目が覚めたのは外がまだ薄暗い頃だった。
壁に掛けられた時計を確認すると朝5時を少し過ぎた頃で隣ではトーマスが眠っていた。
「(結局晩ごはん食べてない)」
昨日あのままベッドに直行してしまったので食材を冷蔵庫に入れることが出来なかった。
安全面を考えるとお肉は捨ててしまった方がいいだろう。
起き上がりトーマスの顔を覗き込んだ。
やはり可愛らしい顔をしている。
「(···結局昨日は自分の意思でしちゃったんだよね)」
心は複雑だ。
それは彼が私に何を望んでいるのか不透明な所が大きい。
何故かとても好いていてくれていることは分かる。
それは初めて会ったその瞬間から。
「(あくまでも彼は猫だから、相性とか本能的なものなのだろうか。
猫は発情期となれば親や兄妹なんかも関係なしに発情出来るらしいし、昨日はたまたま発情していたのかもしれない)」
そうだったとしたらそれは猫の本能だ。
仕方のないことなのだ。
私は今何に対して胸をざわつかせているのだろうか。
得体の知れない何かに怯えを抱けばふと手に温かいものが触れた。
トーマスが私の手を握ったのだ。
「トー······マ、ス···」
思わず彼の名前を呼ぶも彼はまだ眠っていた。
隣で寄り添う相手がいなくなって寒くなったのだろうか。
私の手を握ったまま身体を丸めた彼はまさに猫そのものだった。
「(私はそんな猫相手に欲情してしまうようになってしまった)」
彼が私の元に来たのはあくまでも私の身を守る為だと言っていたのに。
私は、私達はこれからどのように暮らしていくのだろうか。
眠っている彼に抱く感情は素直に可愛いと思う気持ちとその得体の知れないなにか分からない感情の2つだった。
それに恐怖を感じつつも私の心はこれからもずっと彼と暮らしていけたら、そう望んでいた。
「(少しでも長く貴方といたいって気持ちを持つことはおかしな事ではないよね?)」
私はトーマスの飼い主なのだから、そう自分を納得させた。
眠る彼の頭にそっと触れれば彼はゆっくりと目を開けた。
まだ覚醒していない、ボーッとした目を動かし私を捉えた。
「···ごめん、起こしちゃったね、おはよう」
すべすべな頬を撫でればトーマスは気持ち良さそうにもっと、とねだるように私の手に顔を擦り付けた。
私は思う存分彼の顔をなで回した。
「今日、なんか機嫌良い?」
トーマスはそんな私の膝に顔を乗せてそう訊ねた。
喉をこちょこちょと指先で擽れば目を細めた彼を見て自然と私の口元は緩む。
「ん···お腹空いちゃった。まだ早いけど朝ごはん食べない?」
トーマスの問いに敢えて答えることはしなかった。
きっと私が答えるまでもないような質問だろうと思ったから。
「食べたい」
トーマスがそう返事をすると二人仲良く腹の虫が鳴いた。
私達は目を見合せて笑った。
「昨日は確認してなかったのだけれどトーマスってお昼ご飯はどうしてるの?」
「まぁ元が野良だからな、適当に済ませてる」
朝ごはんを食べ終え昨日入れなかったので朝からお風呂に入りトーマスの髪を乾かしている時ふと疑問を抱きそれについて訊ねた。
その答えを聞いて昨日の私を反省した。
今日は念の為にとそれを用意しておいてよかったと心底思った。
「あの、そんなにたいした物は用意出来ないんだけれど。
一応トーマスのお弁当も詰めたの。
だから良かったら食べて?」
そう伝えるとトーマスは私の方に振り返りキラキラとした目を見せてくれた。
喜んでくれているのだと理解してこちらの方が嬉しくなってしまう。
「名前、 」
トーマスは私にぎゅっと抱き付いた。
声に出さずに囁かれたその言葉は好きと言っているように聞こえた。
「トーマス····」
私も彼の背に腕を回し同じように抱き締め返した。
可愛い愛しい貴方を、大切に想っていると強く願って。
「じゃあね、トーマス、いってきます」
「ん···いってらっしゃい」
当たり前のように交わされる挨拶。
大袈裟に聞こえるかもしれないが私の世界がガラリと変わった、それを強く感じる瞬間だった。
数年前まで両親の元で生活して毎日交わしていた挨拶だというのに。
とは言っても両親とこんな挨拶の仕方はしていない。
でもお父さんとお母さんは今でもこうしていってきますの挨拶をしていることを私は知っている。
私達って本当になんなのだろう、それを単語一つで安易に表現出来る程私達の関係はシンプルなものではないだろう。
「(間に合わなかったか···)」
退勤後会社を出た見上げた空はぼんやりと雲が覆っていた。
嫌な予感を感じながら私は帰路を歩き始めた。
電車を降り足早に家までの道のりを歩くも地面が雨で染まっていく。
「(今更傘を買うのも勿体ないし、仕方ない)」
雨宿りをした所でいつ雨が上がるか分からない、そう判断して私は雨の中走り出した。
急激に強くなり始めた雨の降る中を走る。
服はすぐに水を吸っていく。
ここまで濡れてしまったのならもう走らなくても良いのでは?と考えるもスマホを持っている。
防水とはいえあまり濡らすのもよくないだろうと思い走りにくい靴で走った。
「ただいま」
「っ、な、何考えてんだよ!!」
鍵を開け部屋に入るとトーマスが私を出迎えてくれた。
そしてびしょ濡れになった私を見て目を見開いて怒鳴った。
トーマスにそんな風に叱られたことは初めての事だった。
驚いて固まっている私を尻目にトーマスは慌てて脱衣場に入りタオルを持って私の元に戻ってきた。
「傘持ってなかったなら買うとか、雨宿りするとかいくらでも手があっただろう!」
トーマスはタオルを私の身体に被せてがしがしと拭いた。
いつもとは立場が逆だ。
「今風呂の湯溜めてるから、先にシャワーするぞ!」
ある程度私を拭き終えると強引に引っ張り脱衣場へと連れていかれた。
荒々しく服を脱がされる。
私はされるがままになっていた。
「ごっ、ごめん····」
「いいから早く中に入れ!」
トーマスは私を急かしながら自身も服を脱ぎ始めた。
どうやらこんな時でも一緒に入ることは決定済みらしい。
「あ、う、うん」
取り敢えず私は浴室に入ってお湯の蛇口を捻った。
浴槽の方はすでに1/3程お湯がたまっていた。
走っていたのであまり気にならなかったが身体は冷えていたようでお湯の温かみに身体が幸せを噛み締めている。
そうしてシャワーを浴びているとトーマスが浴室内に入ってきた。
トーマスはシャワーを手に取り椅子に座って自身の膝の上に私を座らせた。
「あ、あの、トーマス?」
「じっとしてろ」
トーマスは私をぎゅっと抱き締めたまま私の身体にシャワーのお湯をかけた。
私の身体が熱くなっていくのはお湯のせいでもトーマスの体温のせいでもないだろう。
「(暖かい····)」
そのぬくもりが心地よくて私はトーマスに身を任せた。
彼の腕の中は私にとって最高の安らぎになっていた。
そうこうしている間にお湯が張れたと機械音声が流れたのを聞いてトーマスはシャワーを止めた。
私は彼の膝の上から立ち上がり浴槽に浸かる。
同じようにトーマスも入り再び私を抱き締めた。
「····気付けなくて悪かった」
「え?いや、そんなの····ごめん····心配してくれてありがとう」
傘を持って行かなかったのも買わなかったのも全て私が自分で決めたことだ。
トーマスが謝るなんてお門違いにも程がある。
「俺明日スマホ買ってくるから、名前の連絡先教えろ。
名前がちょっとでも困った時、何があろうと行くから」
「····ふふっ···大袈裟だなぁ···でも、ありがとう····」
これではどちらが飼い主なのかわかりゃしない。
トーマスは今日は一日雨が降りそうな天候で身体が怠くてずっと家にいたらしい。
私の匂いでどの辺りにいるか察しはついていたが立ち止まることなく家へと向かっていたので傘を持っていると思い込んだそうだ。
「私が特殊な人間だったからトーマスは今ここにいてくれるんだよね?
···だとしたら、私普通に生まれなくて良かったかもしれない」
ぴったりとくっついているから気が付いた。
彼の心臓が大きく鳴った事を。
「これからもずっと一緒にいようね」
私は心の底からそれを願った。