ありがとう

「にゃーん」

「美味しい?」

猫の姿のトーマスは夢中でそれをぺろぺろと舐めた。
初めて出掛けた日買った猫用のおやつだ。
人として生きる事を選んだ後もう彼はこの姿になることが出来くなるらしい。

何かの本で読んだ記憶がある。
異形の存在を殺す方法は人間に恋をさせることだと。
私と同じ時間の中で生きる事を選んだトーマスは私と共に歳を取る。
それは決して必然的な事ではない。
彼は私を愛する為に自ら命を削る事を選んだ。

「なくなっちゃったね」

「にゃおん」

トーマスは最後にぺろりと舌で口元を拭って目を細めた。
相変わらず毛並みの美しいそれはもう愛らしい姿だ。
この猫が人に姿を変えるなど誰が想像出来ただろうか。

「トーマスは温かいね」

軽やかに膝に乗ったトーマスを抱きしめれば彼は私の頬に顔を擦り寄せた。
毎日私と同じお風呂に入っている事もあり猫本来の印象とは違う匂いが香る。
初めて彼を抱き上げたその日と違うその香りになんだか不思議な感情を抱く。

「出会って全然時間が経ってないのに、私こんなにトーマスのこと好きになっちゃった」

トーマスは私の言葉にぴたりと動きを止めた私の顔を不満げに見上げた。
何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。

「どうしたの?」

トーマスは軽くぽすぽすと私の顔を叩いた。
爪は出ていないので痛みはない。

「今日ね、お父さんがトーマスのお父さんとうちに来るらしいの。
私お母さんの祖父母も私が小さい頃に亡くなったらしくておじいちゃんもおばあちゃんもいなかったから嬉しいんだ。
だけどトーマスにとってはお父さんだから私にとっても義理のお父さんってことになるし···難しいね?」

そもそもトロンさんは子供の姿をしているのだからお父さんはおろかおじいちゃんと思える気なんてまるでしないのだけれど。
トロンさんがなぜ子供の姿をしているかまだ私は聞かされていない。
でもきっと話す必要があればいつかトーマスの方から話してくれるだろうから私はそれを聞かなかった。

「みゃおん」

心配しなくていいと言わんばかりに私の頬を舐めるトーマス。
どう見てもその行動は猫そのものだ。
それでも私は彼がどれだけ私を想っていてくれているか知っている。
だからそんな行為1つに物凄く安心感を感じることが出来た。

そうこうしているとインターホンが鳴った。
どうやら父とトロンさんが到着したようだ。

だがトーマスは私の上から降りようとしない。
猫の姿のまま二人を出迎えるのだろうか?

トーマスの正体を知っている二人には特に問題もないか、と思い降りようとしないトーマスを抱き上げ玄関に向かい部屋の鍵を開け二人を出迎えた。
すると私達を見た瞬間父は固まりトロンさんは笑った。

「トロンさん、こんにちは。
お父さん、どうしたの?」

「こんにちは、名前。
ふふっ、名前は僕の息子を受け入れてくれたんだね」

トロンさんの言葉に違和感を覚えながらもそれにはい、と返事をして二人に部屋に上がってもらった。
トロンさんは固まっていたお父さんの背を押して二人で部屋に上がった。

前回はきちんともてなす事が出来なかったので今度はきちんとした紅茶を出した。
トロンさんはそれをありがとう、と言って受けとり口を付けたがお父さんはソファーに腰を掛けた後も依然固まったままだった。

トーマスはやけに機嫌が良さそうに私にすり寄っていた。

「クリスは現実を受け入れるのに少し時間がかかるみたいだね。
まぁ父親にとって女の子は特別可愛いものだというのが一般的だしね。
勿論君達は男の子だけれど僕にとって可愛い息子達だけれど」

トロンさんがそう言って私にぴったりとくっついて離れようとしないトーマスの頭を撫でた。
トーマスは少し照れたのかトロンさんから顔を逸らしてパタパタと尻尾を振った。

「これは名前が選んだの?」

トロンさんはトーマスの首筋をマッサージするように撫でた。
そろに釣られてトーマスが顎をくいっと上げると首輪についている鈴がチリンと鳴った。

「あ、はい。トーマスが欲しいと言った時ペットショップに居たんです。
その時にトーマスに似合うなって、思ったものを私が購入しました。
トーマスも随分気に入ってくれたみたいで家に帰るなり早く着けてほしいと言ってくれて、···嬉しかったです」

ねぇ、とトーマスに視線を向けるとトーマスは慌てて私から顔を逸らした。
先程まであんなに機嫌が良かったのにどうしたのだろうか。

「····ねぇ、名前。
確認なんだけどトーマスの首輪っていつ買ったものなの?」

「トーマスと初めて会った次の日だったと記憶しています」

トロンさんの質問にそう答えた次の瞬間父がトーマスの首根っこを掴んで私の腕から取り上げた。
トーマスはフシャーと唸りながらバタバタと抵抗している。

「お、お父さん!どうしたの!?」

父はトーマスを険しい顔で睨み付けている。
トーマスは敵意丸出しで父を睨み返している。

「ねぇ、名前。
僕達化け猫にとって首輪には特別な意味があるんだ。
君はそれを聞いている?」

トロンさんの言葉に思い当たる節がなかったので首を横に振る。
するとトロンさんはやっぱり、と苦笑いの表情を浮かべた。

「トーマス、お前よくも私の娘に卑劣な手を使ってくれたな」

滅多に怒らない父が私でさえ初めて見る程に怒りを露にしている。
私はそれに驚きながらも父の手からトーマスを抱き上げた。

「お、お父さんどうしたの?お、落ち着いて」

「名前、お前は黙っていなさい。
私はお前の父として、トーマスの兄として愚弟の愚かな行動を咎めなければならない」

父はどうしてこんなにも怒っているのだろうか。
それを知りたくてそれに気付いているであろうトロンさんを見ればトロンさんは父を宥めるように肩を叩いた。
そして再び私の顔を見て教えてくれた。
父の怒りの理由を。

「名前、僕達化け猫にとって人間から首輪を受けとるということは生涯その人と共に過ごす、そんな意味があるんだ。
人間でいうところの婚約指輪みたいな意味があるんだよ。
最もそれは指輪とは違って契約みたいなものだからもっと強い効力があるんだけれど」

「え、あっ···そ、そうだった、の?」

父の手から抱き上げたトーマスは私の肩に顔を埋めてくっついている。
トーマスがその意味を理解した上でしたことはなんとなく想像がついた。

トーマスは出会った時から私を好きだと言ってくれていたし今考えても手段は少し強引だった、それでももう今彼を好きになってしまったからなのか彼の行為を咎める気持ちが私にはなかった。

「···お父さん、私の為に怒ってくれてありがとう。
でもね、首輪なんてなくても、私トーマスの事好きになってたよ。
だから、トーマスの事あまり責めないであげて」

「···ねぇ、当事者の名前がこう言ってるんだし、あまり頭ごなしに叱らないであげたら?」

トロンさんはそう言って父を宥めた。
父はトロンさんにトーマスに甘すぎると不満を口にする。

「昔のトーマスを覚えているでしょう?
あれからトーマスはきちんと約束を守った、それに保険をかけたとは言えそれは名前の好意にまで影響を及ばずものではないよね。
その結果今名前がトーマスを好きになって許すと言っているんだから。」

昔の約束とはなんの事なのだろうか。
トーマスはずっと前から私を知っていたと言っていた。
その頃に何かあったのだろうか。

「····父さんは甘いんですよ。
····名前、お前がどうしてもも言うなら私も煩く言うのはやめておこう。
しかしトーマス、今後私の娘に不誠実な真似をしてみろ。
次は名前がお前を庇おうが問答無用でお前から名前を引き剥がすからな」

トーマスは少し反省しているようで私に抱き付いたまま耳を寝かせた。
そんなトーマスを慰めるように頭を撫でればそれを見て父は大きくため息をついた。

「まぁでもトーマスに大切な人が出来たことは喜ばしい事だよ。
クリスもトーマスも、愛する人と一緒にいられることがどれだけ幸福なことか、それを忘れないようにね」

トロンさんの過去を聞いた私にはその言葉はとても重く感じられた。
それは父もトーマスも同じだろう。
トーマスはトロンさんの言葉を聞いて人の姿に戻り父に向き直った。

「···悪かった···けど俺が必ず名前を幸せにする、から···」

トーマスは深々と父に頭を下げた。

「···まったく···謝る相手を間違っているだろう。
私より先に名前に詫びるのが筋だろう」

トーマスは父にそう言われて再び私を見た。
人の姿をしているから生えていない筈なのに私には落ち込んで寝かせた耳がトーマスの頭に見えた。

「いいよ、怒ってないから。
だからいつもみたいに笑って、ね?」

トーマスの手を握りそう伝えるとトーマスは少し歪に笑った。

トーマスは私よりずっと長く生きていたからこそ私より随分余裕が感じられた。
まともに恋愛もしてこなかった、異性に好意を寄せられた経験のない私は随分あたふたさせられた。

私よりずっと大人びて見えた彼が猫の姿でいる時それはもう愛くるしい程私に甘えてくれた。

「お父さん、お父さんのおかげで私はトーマスに出会う事が出来たよ。
トロンさんがいて、お父さんとトーマスが生まれて···私は今こんなに素敵な感情を知りました。
だから······ありがとうございます。
トロンさん、トーマスとずっと一緒にいる事を許してくださりますか?」

「許すだなんて、こちらこそ。
僕はそんなに立派や親ではなかったから、大切な人を諦めきれなくてすぐ側にいたトーマスにも寂しい思いをさせてしまっていたんだよ。
それでも多少問題はあれど二人は誰かを愛する事が出来る素敵な大人に育ってくれた、僕は何もしていない。
だから許しを乞う事なんてしなくていい。
もっともそうでなかったとしても僕は名前、君なら喜んでトーマスを任せられる」

トロンさんは宜しくお願いします、と私に頭を下げた。
トーマスを見るとなんとも言えないような顔をしていたけれどそれが悪い感情でないことは私も父もトロンさんも気付いていただろう。

様々な不安を抱きながらも私達は二人で生きていく道を歩き始めた。






後日母にトーマスを紹介した時は笑顔で私達を迎えてくれた。
母親という存在を知らないトーマスは少しぎこちない態度ではあったがなんだか嬉しそうだった。

化け猫が人として生きていく、私と入籍するには手続き的なものに少し時間がかかるらしい。
トーマスはそれが焦れったいと不満を述べていたが私は二人でいられるだけで幸せだった。


「トーマスの猫の姿を見られなくなっちゃうの、やっぱり少し残念だなぁ。
絶対無理なものなの?」

「ああ、徐々に異形としての力は失われていくらしい。
兄貴なんかはもう姿を変えることは出来ないらしい」

そうだとしたら契約になったという首輪はどうなるのだろうか?
人の姿をしているトーマスの首には勿論首輪なんて付いていない。

「ああ、大丈夫、これは魂に刻まれているから」

トーマスは自分の首に触れそう言った。
なぜトーマスには私の考えていることがバレてしまうのだろうか。

「悪かったな、俺は名前を二度と離してやることがもう出来ない」

口では謝っているもののトーマスは心底嬉しそうだった。

猫を飼う事に憧れていた。

けれど私はやはり猫を飼う事が叶わなかった。

それでも私はそんな彼と生きていける事がどうしようもなく幸せだ。