「出会わなければ良かった」
酷い言葉を口にした。
トーマスは眉一つ動かさずにこちらを見つめている。
突き刺さった視線が痛い。
「俺は出会えて良かったと思ってる」
こんな事を言う人だっただろうな。
初めて出会った頃はおかしな人だとしか、いや、怖い人だと思った。
「どうしてそんなことを今言うの?」
今の私にとって彼の言葉は残酷だ。
泣きたくなんてないのに涙が溢れて頬を伝った。
「お前に嘘は付きたくない」
こんなに誠実な事を言う人だっただろうか。
いや、記憶を辿ればいつだって彼は、少なくとも私には誠実だった気がする。
私に攻撃的だった頃の彼も今の彼も全部同じ、正直な人だった。
「最近毎日会いに来てくれるね」
「会いたいんだよ、駄目なのかよ」
トーマスは毎日ギリギリまで私の傍にいる。
例え5分しか会えなくたって彼は毎日会いに来る。
「疲れてるでしょう。いいんだよ、来なくたって」
「そんなことお前に指図される筋合いはない」
トーマスは最近鏡を見たのだろうか。
以前よりずっと自分がやつれてしまっている事に気がついているのだろうか。
髪に艶もなくてただでさえ細い身体はさらに痩せて、目の下には隈が出来ている。
「ねぇ、人ってね、簡単に死んじゃうんだよ」
「知ってるさ、いや、これから嫌という程知るんだろうな」
トーマスは私を責めている。
私にはそれを払い除ける資格がない。
「明日からここに来なければいい。
そうしたら、暫くはそんな事忘れられるよ」
「俺に逃げろと言うのか。俺はもう逃げたくない」
可哀想に、彼は私に囚われている。
私よりずっと自由な筈なのに、自ら足枷を付けてその鍵を捨ててしまったのだ。
だからそれを外すにはもう強引に壊してしまうしかないのだ。
でも私にはその強引さが足りない。
「トロンさん達が悲しんじゃうよ。
トーマスの家族だけじゃない、凌牙君達だって、沢山のファンだって」
「分かってもらおうとは思っていない。
俺は誰に俺が間違っていると言われても考え方を変えるつもりはない」
私は彼を咎めながらも心の底で何を思っている?
本気で足枷を外そうとしているのか?
きっと斧の一つでもあればそれは容易に壊す事が出来るだろう。
私はそんなものも用意出来ないのだろうか?
いや、それはきっと初めから持っている。
それを振り上げる力がないだけだ。
「酷い、酷いよ、ねぇ、私ずっと希望なんて持ったことなかったの。
ずっと前から決まっていたことだったんだもの、それなのにそれを願ってしまったの」
「そう願ってもらえなかったら俺はどうなる。
そんなの俺の存在になんの価値もないと言われているようなもんだろう」
子供の頃はあまりよく分からなかった。
その意味が。
それは身体が成長すると共に理解した。
そしてそれをいつしか受け入れてしまったのだ。
それからずっと私の時間は止まったままだった。
私を置きざりにして世界は回っていく。
皆が変わっていった。
私のことなんて誰も待っていてはくれずに。
「そういうものだって、仕方がないことなんだって。
なのに、ねぇ、どうして、どうして私は今生きたいと願っているの?」
「そんなの当たり前だろ。
俺だってそう思ってる、生きていたい」
生まれた時から決まっていた、私が人より生きられない事。
期待しなかったと言えば嘘になる。
時にはいっそ早く消えてしまいたいとさえ思った。
「私トーマスともっと色んな事がしたい。
春はお花見をして夏は海に行って秋には紅葉を見て美味しいものを沢山食べて、冬にはこたつで一緒に寝ちゃって、それで風邪ひいてもいいから」
「出来るだろ、そんなのいくらでも。
ずっと一緒にいるんだから」
どうせ短い人生になるなら好きな事をしておけば良かったのだ。
なのに私は怯えてしまって、もうそんなチャンスもなくしてしまった。
「私初めて彼氏が出来たのに、大好きな人と抱き合うことも出来ない、トーマスとえっちしたかった。
いつか結婚して、子供を生んで、そんなこと初めて思った相手だった」
「俺はお前以上にそう思ってる。
毎日お前がいる家に帰ってただいまを言ってお前が作る飯を食って一緒に眠りたい」
繋がりが深くなればなる程その終わりが辛くて、それを思うと前に進めなかった。
トーマスは私のそんな気持ちを察して強くは迫らなかった。
私は求められたかったのかもしれない。
「あのね、お願い。一生の、最期の我が儘。
私トーマスとシたい。一度だけでいい、一度でいい、私男の人の身体が見てみたい、そして見るならやっぱりトーマスがいい」
「俺は酷い男だからきっと優しくなんて出来ない。
お前を抱けばきっとお前を傷付ける。
余裕なんてなくて馬鹿みたいに求めてしまう」
それは私にとって嬉しい限りだ、それを伝えたくてトーマスの手を握る。
トーマスが困っているのはすぐに理解した。
でも今日は困らせてしまいたかった。
私は悪い女なのだろう。
「求めてほしい、お願い、触れてほしいの」
パジャマのボタンに手をかけた。
それを一つずつ外していく私にトーマスは戸惑いを隠せない。
全て外し終えてそれを脱ぎ捨てた。
後ろに手を回し下着のホックを外した。
あまり大きくはならなかった胸が外気に晒される。
少し肌寒くて私の身体はトーマスのぬくもりを求めていた。
「子供みたいでつまらないかもしれない。
でも、お願い、少しだけ、そうしたら満足するから、少しでいいから触れて」
トーマスの手をとって私の胸を触れさせた。
「名前、やめろ、俺はお前が思ってる程デキた奴じゃねぇ」
すぐにその手を引こうとするトーマスの手を両手でぎゅっと握って引き留めた。
棺に半分足を入れているような私の力で彼を繋ぎ止めておくことは不可能だ。
それでもトーマスは口ではそう言いながらも無理にでも振りはらおうとはしなかった。
「こんなこと、少しなんてもんじゃすまねぇよ。
俺がどれだけお前を求めているかわからないのか?
俺が、俺がどれだけ、名前、お前を愛しているか」
トーマスの手のひらがじんわりと湿り始めた。
緊張しているの?ごめんなさい、きっと私がこうでなければこんな事にならなかったのに。
「どうなったっていいよ。
トーマスだって知っているでしょう?
私痛みも苦しみも山程経験してきてる。
だからね、大丈夫。
寧ろそれがどれだけ痛いものなのか経験してみたい」
苦しくて薬を飲んでも眠れない夜を何度も過ごしてきた。
最近ではもう日常的なものになってきた。
それでもトーマスの顔を見るとそれが和らぐのだ。
嘘みたいな、本当の話。
「今この瞬間だけの話じゃねぇよ。
俺は死ぬほどお前を抱きたいと思ってる。
それでもお前の命を削ってまでそれを成したいとは思わない。」
私はただ一つになりたいと言っているだけなのに。
どうして私の身体は性行一つでその命を縮めてしまうのだろうか。
生き物が出来るその行為が、私は今生きているのだろうか。
「なぁ、俺は1分1秒だってお前と生きていたい」
「だから抱いてくれないの?」
トーマスは黙って私の身体に先程脱ぎ捨てた服をかぶせた。
ああ、やはり彼は私を抱いてくれないようだ。
「トーマスはこれから先私じゃない人を抱くんだね」
「俺は一生お前以外の女を抱くつもりはない」
私を優しく胸に抱くトーマスの顔は見えない。
それでもその声は微かに震えていた。
「勿体無いよ、トーマスはきっと良いお父さんになる。
だからいつか恋人を作って結婚して、そしてお父さんになるの」
「それはお前の望みだってのか?
だとしても俺はその願いを聞くつもりはねぇよ」
可哀想なトーマス。
こんな亡霊のような私にとりつかれてしまって、縛られて。
「きっと退屈だよ、トーマスには家族が必要なんだよ」
「お前がいるだろ、それで十分だ。
お前が寂しい思いなんてする暇ないくらい向こうでは離してやらねぇよ。
嫌だって言っても毎日抱いてやるから覚悟しとけ」
私のせいで泣いているトーマスに私が出来る事はなんだろうか。
謝罪も否定もそれに意味があるのだろうか。
「···来ても追い返しちゃうから」
「お前みたいなひ弱な奴に抵抗されたってなんの意味もねぇよ。
意地でも帰ってなんてやらねぇ」
優しく触れられた唇はやはり震えていた。
トーマスはけして強くなどないのだ。
いつもいつも無理をして、そんなトーマスが愛しい。
あと何回彼に抱きしめてもらえるのだろうか。
そんなこと考えたくないのに、きっとトーマスも同じ事を考えている。
私は彼に自分を忘れてくれと言えない。
やはりトーマスは私になんて出会わなければ良かったのだ。