「···どうしたんだ?その猫···」
うちに着くなりトーマスが一言目に口にした言葉はそんな言葉だった。
私は自身の足にすり寄っていた猫を抱き上げ彼に猫の顔を近付けた。
「今日起きたらベランダにいたの。
窓を開けたら入ってきちゃった」
その猫は人間に慣れているのか部屋に入るなり私にすり寄ってきた。
元々ペットに憧れのあった私の心は途端に甘えん坊な猫に落ちてしまった。
「トーマスは猫ちゃん嫌い?」
「いや、んなことねぇけど」
トーマスは少し困ったように笑う。
好きでも嫌いでもない、というところだろうか。
「取り敢えず上がって?」
「ああ···」
トーマスは靴を脱いで部屋に上がった。
私は猫を抱いたまま部屋へと戻る。
猫は腕の中で大人しく抱かれていた。
私と目が合えば眼を細めてすり寄った。
そのあまりの可愛さに自然と口元は弛んでしまう。
「···そいつ飼うのか?」
「んー···取り敢えず迷い猫ちゃんじゃないか一応調べてみるつもりだけれど、もしそうでなければ····って思ってる。」
私の部屋はペット不可のマンションではない。
だから報告さえ済ましてしまえばすぐにでも迎え入れることは可能だ。
だがその為にも色々と準備は必要だ。
「···随分人慣れしてる猫だな」
「ほんとに。
なんだか嬉しくなっちゃって」
猫は私の胸に顔を擦り寄せた。
背中を撫でれば喉をゴロゴロと鳴らして目を瞑った。
自然と私の口元は緩んでしまう。
「···羨ましい奴だな」
「どういう意味?」
トーマスが不機嫌、とまではいかないがいつもよりいくらか不服そうな顔でドカッとソファーに腰を下ろした。
続けて私も猫を抱いたままトーマスの隣に座った。
「···」
「トーマス?」
トーマスは数秒間じっと私の顔を見た後私の肩におでこを押し付けた。
「···久しぶりに会えたんだから俺の事も構って」
トーマスの耳がその一言を言い終える前に耳が真っ赤に染まった。
きっと顔も同じように赤く火照っているのだろう。
トーマスは私の肩に顔を埋めたまま顔を上げようとしない。
「そうだったね、ごめんね」
いつの間にか眠ってしまっていた猫を膝の上に寝かせてトーマスの頭を撫でた。
やや癖の強い彼の髪は変わらず柔らかくて気持ちが良い。
猫にするように頭に顔を埋めて匂いを嗅げばそれは嗅ぎなれた香り。
「それはなんか恥ずかしいからしなくていい」
トーマスは私の手首を掴んで私の肩から顔を上げた。
頬はほんのりと赤いが耳は殆ど分からないレベルになっていた。
彼の照れた表情など何度も見てきてはいるが何度見てもその表情は可愛いので少し残念に思う。
「嫌だった?」
トーマスの顎を猫を撫でるように撫でれば少し眉間にシワを寄せられた。
「嫌、っつーか、···ああもう···」
照れているのだけで本当は嫌ではないのだろう。
トーマスは私の手をはらおうとはしない。
視線は逸らされたままだが大人しくされるがままになっている。
「大丈夫、トーマスが一番可愛いよ」
鼻先にキスをすればトーマスの視線が私の視線と交わった。
トーマスはしかめっ面で私の唇にキスを返した。
「するならこっちにしろよ」
「そうね、ごめんね」
目を瞑れば再びトーマスからキスをしてくれた。
深いものではないが唇を柔く噛むような、スライドさせて角度を変えて何度も何度も。
私の方が我慢出来なくなってより深いものを、そうしようとした瞬間
「、痛っ!」
トーマスが小さな悲鳴を上げて私から飛び退いた。
私はどうしたのかと目を開けた。
するとトーマスの腕に先程まで眠っていた筈の猫が噛みついていたのだ。
「だ、大丈夫?」
急いで猫を抱き上げればトーマスの腕に小さな赤い点がついていた。
血が滴り落ちる程ではないが彼の腕に傷をつけてしまったらしい。
猫は私が抱き上げると先程までの穏やかな表情に戻っていて可愛らしく鳴いた。
「···そいつにとって名前はもう完全に主人になっちまったようだな」
トーマスは完全に不貞腐れた顔でため息をついた。
そんなものなのだろうか、と猫の顔を覗き込めばもう一度なんとも愛らしく一鳴きして私の鼻を舐めた。
トーマスに向けた視線とは雲泥の差だ。
「···ごめん、とにかく消毒しないと」
「別に名前が謝らなくていい。
まぁそのうち和解出来んだろ」
トーマスが猫の頭を撫でた。
猫は少し唸り声をあげるものの私が抱いているせいか飛び付くことはしなかった。
相性か何かだろうか。
「···飼ってもいいの?」
「···名前が飼いたいって言ってるのに俺が止める理由がねぇよ」
トーマスはそう言った。
表情はやはり不貞腐れてはいたもののその言葉に嘘はないように思えた。
もっともそれは私の都合の良い解釈だったのかもしれない。
「まずは動物病院連れて行かないとね」
猫はにゃーんと小さく鳴いた。
まるで返事をしたかのよう。
病院が嫌いな猫がごく一般的で家庭で飼われている猫はその音を聞いたり自身が連れていかれることを察しすれば一目散に逃げ出すらしい。
だがこの猫にそんな気配は無かった。
もしかしたら病院には行ったことがない生粋の野良なのかもしれないという期待が高まった。
「家族になれるといいな」
「ずるいよな、お前は」
トーマスは何を思ってその言葉を口にしたのだろうか。
それを聞こうとしたもののその横顔がなんだかとてと寂しそうに見えて一瞬躊躇した後先に口を開いたのはトーマスだった。
「取り敢えず早く病院連れてった方がいいんじゃねぇか。
野良ならノミもいるだろうし」
私にそう提案したトーマスの顔は既にいつもの穏やかな表情で、私はタイミングを逃してしまった。
「そうね、すぐ近所に動物病院があるから連れていこうか」
トーマスは脱ぎかけていたコートのボタンを再びとめた。
一緒に行ってくれるつもりらしい。
「上着とってくるからちょっとだけ待っててね」
「ん」
寝室に入りクローゼットの一番右にかけられた一番よく着るコートを手にとった。
これももう随分長く着ている。
ブラシをかけて大切にしてきたとはいえ少し傷んできたように思う。
これを買ったのはトーマスに出会った年だった、もう4年になる。
トーマスはもうすぐ21歳になる。
彼と付き合って一年、20歳の誕生日には勿論何もしてあげられていない。
その分今年はどうしようかと最近考えるも私にとって恋人はトーマスが初めてだ。
なかなか答えが出ない。
「お待たせ」
「ん、行くか」
コートを着て靴を履き、相変わらず側に寄ってきてくれた猫を抱けばトーマスが私の腕から鞄を取り上げた。
たいした荷物は入っていないのだがここは彼の優しさに素直に甘えることにする。
「もしうちの子になったらよろしくね」
胸に抱いた猫の前足を持って握手をすれば猫は再び目を細めて鳴いた。
言葉が伝わっているかは分からない。
それでも私はそれがとても嬉しかった。
→(SIDE:IV)
全くもって面白くない、あからさまにそんな態度をとっているわけではない。
だが本音は言うまでもなくそう思っている。
「美味しい?」
猫は迷い猫では無かった。
それがはっきりとしたのはこの猫がいかに愛想良く近所の家をはしごしてその先々で可愛がられていたか、それなりに有名な猫だったのだ。
「本当にこんなに反応が良いんだね」
猫は名前の膝の上で名前から猫用おやつをもらって夢中で食べていた。
普段であれば今頃その太ももを占拠していたのは俺だったかもしれない。
まさか代われと駄々を捏ねる訳にもいかず俺は大人しく名前の隣に腰を掛けてそれを眺めている。
まるで待てを命じられた犬のよう、我ながら忠犬だと内心自身を嘲笑した。
「もうおしまいだよ」
全て平らげた猫はもっと欲しいと言わんばかりに今度は名前の胸に手を付いて顔をペロペロと舐め始めた。
今日は俺だってまだ満足する程にキスすら出来ていないのに、そんな俺を尻目に猫は遠慮することなく名前を舐めている。
「くすぐったいよ、だめ」
名前はやんわりと猫を制止する言葉を口にするもその顔は緩んでいる。
その猫が飼える喜びが隠しきれないのだろう。
「はぁ···可愛い···」
名前はうっとりとした顔でたまらず猫を抱き締めた。
こんな顔を猫とは言え俺以外にも向けるだなんて、胸がムカムカしてきた。
猫相手に大人げない自覚はある。
俺だってこんなにはしゃぐ名前を見る事はそうそうない。
なんなら今すぐ写真に残しておきたいくらいだ。
それでも何か引っ掛かるのはこの猫のせいだ。
こいつは名前にはべったり甘えまくっている癖に何故か俺には攻撃的なのだ。
ファーストコンタクトの時もそうだが病院で名前がトイレに立った際ほんの数分間俺がこいつを預かった時もこいつは毛を逆立てて敵意丸出しで俺を威嚇してきた。
イライラしながらもいざ診察の番が回ってきて医者に触られた際には途端に大人しくなった。
その医者はその猫を知っていた。
『男の子なせいなのかこの子は極端に女性にしか甘えないんですよ』
その医者は言うまでもなく女だった。
この猫はとんでもなく女好きだったのだ。
それを聞いて笑う名前の隣でその時俺はさぞかし眉間にシワを寄せていただろう。
「取り敢えず大きいものはネットで注文しちゃったけどすぐ使う消耗品は買いにまた出なくちゃね。
この子まだ1人に出来ないしトーマスお留守番頼まれてくれる?」
名前は腹が膨れたのか半分うとうとと眠りにつこうとしている猫を撫でながらそう言った。
食べるだけ食べて甘えたいだけ甘えて、眠くなったら優しく寝かしつけてもらえるだなんて良いご身分だ、と内心毒付いた。
「····いや、俺が行くから必要なもの言ってくれ」
「え、でもさっき来てすぐに出掛けたばかりなのに···」
俺だって出掛けるのであれば名前と二人で出掛けたい。
でもこの猫をいきなり1人に出来ない理由も理解している。
人慣れしているとはいえ何処かで飼われてしつけられていたわけではないのだ。
何をしでかすかわからない。
「俺じゃそいつが暴れるかもしれないから。
だから俺が行った方がいい」
「······まぁ···たしかに」
名前は苦笑いを浮かべ俺の言葉に同意した。
そして名前はスマホを取り出し必要なものを検索もかけながらメモしていく。
そして俺のスマホが着信を知らせた。
全て記入し終えたらしい。
「じゃあ行ってくるから」
「ごめんね、あの、ごめん、ここでお見送りしちゃうけど」
名前の膝で眠り始めた猫。
完全に気を許しているようで腹を見せて堂々と眠っている。
猫とはこれ程までに無防備な生き物だっただろうかと疑問に思う。
「···ん···行ってくる」
ここでごねたところでなんともならない。
だから今日くらいは許してやろうと不満を感じながらもそう言って名前に軽くキスをした。
唇が離れてすぐ後に名前の方からもぷにっと音がしそうな可愛らしいキスが帰ってきた。
大人のではない、幼児が母親に甘えるようなそのキスがなんだか妙に可愛くて軽く欲情してしまった。
もう一度して、と言いたくなるのをグッと堪えて俺は名前から距離をとり再びコートに袖を通した。
「気をつけてね」
ソファーに座ったまま俺に手を振る名前。
なんだかいつも以上に可愛く見えるのは俺が今もう身体が名前に男として欲情しかけているからなのだろうか。
あまり考えていては外には出られない状態に陥ってしまうかもしれない、と頭を左右にぶんぶんと振って邪念を払拭した。
「···帰ってきたらさっきのキスもっかいやって」
「···え?あ、うん、分かった」
名前は俺のおねだりにきょとんとした顔をしたがすぐに首を縦に振った。
キスのおねだりなんてなぜ前もってしたのか分からなかったのだろう。
俺もわざわざそれを口にしたのは何故だろうかと考えた。
ご褒美がないとやってられない、なんて考えたのだろうか。
だとしたら俺はその小さな猫に完全に負けているのだ。
それを自覚すると顔が熱くなってきた。
まるで子供ではないか。
「っ、行ってくる!」
俺は今にも赤くなりそうな顔を見られまいと急いで部屋を出た。
後ろで名前が小さく笑っているのを感じ取った。
多分名前は後で俺に十分すぎる程のおつかいのご褒美をくれるのだ。
それを知っているからこそ俺はそんな名前に怒れない。
本当にこれではまるで俺は犬のようだ。
主人を取り合って、役に立とうと張りきっている。
でも結局俺は名前が笑ってくれているならそれでいいのだ。
先程よりも日が沈んで外はかなり肌寒くなっていた。
両手をコートのポケットに突っ込んで歩くも顔にあたる空気は完全に冬のものだった。
名前とこうして特別な関係になって一年が過ぎようとしている。
俺が今こうして名前と共に過ごしていることを去年の俺は想像出来ただろうか。
多少面白くないことはある、でも概ね幸せだ。
俺達はこれから先どんな風になっていくのだろうか。
変わっていくこともあっても良い、変わらぬ幸せもまた。
どんな形だって俺はこれからもずっと名前の隣にいたい。