます!」

翌朝いつもと同じように家を出る。
今晩の事を考えて興奮のあまりいつも以上に十分な睡眠をとる事が出来なかった。
それでも私の頭はスッキリとしていた。

「いってらっしゃい、無理すんなよ〜」

十代はそう言って今日はサービスだと言わんばかりにいってらっしゃいのキスをくれた。
今日私は死ぬのではないだろうかというくらい幸せだと思った。
窮屈は電車に乗り込み会社へと出勤したにも関わらずやはり私の心は軽かった。




その日の就業時刻、まるで奇跡でもおきたかのように残業にはならなかった。

ボーナス支給日という事もあり、同じフロアで働く者達皆が心なしか浮き足たっているように見えた。

お疲れ様ですと声をかけ私は会社を飛び出した。
駅に行く事さえまどろっこしいと感じ、すぐにタクシーを捕まえた。

今の私には一分さえ惜しく感じたのだ。

「お姉さん、なんだかとても機嫌が良さそうだね?彼氏と待ち合わせかな?」

運転手のそんな質問にとりあえずそんなところです、と返しておいた。
そのやり取りでいかに自分が受かれているのかという事を理解した。

運転手に運賃を支払い自宅のマンションの階段をかけ上った。
エレベーターを待つ余裕などなかった。


「ただいま!!」

ドアを開け元気いっぱいにいつもの言葉を言った。

しかしその日はいつもと違った。

(おかえり)

どれだけ待ってもその言葉は帰ってくる事はなかった。
それっきり。











あの日から一年が経った。
十代はあの日を境に完全に私の前から姿を消してしまったのだ。
あの日恐る恐る自宅のクローゼットを開けると十代の私物が全て消えていた。
私は涙を流すことはなかった。
ただただ、虚無が広がった。
心にぽっかりと空いた穴は哀しみも絶望も感じさせなかった。
ただただ無だった。

十代と過ごす為にと働いていた仕事も驚く程今まで通り取り組めた。
寧ろ仕事があって良かったとさえ思った。
それでももう無理をしてまで残業をして働く必要がなくなった私はある程度押し付けられる仕事を断るようになっていた。
毎晩終電近い電車で帰っていた頃と比べるとよっぽど人間らしい生活を送っていた。
それでも駅へと向かう道程と帰宅ラッシュで窮屈な車内さただただ苦痛なものになった。

(どうせ明日から連休だから今日は歩いて帰ろう)

その日なんとなく電車に乗ることに嫌気がさしていた私はその日気まぐれで帰路を歩くことにした。

いつもと違う風景になんだか不思議な感覚を覚える。

初夏にしてはやや肌寒い、その寒さは今の私の心を軽くした。

久しぶりにリラックスした気持ちになっていたと思う。

そう感じたその時だった。
神様はどうしてこんなにも私に残酷な仕打ちを向けるのだろうと一瞬呼吸が止まった。


「じゅ、じゅう、だい」

一年前とまったく変わらぬ笑顔で十代はそこにいた。

思わず私そのは十代の腕を掴んでしまった。
 
振り返った十代。
隣には金髪の美しい長い髪をもつ女性が。
私とは比べ物にならないほど整った顔をしていてスタイルも良く、品の良さそうな雰囲気をか持ち出していた。

十代は私の方を見た。
一年ぶりに合ったその目に頭をガツンと鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
そしてそれは鋭利な刃物となって私に更に襲いかかる。



「お前誰?」

十代は怪訝そうな顔をしてそう言ったのだ。
隣にいた女性は不思議そうに十代と私の顔を交互に見た。

(そうか、きっと、十代は大切な人に出会えたんだ)

その時それを理解した。
あの女性と十代の関係は私と十代と同じ関係ではないことなど容易に予測できたのだ。
そして何故か私はそれをすんなり受け入れてしまった。

私は掴んでいた十代の腕を離した。

これで本当にもう二度と触れることが出来ないであろうその腕を。

「····す、すみません、人違いでした」

そう言って頭を下げた私の声は震えていなかっただろうか。
今の私にはわからない。

頭をあげられるずにいるうちに十代は私に背を向け去っていった。

私はその気配が完全に消えてからもなおなかなか顔があげられなかった。

(なんで、今頃)

はらはらと流れる涙にショックを受けた。
私には十代が必要だったのだと思い知らされ、十代には私など必要なかったのだという事を知ったのだから。

一緒にいてくれたらいいだなんて嘘だったんだ。

私は本当の意味で十代に愛されたかったのだという事実に気付いてしまった。
そんなことずっとわかっていた筈なのに、私はその感情に蓋をして見てみぬフリをしていた。

これからもずっと私の人生は続いていく。
でもそこに十代はいなくて。
それでも私は生きていて。

ほんの一瞬でもいい、貴方に愛されてみたかった。




貴方と彼女が上手くいく未来なんて私には望めないけれど、貴方が幸せに過ごす未来は望める

だからどうか

大好きよ、十代