習慣というものは恐ろしい。
アラームなど設定していなくとも普段起きる時刻となれば勝手に脳は覚醒する。心はまだ眠っていたいと訴えるのに身体はそれを許そうとしない。
目を開きたくない、そう願うもそれを許してはくれないらしい。
私が起きていることに気付いているらしいそれは私の顔をぺろぺろと舐め始めた。
「····起きていたの?」
渋々目を開けば目の前には猫がいて、その猫は私が目を覚ました事が嬉しいらしく目を細めた。
その表情に昨日おこなわれた事を思い出す。
「ゆ、夢であってほしかった···!」
顔を手で覆ってそう嘆けば猫は再び私をぺろぺろと舐めた。
それはまるで私を慰めるように。
そんな現実にうちひしがれていたその時、ぐーとなんとも間抜けにも私のお腹が鳴った。
こんな時でさえお腹は空くらしい。
「はぁ······」
私はため息をついてよろよろと起き上がる。
その時腰に感じた鈍い痛みにまたため息をつきそうになった。
「····ねぇ、貴方は朝ごはんどうするの?」
そう訊ねれば猫は途端に姿を変えた。
いやと言うほど見覚えのある、昨日の男性の姿へと。
やはり夢ではなかったのだ。
「俺は普通の猫じゃないから同じものが食べられる」
日との姿になってもトーマスは同じように私の頬を舐めるものだから私は慌てて彼を引き剥がした。
「よ、用意するから!···少し待ってて····」
そう言うとトーマスは笑顔で返事をして私から素直に離れた。
私の心臓はドクンドクンと早鐘を打っているのに。
朝食は買い置きしてあったロールパンに切れ目を入れてハムとたまご、野菜を挟んだサンドイッチにすることにした。
私の休日の朝の定番メニューだ。
いつもなら今日と明日、2日分のサンドイッチを用意するのだが今日は1日で無くなってしまうから明日は別のものをかんがえなければ、なんて考えた。
なんやかんや私は異質な彼と共存しようとしている。
まだ彼の今後について何も聞いていないのに。
一度寝たことで芽生えた情なのだろうか。
「···お待たせ、····その、良かったら、どうぞ」
サンドイッチを彼の前に置けばそれをじっと見たあと私に甘えるような視線を向けた。
何が言いたいのだろうか。
「···猫の姿になれば、昨日みたいに名前の手で食べさせてくれるのか?」
そう期待に満ちた顔で訊ねられた。
幻覚だとは分かっている。
それでもその時確かに彼の頭とお尻にそわそわと動く耳としっぽが見えたのだ。
「た、食べさせてほしいの?」
トーマスは昨晩とは違うふにゃりとした笑顔で頷いた。
成人男性の姿をしている彼に本来であればそんなことまでしてあげる必要はない。
それでもその笑顔があまりにも可愛らしくて、私は食べやすいようにサンドイッチをちぎって彼の口元へと運んでしまった。
トーマスは口を大きく開けもぐもぐと咀嚼して飲み込めばまたちょうだい?と口を開けた。
猫の姿をしていない彼がこんなにも可愛く見えてしまう私はやはり絆されてしまったのかもしれない。
「おしまい···」
結局私はトーマスの食事を最後まで口に運んだのだ。
彼はありがとうと言わんばかりに私の手を舐めた。
その異様な光景に再び頭はこんがらがった。
「ちょっ、と待って!私も食べるから!」
そう言って彼の行動を制止すれば彼は再び猫の姿に戻り私の膝の上に乗って丸まった。
お腹が膨れてまた眠くなったのだろうか。
リラックスした彼の顔を見ると膝からおろす事も躊躇われてしまい私はそのまま自分の食事に手をつけた。
右手はすっかり舐められてしまったので左手だけを使って。
食べなれたそれがいつもより美味しく感じられるのは今この空間に一人ではないからなのだらうか。
右手でトーマスの喉を撫でればゴロゴロと音を鳴らした。
後で今後の話をしなければいけない、そんな事をかんがえながら私はサンドイッチを食べた。
「あの····起きてる?」
食事を終え膝の上で目を閉じて丸まっているトーマスに声をかければ彼は目をぱちぱちとしてにゃーんと愛らしく鳴いた。
「その···今後の事について、お話があるんだけれど···」
そう切り出せばトーマスは立ち上がり私の膝の上から飛び降りて再び人間の姿に戻った。
当たり前のように行われるその現象にまだまだ心が慣れてくれそうにない。
「ん···なんだよ?」
トーマスは今度は私を包み込むように抱き締めた。
間隔としては抱き付かれているのだが体格差のせいで私が抱き締められているように思うのだ。
「その····トーマスは、···これからどうするの?」
「これからどうする?どこかに出掛けたいってことか?
いいぜ、俺も付き合ってやるよ」
頬に唇を押しあてらた、私達の姿を人が見ればそれは恋人同士がいちゃついているようにしか見えないだろう。
「っそうじゃなくて!···その···トーマスは家に帰らなくていいの?」
「俺の家はここだろ?昨日名前が迎え入れてくれたのにもう捨てるのか?」
ぺろぺろと毛繕いをするように舐められる頬。
彼の根っこは本当に猫らしい。
そしてその猫はこれからここで生活することを望んでいるようだ。
「········そっ、か·····うん、···私が言ったもんね」
トーマスの背中を撫でてそう言えば彼は嬉しそうに目を輝かせる。
私に随分なついているようだ。
「····なら、買い出しに行こうか。
トーマスのもの、色々必要だもんね」
普通であればこんな特殊な存在を受け入れるのに時間がかかった筈だ。
なのき私がそれを受け入れられたのは、その答えを知ったのはもう少し後のことだった。
「えっと、じゃあ猫用の餌は買わなくていいの?」
「名前が俺の分も作ってくれるなら大丈夫だ。あ、でも·····」
二人で近くのショッピングモールまで出向いた。
勿論トーマスは人の姿で。
目に入ったペットショップの前で立ち止まりトーマスに食事の事を改めて確認する。
「これ欲しい」
トーマスが指差したのは世の中の猫ちゃん達を虜にしている、例のアレのポスターだった。
「···トーマスも好きなんだ?」
「たまに猫好きな人間がくれたんだよ。
まぁなんていうか人間って凄いよな。
猫の依存性を知っているっていうか···あれは結構ハマる」
ちゅーるというのは化け猫である彼にも有効らしい。
私は店内に入り彼のおねだりをきいてそれをカゴに数点入れた。
「あ、ここ猫ちゃんいるんだね」
ガラス越しに数種類の猫ちゃんがいた。
殆どの子は眠っていた。
近付いて寝顔を見ようとすれば眠っていた猫ちゃん達はぞくぞくと目を覚まし私の方に近付こうとした。
「え」
「···こういう事だ」
トーマスはため息をついて言った。
トーマスが私を隠すように前に出れば猫達は少し萎縮したように見えた。
猫達にはトーマスが化け猫だということを理解しているのだろうか。
「こいつは俺の主人だからお前たちは駄目だ、悪いな」
猫達にそう話しかけるトーマスが人に聞かれたら勘違いされてしまうような事を口にするものだから私は慌てて周りを見渡すと誰にも聞かれていなかったらしくほっとため息をついた。
「ト、トーマスこっち!」
これ以上彼が妙な事を言い出さないように彼の手を引いて猫たちの前から離れた。
猫たちの死角に入る程距離を取れたので手を離せばその手は再び握られてしまった。
「えっと···」
「このままがいい」
どうにも彼の笑顔に弱い。
人間の姿の彼は一見クールな顔立ちをしているのだ。
だからこそそのふにゃりとした柔らかい笑顔に絆されてしまう。
所謂ギャップ萌え、というものだろうか。
「···わ、わかった·····あ、あの!猫ちゃん用のベッドとか、どんなのがいい?」
「俺は名前と一緒に寝るからいらねぇ」
視界に入ったそれを訊ねればトーマスは即答した。
「つ、潰しちゃいそうで怖いんだけど···」
「だったらずっとこっちの姿で寝てもいい」
正直な所それは勘弁願いたい。
朝起きて目の前にこの美しい顔がある、というのに私は当分なれそうにないのだ。
今だって必死で彼は猫だから、と思い込ませてはいるが。
私はずっと女子校に通っていたので恥ずかしい話こんなカッコいい異性の耐性が身に付いていないのだ。
「あ、でも俺これは欲しい」
「えっ······く、首輪?」
トーマスが欲しいと指差したのは猫用の首輪だった。
こうして人の姿になれる彼に必要なものとは思えないのだが。
彼は猫の姿で外に出たとしても理性を持って出歩くことが出来るだろうから野良として人間に捕まるような事にもならないと思うし。
「俺が名前のものだって証が欲しい」
「わ、私の、もの、だなんて···」
その物言いに私は困惑するも彼は至って真面目に言っているようだ。
私はその期待に満ちた視線に負けて首輪を一つカゴに入れた。
トーマスはやはり嬉しそうだった。