「お疲れ様でした」
その日の仕事が終わり退勤カードを押した。
時刻は定時を15分程過ぎた頃だった。
本当に時間内に仕事を終えられたことが嬉しくて内心浮き足立つ。
そそくさと私服に着替え会社を出て少し思案する。
「(トーマスは“分かる”と言っていたがあれは本当かのだろうか?)」
そんな疑問を抱きつつもさすがに会社の前で彼を待つわけにもいかないので少し離れた場所にあるスーパーに向かう。
今日の夜ご飯の食材の買い出しだ。
スーパーに入店してかごを手に持ち入り口に貼られていたチラシに目を通す。
「(トーマスは猫だしやっぱりお肉や魚が食べたいんだろうか)」
今日は牛挽き肉が安いらしい。
チラシには今夜はハンバーグ!なんて書かれていた。
今日は時間も早いしそうしようかと思い野菜を適当にかごに入れお肉を選んでいると持っていたかごが軽くなった。
それが誰かの手によるものだと思って後ろを振り返ればその手の主はトーマスだった。
「あ···えっと···本当に匂いで私を見付けられたの?」
前言通り連絡なしに現れたトーマスに驚きながらもそう訊ねれば当然だと首を縦に振る。
「分かるって言っただろ?良いにお·····」
トーマスが私の頭に顔を近付けで匂いを嗅いだその時彼の身体がぴたりと固まった。
「え、な、なに?どうしたの?」
固まってしまった彼の顔の前で手をひらひらと動かしてみるとトーマスは眉間に皺を寄せた。
何か彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうかと不安を抱き手を引っ込めようとすればその手は彼に掴まれてしまった。
「····今日、変わった猫に会わなかったか?」
トーマスはじっと私を見つめながら言った。
見に覚えのない私は首を横に振る。
「えっと···今日は一度も猫は見かけてないけど、···どうかしたの?」
トーマスは更に眉間に皺を寄せるもため息を一つはいてすぐに表情を元に戻してなんでもないと言ったがどこかその表情は不機嫌に見えた。
居心地の悪さを感じた私は何か空気を変えられる話題はないかと記憶を辿る。
「あ、あのね、猫じゃないんだけど今日は不思議な男の子に出会ったの」
「····それは人間の、か?」
肯定して首を縦に振ればトーマスはなにやらうんざりしたような表情で再びため息をついた。
「···早く帰りたい」
トーマスは心底疲れたような表情で私にそう言って掴んだままでいた私の手のひらをぺろりと舐めた。
「、そ、そうだね!すぐ済ませるから!」
私は慌てて目についたお肉のパックをかごに入れた。
必要なものを続けてかごに入れお会計を済ませる袋詰めをする。
詰め終わった袋をトーマスは当然のように持って空いた方の手で私の手を握った。
「(嬉しいけどなんだかこれじゃあ恋人同士みたいに思われそう···トーマスは気にならないのだろうか)」
横目でトーマスの顔を見るも特に変わった様子はない。
その手を振り払う理由もなかったので私は彼と手を繋いだまま歩く。
「(···寧ろ嬉しいのかもしれない)」
手のひらから伝わる体温は心地よかった。
「荷物持ってくれてありがっ、···あ、ありが、とう·····」
マンションに付いてドアを開け室内に入るなり私はトーマスに抱き締められた。
そして彼は自身の頬を私に擦り付ける。
まるでマーキングをするように。
「あ、あの、えっと···と、取り敢えず、靴を脱いで部屋に、入ろう?」
落ち着かせようとトーマスの背中をさすれば渋々という顔をして離れて私の靴を脱がせた。
自身の靴も乱暴に履き捨てて私を抱き上げて玄関から上がった。
「な、なに?どうしたの?」
物心付いてから人生初のお姫様抱っことやらを経験した私はそれに慌てふためいている。
彼は何も発せずに黙って私をベッドへと運んだ。
そしてベッドに私を寝かせるとすぐに彼は私の上に覆い被さった。
「あ、あの···トーマス?どうしたの?···あ、甘えたくなった?えっと、と、とりあえず、ご飯にしない?」
飼い猫が飼い主にじゃれついているだけなのかもしれない。
それでも私はやはり彼をただの猫とは見られなくて、どうしても動揺してしまう。
「名前の飯は食いたい。
でも今は先にやるべき事がある」
トーマスは私の手をとって再びペロペロと舐めはじめた。
念入りに、彼の長い舌が指と指の間までくまなくねっとりとなめ回す。
「っ、く、くすぐったい、よ」
その行為に背筋がぞわぞわとした。
くすぐったい、それだけではない不思議な感覚。
私はもうその感覚が何なのか理解している。
「こっちも」
「えっ、あっ、ちょ、ちょっと!」
トーマスは私のブラウスのボタンを外して今度は肩に唇を這わせた。
先程と同じようにそこを丹念に舐めていく。
私が逃げないように両腕を抑えつけている彼の爪が私の二の腕に食い込んでいる。
痛い筈のそれが少し気持ちよく感じる私はどうかしてしまったのだろうか。
「·····名前」
なんて甘い声だろうか。
心の底から彼を愛しいと思わせるその声に私の頭が本当におかしくなりそうだ。
「·····今日、会ったんだろ?·····仮面を着けた子供に」
「え····なんで·····」
トーマスが口にした言葉に私は驚いた。
そう、あの男の子の異彩な空気は仮面を着けていたことが大きい。
普通であれば怪しい、それでもそんなことなんでもないようにごく普通に明るく話しかけれてしまったので私は男の子と何ともない会話を楽しんだのだった。
「····名前の身体に残ってたんだよ、そいつの····」
「っ···」
トーマスが私の肩に歯を立てる。
トーマスの嗅覚はどこまで精密なのだろうか。
言われて見れば先程舐め回した手も肩もあの男の子に触れられた場所だった。
それにしても手はともかくとした肩なんてほんの一瞬触れられたにすぎないというのに。
「···俺はその匂いの主をよく知ってる···だから気付かないわけがないんだ···」
「っ、ト、トーマス···!」
歯を立てられた場所を舐められて身体が震える。
もっと強く拒絶したいのにそれが出来ない、私は期待していると言うのだろうか。
「名前、頼むから···俺を望んでくれ」
「···ど、どういう····意味?」
彼の潤んだ目に映る私に殆ど理性なんてないように見えた。
彼が言っている意味が全く分からないわけではない、ただそれを分かりたくない自分もいて。
「····お願い···俺の為にフェロモン、だして?」
臆病な私は彼にそれを望まれたかったのかもしれない。
どうして私はこんなにイヤらしい人間になってしまったのだろうか。
「···ど、う、···すれば、いいの?」
心臓の音が五月蝿い。
そんなこと分かっているのではないか?
と自問自答する。
バレていないだろうか、とても怖い。
察しの良い彼が気付かない筈なんてないのに、彼は私にそれを問い詰めるようなことはしなかった。
「ただ気持ち良いことがしたい、···そう望んでくれたらいいから」
それを彼以外の人に言われていたら私はどう感じただろうか?
きっとそれは難しいことだったかもしれない。
それでも私はトーマスを相手に意図も簡単に抱いてしまったのだ、その願望を。