ずっとまえ

「寒くないか?」

「うん、寧ろ少し暑いくらい」

最近暖かくなったとはいえ夜はまだ冷えるからと家を出る際にしっかり厚着させられてしまったのだ。

「こんな時間に散歩したいだなんてどうしたんだ?」

「んー···なんとなく?
トーマスとデートしたかっただけ、かな」

これがデートと呼べるものかは分からない、それでも二人きりで出掛けているのだから私の中ではデートの定義に当てはまる。

「まぁこの時間なら人とも殆ど出会わねぇし快適っちゃ快適だよな」

「トーマスは人が苦手なの?」

「そういうわけじゃないが····まぁよく絡まれる事がある」

トーマスの言い種からそれはきっと女の子が相手なのだろうということに気付いた。
私としては複雑だがそれも仕方ないと思ってしまう。

「····トーマス、かっこいいもんね」

「心配するな、俺は名前しか見ていない」

謙遜を挟まない所がトーマスらしい。
そして真っ直ぐな言葉を私にくれる彼に私の不安は払拭される。

「ねぇ、トーマスは自分のお金だって言って私に沢山プレゼントをくれたけどお仕事とかしているの?」

私は前々から気になっていた事を訊ねた。
そういったブランドにあまり詳しくないのでそれがどこのものだということは分からない、それでも素人目で見ても彼が身に付けている衣類が質が高いものであるということは分かる。
私はまだまだ彼の事を知らない。

「ああ、始めて一緒に出かけた日、名前の服を選んだだろ?
あのブランドのデザイナーをやってる」

「···え、あ、あれ、じゃあ、あのお洋服もトーマスが···?」

トーマスは笑顔で首を縦に振った。
そしてなんとも幸せそうな顔で口を開いた。

「俺はずっと前から名前を見てたって言ったろ。
勿論仕事としてやっているから流行りや会社の方針に合わせた服も沢山作ってきた。
それでもいつか名前に着てもらいたい、そう願って名前が最も似合うと思う服も作り続けていたんだ。
そして俺はその夢を叶えることが出来た」

デザイナーなんて努力だけではなれない仕事だということくらい私にでも分かる。
トーマスはそんな選ばれた人だけが出来る仕事で私の為にそんな事をしていただなんて。
私は彼にどれ程愛されているのだろうか。

「····私、トーマスにこんなにも愛されて幸せだよ。
でも私がトーマスに返してあげられるものなんて何もない。
····お願い、教えて···私は貴方に何が出来る?」

私が彼ほど特別であればこんな事を彼に訊ねずにすんだのだろうか。
私の頭がもう少し良ければそれを思い付いたのだろうか。

もう私の心は彼を好きだという感情でいっぱいなのに私はそれを伝える術をしらない。

「そんなこと簡単な話だ。
ずっと俺と一緒にいてくれ。
俺はそれ以上何も望んでいない。
···逆を言えば俺は名前といられなくなるならもうこの世界になんの価値もない」

トーマスは私の頬に手を寄せる。
私を見下ろす目はゆらゆらと揺らいでいて、彼の背を月明かりが照らしる。
その揺らいだ目は夜空に耀く星々なんて霞んでしまうほど美しく光輝いていた。
なのにそれはどこか悲しい輝きに感じられた。

「ねぇ···トーマスは私の体質がなかったとしても、私を好きになってくれた?」

「···分からない、ただ俺は名前を見た瞬間欲しいと思った。
まだ化け猫と言われる存在になる前、動物の本能のままに生きていた頃俺はその本能に忠実に生きた。」

彼がただの猫だった頃、それはどのくらい前の話なのだろうか?
その言い種を聞く限りその頃に子供も沢山作ったのだろう。
その子達はトーマスと同じように化け猫になっているのだろうか。

「名前の考えていること当ててやろうか。
俺の子供の事だろう?
その時俺の血を継いだ子供はただの猫でしかなかった。
だからたったの数年でこの世を去ってしまった」

トーマスは親として自分より先にこの世を去る子供達を見送ったのだと言う。
その時彼がどんな気持ちでいたのか、子を持った事のない私には分からない。

「そして俺はその時知ったんだ。
自分が最初から普通の猫ではなかったのだという事を」

「···最初から化け猫だったってこと?」

行き先もなく歩きながら話していた私達の視界に公園が見えた。
トーマスが少し座って話そうと言うので私達は人のいない公園に立ち寄った。
ベンチに座ることを促されトーマスは二人分の温かい珈琲を自販機で買って一つを私に手渡した。

それを受けとるとトーマスも私の隣に座った。

「トロンが、俺の父さんは化け猫だったんだ。
始まりはどうだったのかは俺も父さんも知らない。
父さんは化け猫となって母さん、人間を愛した。
そして生まれたのは俺とクリス、名前の父親とそしてもう一人の弟だ。
クリスは最初から化け猫として生まれた、俺は猫として生まれ化け猫になった、そして弟、ミハエルは人として生まれてきた」

「···弟さんは猫ではなかった、の?」

トーマスは複雑そうな表情で頷いた。
彼にとってそれは悲しいことだったのだろうか。

「化け猫の、父さんの遺伝子が強く反映されるほど化け猫になる確率が高いらしい。
最もきちんと研究されたことではないからこれは予測でしかないんだけどな。
ミハエルは母親似だ。
母さんはもういない。
ミハエルは母さんを忘れきれなかった父さんが科学の力を使って俺たちよりずっと後に作った子供なんだ。
···それでもどんなに俺たちより後に生まれた子だとしてもミハエルは確実に父さんより早く逝く、それは人間であるが故当たり前の事なんだ。
それでもその瞬間、父さんはどんな気持ちでミハエルを看送るんだろうな」

トーマスはお父さんが大好きなのだという事がはっきりと伝わってくる。
私だってもし自分が両親より先にこの世を去ることになったら、きっと二人を悲しませてしまうということは想像するに容易い。

「俺や兄貴は人間として生きる事を決めた。
兄貴は既にそれを形にしている、だから人間と同じスピードで歳をとっている。
俺も名前と生きるつもりでいる。
だからいずれその道を進む。
でも父さんは違うんだ。
母さんの家族が父さんとの結婚を認めなかった。
無理矢理籍を入れる事も出来たが父さんはそれをしなかった。
父さんは形に拘る人ではなかったから。
だが結果未婚の母になってしまった母さんは家族との間に距離が出来た。
それでも母さんは家族と共に生きる事を望んだ。
跡継ぎのいない母さんの親は完全に母さんを見限る事は出来なかったんだ。
生まれた子供が、兄貴が化け猫であったおかげで、人の姿で生まれてきたおかげで母さんの両親は喜んだそうだ。
だが母さんが次に生んだのは猫の姿をした俺だった。
母さんの親はそれはもう発狂して俺を殺そうとしたらしい。
そうなる寸前で父さんは俺を連れて母さんの前から姿を消したんだ。
俺を守る為に父さんは母さんを諦めた」

トーマスの口から語られる過去に私は何も言えなくなってしまった。
喉は妙に渇いているのに手に持った珈琲を飲む事が出来ずにいた。
私のお父さんがもし猫の姿で生まれていたら私はこの世にいなかった。
そして二度と子供を生むことを許されなかっただろう。
つまりトーマスが生まれてくることはなかったかもしれない。

「名前を泣かせたいわけじゃないんだ。
結果今俺達は生きているしこうして名前とも出会えた。
俺は今十分に幸せだ」

トーマスは私を優しく包み込んでくれた。
彼の心臓の音を聴いて今こうしている事がどれ程幸福なのだということを噛み締める。

「···お父さんの、私のお父さんのおじいちゃんやおばあちゃんはどうなったの?」

「もういない、随分前にこの世を去った。
だから兄貴の祖父母は兄貴が異形の存在だと知らずに逝けたんだ。
きっとそれはお互いベストな形だった。
兄貴は頭が良かったから上手くやれた。
だが祖父母が死んだすぐ後、母さんは後を追うように病に倒れたらしい。
そこで久しぶりに父さんと再会出来たんだ。
父さんは必死で母さんを生かそうとした。
それでも決まった寿命には敵わなかった。
それでも何か母さんの証が欲しくて父さんは母さんの身体から卵子を摘出したんだ。
···そして化け猫と結ばれた女性の協力者が現れた時、その人の母体を借りて生まれてきた子供がミハエルだ。
ミハエルは人間だった。
父さんは母さんそっくりなミハエルを見て哀しそうに笑ったよ。
···代理出産をしてくれた人は父さんの気持ちを汲んだんだろうな、父さんに提案をしたんだ。
自分達には、化け猫である夫はただの猫であった頃に子供を成すことを封じられてしまった。
だから自分たちの子供として養子にだしてはくれないか、と。
····父さんはぎこちない笑顔のまま首を縦に振ったよ。
····あの時父さんはミハエルを見て気付いたんだ。
ミハエルを母さんの代わりにしか見ていなかったことに。
でも生き写しのようなミハエルを見て気が付いた、ミハエルと母さんは違う、だがこのままでは母さんの代替としてミハエルを見てしまう、と」

トロンさんにとってトーマスのお母さんはどれ程大きな存在だったのだろうか。
その愛は計り知れない。
そこまで求めて生み出したその子をその子の為を想って送り出した彼はなんて偉大な父親なのだろうか。

「今は父さんも随分踏ん切りがついてる。
名前も父さんに会っているから分かると思うが、良くも悪くも既に父さん本来の性格になっちまった。
母さんの親が死んだ事で兄貴は父さんと再会出来た、俺もその頃には化け猫になっていた。
そしてミハエルにも、まぁ父さんは今のミハエルの親に遠慮しているらしくて滅多に顔を合わす事はないがそこはミハエルの養父母が気を利かせてくれている。
俺達は別の人生を送ってはいるがちゃんと家族でいる」

トーマスはそう言っているが内心どんな気持ちで今こうしているのだろうか。
こんな風に柔らかく笑えるまでどれ程時間を要したのだろうか。
何も分からない事が悔しい。
私の方がよっぽどまだまだ子供で、彼をまるで甘えん坊な子供のように思っていた自分を恥じた。

「なぁ、······言ったよな?
俺は名前と一緒に居られたらそれで良いって。
でも父さんを見てきた俺にだからこそ分かるんだ。
それがどれ程特別で幸せな事なんだって。
名前の父親は兄貴だからこそ、そりゃあ小言は言われるだろうが父さんのように扱われる事はない。
それがどれ程幸運か」

トーマスは上着のポケットから手のひらに収まる大きさの箱を取り出した。
それが何かなんて私にだってすぐに分かった。


「名前を欲したこと、それが体質の影響だったのかは分からない、だが俺はこれ程誰かを想って求めたことはない。
その感情がただの本能なのだとしても俺は名前を手離したくない。
····だから、この先の名前の人生、俺と生きてほしい」


私は精一杯笑って喜んで、と首を縦に振った。
トーマスの美しい目は憂いなんて感じさせない程美しく光り輝いていた