「トーマス、君の恋人ってどんな人なの?」
その日は珍しく家に父さんと二人きりだった。
簡単な食事を用意して同じテーブルについた。
いただきますと言ってフォークを口に運んでそれを咀嚼して飲み込んだ後父さんは美味しい、と言ってくれた。
以前では考えられない程俺達は元の家族に戻っていた。
最も父さんの姿はまだ子供のままなのだが。
それでも俺達家族は殆どそれを気にしなくなっていた。
ただただ平穏で幸せな生活を送っていたのだ。
「君が特定の人を作るのは今の彼女が初めてだよね?
基本的に仕事がない日は家にもあまり帰らないし。
ああ、これは別に咎めているわけではないよ。
君はもう成人しているし家族と過ごす時間よりも恋人と過ごす時間を優先させる事はごく自然なことだしね」
父さんは笑顔だった。
昔であればここで父さんに少しは寂しいと思ってもらいたかったかもしれない。
それだけ俺の心にも余裕が出来たという事だろうか、いや、もしかしたらその感情の矛先が名前に向いているのかもしれないとも思ってしまう。
俺が名前に抱く感情は父さんに向けるものとはあきらかに違うと思っている。
それでも名前と家族になりたい、その気持ちは捨てきることは出来ないのだが。
「何かややこしい事を考えている顔をしているね」
父さんのその察しの良さは父さんの持つ能力のようなものなのだろうか。
それとも俺よりも長く生きた事による人生経験の差か、それはまだ俺には分からない。
「···名前は、···少し父さんに似ているかもしれない」
「僕に?それはますますどんな子なのか気になっちゃうね」
父さんはけらけらと笑う。
外見の話ではない。
つかみ所のない部分や妙に勘がよくついつい相手の望む行動を取らされてしまう、勿論それを嫌だとは思っていない。
寧ろ俺が望んでいることだ。
父さんはともかく名前がそんな風に接しているのはおそらく俺だけ、····だと思う。
それは俺が名前にとって特別な存在であることの証明のように思え俺に喜びを与えた。
名前の為ならなんだってやってやりたい。
その感情はあの頃の復讐の感情とはまた違うものだと信じている。
「君は心底その子を愛しているんだろうね」
本来であれば照れて受け流してしまうような言葉だったのかもしれない。
それでも俺にとってその言葉は自分の想いを認めてくれていると言われているようで嬉かった。
「ああ、俺は名前以外の女と共に生きたいと思う気持ちは微塵も無い」
心は、感情はいくら言葉にしたってそれを信じるか信じないかは受け手次第だ。
本心を言っているかを100%見極めることなど不可能だ。
だからこそそこには信頼関係というものが重要だ。
父さんが俺を信じてくれていると俺が信じているからこそ本心で話している。
俺が信じていることこそが事実なのだと信じている。
「君も随分大人になったんだね。
まぁ僕の子供達は僕よりずっと前から大人だったけれどね。
美味しかったよ、ごちそうさま」
空になった更にフォークを置いた。
一緒に淹れた紅茶を一口飲んで父さんは言葉を続ける。
「ねぇ、一度会えないかな?」
「···名前、とか?」
自然の流れで告げられた言葉に不自然な程動揺した俺は当たり前の事を訊ねてしまう。
「勿論無理強いはしない。
ただ息子がお世話になっているわけだし僕も挨拶くらい、単純に会ってみたい、その程度の話だよ。
でも君達がそれを望まないならそれはそれで構わない」
父さんの顔色は変わらない。
ポーカーフェイスは得意な人だがこれは本心なのだと思う。
俺達家族は互いを想っていることは間違いない、様々な出来事がそれを強くしたのだ。
当時は多少歪ではあったかもしれないがそれも今では正常なものになったと思う。
「···俺は勿論構わない。
···でも名前の気持ちを聞いてから、返事をしてもいいか?」
「勿論だよ。
君達の事なんだから当事者である彼女の意思を聞かずに事を進めるつもりなんてないよ」
俺は胸に何かがつっかえた。
何故俺はここで即答出来なかったのだろうか。
愛してやまない恋人だ、当然それを誰よりも家族に認めてもらいたい。
いつだって紹介したいも思っていた。
それでも、それでも俺は。
「大丈夫だよ、トーマス。
···さぁ、君は今日も約束があるんでしょう?
後片付けは僕がしておくから君は行っておいで。
今日は久しぶりに二人で食事が出来て楽しかったよ」
父さんは普段と変わらない。
子供の姿をしていてもれっきとした大人で俺の父親だ。
父さんが名前に会いたいと言った。
それは息子である俺の恋人だからだろう。
俺は父さんに、家族に名前を紹介したい。
何度も考えた。
きっと俺が頼めば名前は二つ返事で了承して丁寧に挨拶してくれるのだろうと思う。
でも俺には、俺は下心があって、いっそそうすれば名前に意識させられるのではないか、そう欲を持ってしまう。
「···ありがとう」
俺は父さんの言葉に甘えることにした。
父さんはひらひらと手を振って俺を見送る。
俺は約束の時間まで少し早かったがそのまま家を出た。
ゆっくり歩けばいいかと考えるも早々に俺のファンだと言う女に声を掛けられた事で直ぐにタクシーを拾った。
結局約束の時刻よりほぼ一時間も早く名前の家に着いてしまった。
俺は鞄からキーケースを取り出した。
名前はまだ仕事だ。
急ぎの用が出来休日出勤になったらしい。
俺は今年の誕生日名前に頼んで貰った名前の部屋の合鍵を使って家主より先に部屋に入った。
早く着いたから、そう伝えておけば名前は2つ返事で了承してくれる。
そもそも名前に怒られたことなど一度もないのだが。
それでも形式として名前にメッセージを送っておいた。
するとすぐに短く着信が鳴り、スタンプ一つで返事が返ってきた。
それは勿論了承したとの返事。
玄関には数10メートル先のコンビニに行く時に使っているサンダルが2足ある。
そこにあるのが当たり前のように置かれたそれを見て俺が暇さえ出来ればどれだけ名前の部屋に入り浸っているかということを改めて思い知らされる。
靴を脱いですみに寄せ部屋に上がる。
この部屋に入れば至るところに俺がいた痕跡がある。
二つ並んだ歯ブラシ、増えた枕、揃いのカップ、冷蔵庫には俺の為に常備されるようになった水出しの紅茶。
それらは俺がいなくとも名前の家に当たり前に居て...それに胸が締め付けられる。
そう思うのは名前が“余計なもの”を持たない性格だからだと思う。
少なくとも俺は名前にとって必要なものであると認められている。
恋人関係になっても未だにこんな事でほっとしてしまう俺は疑り深い人間なのだろうか。
机に置かれたリモコンを手に取りエアコンのスイッチを入れた。
静かな室内でエアコンの作動音が響く。
それほど室内は静かで熱気がこもっていたのだ。
冷蔵庫から紅茶を取り出しグラスに注いで飲み干した。
すると少し心が楽になった。
この暑さだ、おそらく水分が足りていなかったのだろう。
もう一杯注いでポットを冷蔵庫に戻しグラスを手に持ちソファーに腰をかけた。
ほっと一息付いた頃スマホが点滅する。
名前からだ。
もうすぐ帰るという連絡だった。
「気を付けて」の言葉にありがとうのスタンプ一つ、名前は長々とこういったやり取りを続けるタイプではないからこれで終わりだ。
たまに寂しい、だなんて思ってしまうこともある。
だがそんな女々しい事を言える筈がなく俺もそれ以上踏み込めていない。
寧ろこんなことを考えて嫌われぬよう踏み込めずにいる今の自分こそが女々しいのでは、と最近思うようになった。
何が正解で何が不正解か、所詮俺はまだまだガキで恋愛初心者と呼べるだろう。
それは名前も同じことで。
自分が子供と呼べる程幼くあれば不正解であってもいい、とその道を進めたかもしれない。
だがそう呼べる程子供では無くなった今不正解、失敗をするのが怖い。
そして足踏みすら出来ずに立ち止まってしまう。
名前も俺と同じように悩んだりするのだろうか?
そうであってほしいと思うのはきっとこれ以上名前を見失いたくない、その一心からだろう。
俺はいつだって余裕がない、言い方を変えれば自信がない、もっと最悪の言い方をすれば信用出来ないのだ。
→(貴方視点)
「ただいま」
部屋の鍵を開け扉を開けた。
この時期は途端にむわっとした熱を浴びることになるが今日は違う。
トーマスが先に家に来ていたのでエアコンがついていたからだ。
「おかえり、悪かったな。
予定より早く来ちまって」
「大丈夫よ、そもそもそんな時の為に鍵を渡していたわけだし。
寧ろ涼しくしてくれていてありがとうね」
靴を脱ぎ部屋に上がればトーマスが私をじっと見つめたので私は彼の方を向いて目を閉じた。
するとすぐに優しく唇に触れられた。
軽く触れた唇はすぐに離れてしまったがすぐにそのまま身体を抱き締められた。
「嬉しいけど今日汗臭いかも。
ごめんね」
「んなの気になんねぇよ」
トーマスはそう言ってより私を強く抱き締めた。
快適になった部屋とはいえ先程まで炎天下の中通気性のよくないスーツで帰ってきたのだ。
熱が籠った身体から再び汗が滲んできてしまった。
「ごめんトーマス、ちょっとシャワー浴びるね。
...嬉しいけど汗で服がへばりついちゃって、シャワー浴びて着替えてからいっぱい抱き締めて?」
トーマスにそう伝えると渋々といった様子で私を開放した。
そんな可愛い彼に軽いキスをして離れればトーマスはうっすらと頬を赤く染めた。
もうそれよりもずっと凄いコトをしているのに、いつまで経っても変わらない初々しさに癒される。
「外あんなに暑かったのにトーマスは全然汗臭くないね」
「···家を出て早々にファンに捕まっちまったからタクシーで来た。
着いて直ぐにエアコン付けたしな」
それを聞いて成る程、と納得がいった。
トーマスは私より几帳面な性格をしている、予定はきっちりと守る人だ。
遅刻をしたこと等片手で足りる程で仕事などで遅れてしまった際は待ち合わせ場所にタクシーを手配する程の徹底ぶりだ。
これは信用されていないのではなく心配されている、そう受けとるようにしている。
私の方が歳上にも関わらずなんだか申し訳ない、だがお付き合いをしている時点で私達の関係は対等だと思っているしトーマスは人一倍男としてしっかりしたいという意思が見受けられる、少なくとも私に対して。
「ありがとう、トーマスのおかげで家に帰ってうんざりせずにすんだよ」
「いや···まぁ俺も約束とは違う時間に来ちまったし、あいつはあっちにいるだろうし、それも、な···」
あいつ、とは私が飼っている猫のことだ。
基本的に私が家にいる間私の傍を殆ど離れないのだが家を開けている時間は私のベッドにいることが多い。
だから家を空ける際は寝室の空調を整えていた。
それにしても何故だろうか、今日はどうもいつもと違う気がする。
私に対して何か話でもあるのかもしれない。
「取り敢えずシャワー浴びてくるからゆっくりしててね」
そう考えながらも汗をかいた体が気持ち悪くて私は先にシャワーを浴びることにした。
水を浴びたい気分だったが我慢して普段通りの温度のシャワーを浴びる。
思わず声が漏れそうなほど気持ちが良かった。
一説ではお湯に浸かるというのは違法のお薬を使う程ドーパミンが分泌されると言われているらしい。
今熱めのお湯が気持ちいいと感じるのは同じような理由なのだろうか。
「おまたせ、ごめんね」
「いや」
シャワーを終え部屋着を着てリビングに戻ればトーマスはいつものようにドライヤーとブラシを用意していた。
トーマスは私をソファーに座らせると私の肩にかけていたタオルで私の頭を優しく拭いて髪にくしを通していく。
そしてドライヤーのスイッチを入れる。
やはり私がやるよりずっと丁寧だ。
「ありがとう」
完全に乾かし終えもう一度髪にくしを通された。
鏡を見れば自分でやるよりずっとツヤが感じられる。
ブローが如何に大事だという事を実感する。
「ねぇ、···何かあった?」
「···何か···そういうんじゃないけど···聞きたい事があって、でもそれは名前がもし嫌だって思うなら強要するつもりは無いんだ」
妙に回りくどい言い方をする。
物言いからして別れ話などではないらしい。
だがまるでなんの事か想像がつかないのは私鈍いのだろうか。
「私まだ何も分からないから話してみて?」
「····あの、なんつーか、な、···多分深い意味、というかそういう重たいのじゃなくて···その、名前が嫌でなければでいいんだ」
トーマスの目が不安げに揺れている。
一体何事だろうか。
何が彼をここまで追い詰めているのか。
理由も分からない、想像もつかない。
だが恐らくトーマスを今動揺させているのは私が原因なのだろう。
「トーマス、大丈夫だから。
言葉を選ぶ必要なんてないから、教えて?」
出来る限り優しくそう言ってトーマスの手を握る。
揺れた視線がかちりとぶつかる。
少しでも緊張を解いてあげたいと微笑んだ。
トーマスはぎこちなくはあるものの私に笑顔を見せてくれた。
「···名前の事、···俺の家族に紹介したいんだ」
「トーマスの家族に?そういえば挨拶したことないね、いいけど」
私達が外で会わない日、当然のように私の家で会っていたから家族と住んでいるトーマスの家にお邪魔したことは無かった。
もうそれも日常になっていて私もそれが当たり前で、なんの疑問も抱いていなかった。
けれど少し考えれば交際相手の家族に挨拶をすることなど至極当たり前の事かもしれない、と私は今初めて気がついた。
だからこそすぐに了承したのだ。
「ごめん、私全然その辺のこと気にしてなくって。
トーマスのご家族に不快な思いさせちゃったかな?」
彼はまだ私より若い。
私から見てもこんなに可愛いのだ。
お母さんはいないと聞いている。
私に父はいないし母ともべったりな関係では無かったけれどトーマスもそうとは限らない。
トーマスのお父さんにとっては目に入れても痛くないほど可愛くて仕方ないと思っているかもしれない。
申し訳ない事をしてしまったと罪悪感を抱き始めた。
「い、いやそんなんじゃなくて!
···今日父さんがいきなり会ってみたいって···その、名前が嫌だって言うなら無理強いはしないって言ってたし、···名前はきっと父さんを見て驚くと思うけど」
トーマスは私の問いに慌てて訂正を入れた。
驚く、とはトーマスのお父さんが子供の姿をしているという事だろうか?
事情は聞いた。
最もその奇怪な出来事をきちんと理解出来ているか自信はないが彼がそんなことを冗談で言う人でないことはこうして恋人として過ごしてきた時間が教えてくれた。
写真も見せてもらったからそれほど驚くこともないと思うのだが。
「トーマスは私を紹介するのに抵抗がある感じ?」
「っはぁ!?ち、違う!なんでそんな結論になるんだ!
俺はずっと前から名前を紹介したいって思ってた!」
トーマスは食いぎみに反論した。
私がそれに驚いてごめんね、と一言返せばトーマスもすぐに落ち着いて俺もごめん、と頭を下げた。
「···それなら言ってくれても良かったのに、どうして?」
彼の手を握れば普段よりひんやりと冷たかった。
私は気付かぬ間に彼を萎縮させてしまっていたのだろうか?
「······重いって、めんどくさいって思われるのが怖かった」
「······え、そんな、···思わないよ。どうして?」
訊ねながらも出会った頃から彼がどこか繊細で自分の中で何かしろ悪い想像をしたり言いたい事があっても口を閉じてしまうところがあった事を思い出した。
最近は良くも悪くも慣れてしまって彼のそういう弱さを忘れてしまっていたのた。
「私は嬉しいよ、トーマスのご家族にお会いするの」
トーマスを抱きしめて頭を撫でた。
あまり子供扱いをするのもよくないとは分かっているのだが今はこうしたいと思った。
それに私だってトーマスにこうしてもらえば嬉しいと思うのだ。
だからトーマスも嫌ではない筈、そう思ったのだ。
「······じゃあ今から行く」
「え、それは寧ろ失礼にあたらない?」
了承した途端トーマスは行動を決めた。
今日は午前中のみの出勤だったので今時刻は13時、シャワーを済ませているので14時には準備が終えるだろう。
不可能ではない、それでも突然お邪魔するのはさすがに如何なものだろうかと不安を抱く。
「···ご都合を聞いて予定を立てた方がいいんじゃない?」
「父さんと兄貴は今日家にいるし弟も夕方には帰ってくる。
···気が変わらないうちに会わせたいんだよ」
トーマスはだだっ子のように私に抱きついて顔をぐりぐりと押し付けてきた。
正直可愛くて仕方ない。
心が揺れてしまう。
「父さんには甘いものでも買ってけば大丈夫だし俺から連絡入れるし、家に行くのが抵抗あるなら店の予約入れるから、···名前···」
トーマスは時々狡い。
私が彼を可愛く思っていることを知っているが故だろう。
普段は散々私の我が儘を聞いてもらっている、だからこそここで強く駄目だと言えない所もある。
「···分かった、取り敢えず連絡とってみて?
もしかしたら留守にされているかもしれないし」
さすがにトーマスのお父さんも今日突然、という事は考えていないだろうから日を改めようとトーマスを諭してくれる事を願って彼にそう提案した。
トーマスは直ぐ様スマホを操作して耳にあてた。
ほんの数秒でコール音は止む。
「父さん、今夜名前を家に連れて言っていいか?」
『いいよー、待ってるね』
家族間の電話なのだ、そうそうかしこまった挨拶などしないだろう。
トーマスは私にぴたりとくっついているのでスピーカーにせずともトーマスのお父さんの声が聞こえてきた。
確かに声があきらかに若い、いや、そういう問題ではない。
「父さん良いっていってるから、別に改まる必要なんてねぇと思うけど名前は化粧とかするよな?」
「···まぁ、そうね。
うん、分かった、準備するからちょっと待っててね」
あまりにも軽い会話で決まってしまった予定に戸惑いを抱きながらももう決まってしまったのだと腹をくくった。
繊細な筈なのにトーマスは時々とても男らしい。
私を好きだと言ってくれたあの日、それを思い出した。
あの日迷いなんてひとつも感じられなかった。
私はあの頃よりずっとトーマスが好きだ。
「出来るかぎり可愛くしてくるから少し待っててね」
私は身なりを整える為にトーマスにキスをして立ち上がる。
化粧台は寝室だ。
扉を開けば可愛い可愛い飼い猫が眠っていたから。
なぜかトーマスと相性が悪いので彼が家に来る日は半分寝室に閉じ込める形になってしまっているのが申し訳ない。
愛猫は目を覚まし私の足にじゃれついた。
「トーマスともいつか仲良くなれるといいんだけれど」
猫を抱き上げて話しかけるも可愛らしく首を傾げるだけだった。
ひとしきり撫でて化粧台の前に座れば猫は私の横にぴたりとくっついた。
「明日沢山遊ぼうね」
もう一撫でして鏡に向き合えば扉が開かれた。
「···俺の事も構ってもらうからな」
トーマスはそれだけ言ってすぐに扉を閉めた。
猫はトーマスが顔を出した瞬間少し警戒体勢に入った。
もう数ヶ月も経っているのになかなか二人の仲は縮まらないのが少し悲しい。
それでも初めの頃のように引っ掻いたり噛みついたりしなくなったからいつかはきっと。
「貴方もトーマスの事きっと好きになるよ」
猫は一鳴きして目を瞑った
→(IV視点)
「これ凄く美味しいね、どこのお店のもの?」
「うちの近所の洋菓子店のものなのでもし宜しければまたお持ちしますね。
でもこちら店内でも食事が出来るんです。
店内で食べるとアイスが添えられるんですけれどそれがまた絶品なんですよ」
「へぇー、じゃあ今度一緒に行こうよ。
勿論僕がご馳走するから、来週の土曜日はどう?」
「私は大丈夫ですよ。是非お付き合いさせてください」
目の前で和気藹々と交わされる会話に俺は何とも言えない気持ちになっている。
名前が手土産に選んだものは名前のマンションの近くのケーキ屋のものだった。
俺も何度か食べた事がある。
つい最近店で食べたケーキには色鮮やかなカシスアイスが添えられていて濃厚なムース食べた口をサッパリとさせてくれた。
名前が食べたケーキにはバニラビーンズがしっかりと利いた濃厚なバニラアイスが添えられていた。
スプーンで掬って一口寄越されたそれはおそらく自分で食べる以上に美味く感じられたのだろう。
「父さん、俺来週は仕事なんだけど」
「そうなんだ、じゃあ二人でデートしよっか」
父さんは名前に小指を立てて差し出した。
良い意味でも悪い意味でもあまり物事を考えすぎない名前はその行動になんの疑問も抱かず同意の返事をして小指を絡めた。
父さんは子供の姿をしてしようが俺の父親でもういい歳だというのを知っている筈なのに、俺はなんだか眩暈を起こしそうだった。
「つーか顔が見たいだけだっつってたのになんでそんな話になんだよ!」
「確かにそう言ったけどデートのお誘いをしないなんて言ってないじゃない。
トーマスがこんなに綺麗な子を連れて誘わないなんてそれこそ失礼でしょ?」
父さんは名前を見て、ねー、なんて同意を求めて笑っている。
さすがの名前もどう返事をすればいいか悩んで曖昧な笑みを浮かべていた。
「名前とデート出来るのは俺だけだから!父さんは勝手な事しないでくれ!!」
父親相手に何を、と思われるかもしれない。
余裕が無さすぎると笑われるだろう。
だが俺は一生父さんに勝てる気がしないのだ。
理由なんて···父さんの事を少しでも知っているのであれば察してほしい。
「トーマスは休みが出来ればすぐ君の所にお邪魔しているけれど疲れてない?
ちゃんと休めてる?
君も仕事で疲れているだろうし」
「なっっ、と、父さん!!」
なんて事を聞くのだろうか。
きっと名前はそんなことはないと言ってくれるのは分かっている。
それでも名前の眉間にシワの一本でも出来れば、俺はそれが怖くて仕方ない。
依存に近い事をしている自覚があるからこそ尚更だ。
「私が会いたいって思った時トーマスは会いに来てくれているんです。
だから幸せですよ、本当に」
名前は笑ってそう言った。
心配なんて杞憂でしかない、それがすぐに分かる程綺麗な笑顔で。
「君ってすぐ顔に出るよね」
父さんの皮肉に反抗出来ない自分が悔しかった。
それでも俺は名前がそんな俺を好きでいてくれるなら対した問題ではない、なんて考えてしまう。
「これからはうちにもおいで。
僕も君ともっとお話してみたくなったから、宜しくね」
父さんは名前にそう言って今度は深々と頭を下げた。
こんな父さんを見るのはいつぶりだろうか。
「有難うございます。
大変遅くなってしまいましたが今日こうしてご挨拶の機会を設けていただけたこと、大変嬉しく思います。
どうぞ今後とも宜しくお願い致します」
名前も同じように頭を下げた。
こんな名前を見たのは初めてでまるで別人のように見えた。
社会に出て数年経っているのだ、寧ろ仕事をしている時の名前はいつもこうなのかもしれない。
俺はまだまだ知らない事が沢山あるのだろう。
今後の事はともかくとして俺は無事父さんに名前を紹介出来た事を嬉しく思う。
この後兄貴とミハエルも加わって食事をとった。
この日は父さんが料理人を家に呼んでいた。
俺の家族と同じテーブルに名前がついていたことが何だか凄く不思議で、言うまでもなく俺は嬉かった。
「緊張しちゃった」
「全然そんな風に見えなかったけどな」
食事を終え名前をマンションに送る道のりで名前はそう言った。
「私だって緊張するよ。
トーマスのご家族だもの、嫌われたくないからね」
俺はその言葉を聞いて顔から火が出そうな程体が熱くなった。
単純だと笑われるかもしれない、それでもその言葉は今まで聞いたどんな言葉よりも俺にとって嬉しくて、涙さえ滲みそうになったのだ。
「俺も名前の家族に嫌われたくない」
「有難う、母はそんなに厳しい人じゃないし、弟は気難しいタイプの人間じゃないしトーマスにまた会いたいって言ってたから大丈夫だと思うよ」
それを聞いて一瞬げんなりとしてしまった。
名前の母親には会ったことがない。
話を何度か聞いたことはあるが良くも悪くも名前は母親似だということがなんとなく想像出来た。
そして弟だ。
俺は一度名前の弟に会ったことがある。
よりにもよってなんとも無様な状況で。
名前が浮気をしていると勘違いして俺は泣いてしまったのだ。
キレてしまっていたとしたらもっとタチが悪かったかもしれない。
それにしたって往来で、今思い出しただけでも泣けてくるほど惨めな姿だ。
「よかったら今度母にも会ってあげて。
多分喜んでくれるから」
「···ん、勿論」
みっともない思い出の事はさておき今日はなんとも幸せな日になった。
父さんには泊まっていくように言われたが名前は猫がいるので、と断った。
あの異様に名前になついている生意気な猫は無条件に名前の傍にいられるのだ。
猫相手に何を、と馬鹿にされるかもしれないが俺はそれが羨ましくて仕方ない。
そう思うのはなぜかあの猫がやたらと俺に敵意むき出しなせいだ。
「ザラメとも仲良く出来るといいのだけれど」
ザラメとは言うまでもなくその猫の名前だ。
何故そんな名前になったのか、理由は単純だ。
名前いわく砂糖のザラメ色をしていたから、だそうで。
正直どうなのだと思ったが名前があまりにも自身満々にそう名付けたので俺は何も言えなかった。
「···主人を一人占めしてぇんだろ、あいつも」
「···ふふっ···トーマスも私の事一人占めしたいって意味?」
余計な事を言ってしまった。
猫と張り合うだなんて、そう思われるかもしれない。
だが許してほしい、俺の仕事が不規則なこともあって俺達は都合が合う日が、会える日が限られている。
だがアイツは毎日名前と共に過ごして毎日一緒に眠って愛でられているのだ。
そんな奴が俺に敵意むき出しでいるのだ。
多少腹をたててしまうことはごく自然な事だろう。
「家に着いたら沢山甘えてくれていいからね」
名前はそう言ったが果たして今夜俺は名前を一人占め出来るのだろうか。
ここ最近何度も邪魔をされている。
別にアイツを追い出したいとまでは望んでいない。
それはなによりアイツとじゃれている時の名前は本当に可愛いのだ。
俺だって猫が嫌いなわけでもない。
「その言葉忘れるなよ」
名前がそう言ったのだ。
俺はその誘いに乗ることにした。
どうせ誰も見ていないのだ。
名前がそう言うのであれば俺は存分に甘えさせてもらおうではないか。
「沢山、ね」
今さら取り繕った所で名前はみっともない俺を散々見てきている。
それでも俺を好いていてくれている。
ならもう下らないプライドで意地を張るなど無駄でしかない。
「名前」
人の気配なんて殆どない夜道、俺は名前を抱き寄せてキスをした。
抵抗されるなんてことはなく、流れるように。
「好きだ、名前」
名前は笑う。
それはもう、綺麗に。
「私も大好きよ、トーマス」
早く家に帰ろう。
生意気なアイツもいるが俺にとって一番心が安らぐ場所だ。
本当に今日は良い1日となった。
→(貴方視点)
昨日はなんだか慌ただしい1日だった。
それでもなんだかとても楽しい1日になったと思う。
朝は想定外の出勤になってしまった事に少し気落ちした。
早々に終わらせ急いで帰ろうとするも昨日は妙に湿度が高い上、なにか大きなイベントがあったらしく電車内は通勤ラッシュの時間帯並に混雑していた。
それもあってなかなか疲労困憊していた。
部屋には既にトーマスがいる。
部屋は区切っているもののザラメもいる。
もし険悪な空気になっていても困る。
私は急ぎ足で駅から自宅への道のりを歩いた。
汗で服が肌にへばりついてそれが地味に不快だった。
それでも今服の中までそれを拭き取るよりも早く帰ってシャワーを浴びる方がよっぽど利口に思って足を速めた。
家に帰ればトーマスのおかげで部屋は快適に保たれていた。
ザラメは寝ているようだ。
起きていれば私が帰れば扉の向こうからにゃあにゃあとここを開けろとせがまれる。
とりあえず先に着いていたトーマスにただいまと声を掛ける。
なにやら様子がおかしいように見えた。
だが特に急ぎの用があるわけでは無さそうだったので私は先にシャワーを浴びさせてもらった。
そしてその理由を知った。
そして昨日は慌ただしい1日となったのだった。
「何度見ても可愛い寝顔」
ほんの数時間前まで起きていたトーマス、今はぐっすりと眠っている。
1日気を張っていたのだ。
それでもトーマスの家から帰った後私に付き合ってくれたのは彼の優しさだろう。
疲れていただろうに昨日は随分頑張ってくれた。
普段から人より性欲が強い私に合わせて頑張ってくれているのは重々承知している。
それでもなんというか、昨日は一度にも限らず私の心を満たしてくれたのだ。
「いつもありがとう」
肌荒れなんて縁も無さそうな綺麗な頬に唇を寄せた。
眠っている彼の邪魔をしたくはなかったが無性にしたくなったのだ。
唇にするのを我慢出来ただけでも褒めてほしいなんて身勝手な事を考えたのだからけして褒められた事ではないのだけれど。
そんな事をしたせいだ。
「···名前?···眠れないのか?」
「···ごめん、違うの」
トーマスは目を覚ましてしまった。
瞼はまだ重いようで手の甲でごしごしと瞼を擦った。
「起こしておいてごめん、起きなくていいのよ」
よしよしと頭を撫でればトーマスは私にぎゅうっと抱きついた。
「···名前が起きてるなら俺も起きる」
「疲れているのでしょう?ゆっくりしてていから」
本当に今の私が言えたことではないだろうと内心反省した。
トーマスは私に従順すぎるのだ。
私としてはもっと我が儘を言ってほしいのだけど。
元々犬か猫なら猫派だ。
振り回されてみたいという気持ちもある。
以前それを伝えた時は俺は犬でも猫でもない、と拗ねられてしまった。
またその時のトーマスが可愛かった。
「···一緒にいられる時間が限られてるから···だからもっといたい···」
「···ごめんね」
顔を肩に付せたまま呟いた言葉に胸が痛んだ。
私はトーマスの事が好きだ。
今ではもうはっきりとその好意を自覚している。
それでもトーマスと私では想いが同じであっても感覚が少し違った。
「寂しくて不安になっちゃう?」
「···不安、かなんかわかんねぇ。
俺のせい、だけどもっと一緒にいたいって思ってる、ずっと···」
私は彼との関係に満足しているのだ。
予定が上手く合わず休日をお互い1人で過ごすこともあった。
でもそれは恋人同士であったとしても普通の事だと思っている。
全く寂しくないと言えば嘘になる。
でも私はそんな日もある、と割りきっていた。
でもトーマスは違う。
トーマスはかなり無理なスケジュールでも少しでも会いたいと考える。
気持ちは嬉しい、だから私は無理にそれを拒まない。
だが不安にも思う。
トーマスが見た目より体力があることを私が一番知っているだろう。
それでもいつか倒れるのでは、そう考えるのは私がトーマスを特別な目で見ているからこそだと思う。
友人であればやんわりと宥めていただろうと思う。
「···トーマスはさ、素敵なご家族が傍にいるじゃない?」
「···まぁ、素敵、うーん···なんつーか返事に困るが」
トーマスが家族を大切に思っているのは知っている。
昨日挨拶させてもらう前にも何度もトーマスの口から家族の話を聞かせてもらった。
お父さんの事を尊敬していること、お兄さんのことは口煩いと思いながらも大切に思っていること、頼りになるが無茶をする弟さんを心配に思う時があること。
「だからトーマスが帰る家はやっぱりご家族の所がいいのよね」
「···なんの話だ?」
トーマスは完全に眠気が覚めたようだ。
私より大きな瞳でこちらをまっすぐじっと見つめている。
若く見える幼い表情に頬が緩む。
「ん、トーマスが良ければ一緒に暮らす?って考えたの」
「······えっ、は、え、そ、それって、つ、つまり、ど、ええ!?」
トーマスはこちらがビックリするほど吃り始めた。
やはり唐突すぎただろうか。
恋人や友人が多くとも他人と一緒に暮らすのは違うという人は沢山いる。
トーマスも神経質な面もある。
困らせてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい、忘れて?
そうね、私ももう少し上手く都合を、」
「ま、待て!!!」
トーマスは大きな声で私の言葉を遮った。
私はそれに驚いて自身の舌を噛んでしまった。
「いたっ」
思い切り噛んでしまったらしく口内にじわじわと不快な鉄の味が広がった。
「わ、悪い!だ、大丈夫か?」
咄嗟に口元を手で覆ったので言わずとも何が起こったのかトーマスに伝わってしまったらしい。
トーマスは分かりやすく狼狽えている。
「だ、大丈夫、大丈夫よ···それよりトーマスは何を言おうとしたの?」
まだ舌はじんじんと痛んだが口の中では治療のしようがない。
暫くは痛むだろうが我慢出来ない程の怪我ではないので私はトーマスに続きを話すように言った。
トーマスは混乱しながらも目線をキョロキョロと世話しなく泳がせ、そして一度深呼吸をしてからベッドの上で座り部屋の明かりを付けた。
私もトーマスに続いてベッドの上で正座した。
トーマスは真剣な顔で私の目を見つめる。
トーマスの額に汗が滲んでいる。
なんとも妙な感覚だ。
「名前、名前は、その、お、俺と同棲、してもいいって、いや、したいって思っ、···ています、か」
「え、あ、うん······」
どうしてトーマスは敬語で話しているのだろうか。
その理由はよく分からなかったが私は彼の言葉に首を縦に振った。
そもそも鍵を渡した時点で自由にしていいと言ったようなもんだったのだけれど。
「お、俺は名前が良いって言うなら、い、一緒に暮らしたいっ」
「え、あ、待って待って!どうしたの?」
トーマスは何故か一緒に暮らしたいと言いながら泣き出してしまった。
これはどういう事なのだろうか、私が彼に無理をさせてしまったのだろうか。
「トーマス、その、無理しなくていいのよ?私はね、一緒に住んでなくてもトーマスの事が好きだし、これからも変わらずに、」
「いやだ、一緒に住みたい!!
名前が、名前が言ったのに、ぬか喜びさせて、今更っ、!!」
トーマスがぼろぼろと泣きながらわけが分からない事を言い出した。
彼の中で何がどうなってこうなったのか、私には分からない。
「違う、違うよ。嫌だなんて言ってないよ。
トーマスが無理をする必要はないって言いたかっただけよ」
ごめんね、と抱き締めて背中を撫でた。
トーマスは私の肩に顔を擦りつけている。
それを見て愛猫のようだと思った事は口に出さなかった。
「···ねぇ、トーマス。
二人で暮らすならここは狭いよね。
今度部屋探しに行こっか」
彼を落ち着かせるよう出来るだけ優しく彼の背中をトントンと、叩いてそう訊ねた。
トーマスは顔を伏せたままこくりと頷いた。
「ザラメともう少し仲良くなれるといいね」
私には、というかどうやらザラメは女性が大好きなようだ。
動物病院でも待合室で男性の飼い主さんには毛を逆立てていたが受付の女性や女性のお医者さんには甘えた声を出していた。
一緒に暮らすとなったら、最悪生活する場所を分ける必要があるかもしれない。
だがそれはやはり少し寂しい。
「······努力、する···」
トーマスが絞り出した言葉は鼻声だった。
何が彼をこんなに不安にさせてしまったのだろうか。
「···名前」
「ん?」
トーマスは私の肩から顔を上げる。
目が少し赤くなっている。
後で温かいタオルをあててあげなければ、と考えた。
「···ごめん、ありがとう」
「···ううん、こちらこそ」
トーマスが謝る必要もお礼を言う必要なんてないのに。
トーマスに会う以前の私だったら誰かに一緒に住もう、なんて考えに至っただろうか?
トーマスに出会って私はどれ程変わっただろうか。
以前の私と今の私、トーマスはどちらの方が好きなのだうか。
なんて、そのくらいはもう聞かずとも分かっている。
本当に不思議な人だ。
「トーマス、大好きよ」
あの日抱いた想いは勘違いなどではなかった。
私は心の底から彼を愛している