「悪い、仕事のスケジュールが変わっちまってもう行かなきゃいけなくなった」
私の向かいの席でパスタを食べていた彼が着信を知らせたスマホを見てそう言った。
もともと普通の会社員である私とプロデュエリストをしている彼とではなかなか都合が合わず今日は随分久しぶりのデートだった。
特別なことをしていたわけではない、それでもただこうして二人だけの時間を過ごせた事がとても幸せだった。
しかしその幸せな時間も彼のその言葉で本来の予定より随分早い幕引きとなった。
「····そっか···残念だけど仕方ないね。
今度何か美味しいもの奢ってよね」
出来る限り明るい笑顔でそう返せばトーマスはホッとした様な顔をして再び私に謝罪して伝票を持って席を立った。
私は大人しく彼に会計を任せて手を振った。
彼はレジで会計を済ませるともう一度振り返って申し訳なさそうに私に手を振りそのまま店を後にした。
途端に私の食欲は無くなった。
どうしても食べる気力が無くなって罪悪感を感じながらも私はそのまま席を立つ。
この店のドアはこんなに重かっただろうか?
入った時は自分で開けていないから私はその大きなドアの重さを今初めて知ったのだ。
私は薄暗いバーにいた。
あの後友人から誘いがかかったのだ。
適当なカクテルを注文するもその味はよく分からない。
ただただグラスに注がれた液体を喉に流し込んでいた。
「折角奢ってあげてるんだからもう少し味わって飲みなさいよ」
「分かってる、美味しいよ」
「嘘ばっかり」
友人は呆れ顔だ。
私はそんなに分かりやすい顔をしているのだろうか。
でもそんなの無理はないと思う。
私はそこまで割り切れない。
「罪悪感なタイミングよね」
「寧ろ最高の、かもね」
もう一度友人から吐き出されたため息に私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「プロデュエリスト様は何をしても許されるって?」
「さぁ、許す許さないは人それぞれだから」
友人と私は店内でも隅の方に座っていた。
その方が私が落ち着くからだ。
店内は薄暗い。
連れと来店している客が殆どだった。
所謂ナンパ目的で来店するには少しハードルの高い価格帯の店だ。
よって他人を無遠慮に観察するような客は居なかった。
だからこそその悲しい事件は起こった。
「今あそこでセックスしてると思う?」
「っあんたねぇ···まぁ、キスくらいはしているかもね」
この店にはVIP専用の個室があった。
彼は連れの女性の腰を抱きその部屋へと案内されていた。
迷うことなく当たり前のように入っていくその姿は彼がここに来るのは初めてではないのだと語っていた。
「今すぐ殴り込みに行く?」
「私達が締め出されちゃうよ、きっと」
グラスに残った酒を飲み干した。
今になって酔いが回ってきたようで頭が少しクラクラとした。
「これは立派な浮気でしょう?
名前は何とも思わないの?」
友人の眉間には深くシワが寄せられている。
私よりずっと美人な彼女にこんな顔をさせてしまっている事を申し訳なく思う。
「トーマスってね、ベッドの上では別人なのよ」
友人は私の切り出した言葉に驚きの表情を見せる。
そんな友人を気に止めることもせずに私は言葉を続けた。
「外では凄く紳士的でスマートで、凄く優しいけれど、そこではちょっと意地悪で。
でも普段じゃ考えられないくらい汗だくになって、沢山名前を呼んで沢山好きって言って···痛いくらい求めるの、私を。
···余裕がなくて、正直ちょっと痛い」
友人が私に同情している顔をしているのが分かる。
「でもそんな痛みが嬉しかった。
それだけ余裕が無くて、私を気遣う余裕もないって、それがただ自分が気持ちよくなりたいだけじゃないって分かるの」
私を求めて何度も何度も背中に付いた傷。
私が逃げようとすれば彼は必死で私を抱き締めた。
いっそベッドに縛り付けてしまえばいいのにいつもいつもそうやって、顔中べたべたに成る程キスをして、それは大人のセックスとは呼べなかった。
「····そう」
友人は何も言わなかった。
きっと私を哀れんでいる。
でもそれを悟られないように顔を伏せている。
友人にこんな事をさせてしまっている私は嫌な人間かもしれない。
そこへ何者かに声をかけられた。
「悪い、遅くなった」
それは友人の恋人だった。
私が今まで友人と共にいたのは友人の恋人が仕事の都合で約束の時間を大幅に遅れてしまうから、その為の時間潰しに付き合っていたのだ。
友人の恋人はもともと私の幼なじみだった。
高校で出会った私と友人はすぐに意気投合し、私の幼なじみも紹介して遊ぶようになった。
そしていつの間にか二人の関係は恋人同士になっていた。
私は二人に遠慮して友人とは付き合いを続けたものの幼なじみの彼に会うことは殆どなくなっていた。
彼と会うのも随分久しい。
「名前、悪かったな付き合わせて」
「ううん、じゃあデートの邪魔もしたくないし私はもう帰るね、···ありがとう、ごめんね」
私は友人にそう言って席を立つ。
友人は複雑な表情で私を見つめるもぎこちなく笑って私を送り出す。
「どんな結果になっても私は名前の味方だから」
声には出せないありがとうを告げて私は店を出た。
横目でVIPルートの扉が開いたのが見えた。
私は振り返ることはせずまっすぐ店を出る。
外は少し肌寒いくらいだった。
トーマスといた女性は今夜彼のぬくもりを感じながら眠りにつくのだろうか。
久しぶりにあった幼なじみの笑顔はぎこちなかった。
彼も知っているのだ、私の現状を。
高校を卒業してから一度だけ、たった一度だけ彼と電話をした。
そこで彼に言われた言葉をきっかけに私の電話帳から幼なじみの彼の名が消えた。
それは私の意思だった。
トーマスと付き合い始めた頃私は友人にトーマスを紹介した。
驚きのあまり上手く話せない友人を見て二人で笑ったのはどのくらい前だっただろうか。
友人とは何度か3人で一緒に食事をした。
トーマスはいつも紳士的で、友人は私に素敵な恋人が出来た事を喜んでくれた。
私は大切な友人に恋人を紹介出来た事が嬉しかった。
世の中には知らない方が良い事で溢れかえっている。
それでも人はそれを知ってしまう。
二人は私がトーマスに浮気されている事を知っている。
それでも私を心配して強く別れろと言えないのにはわけがある。
私は知っている、友人がトーマスに惹かれてしまっていることを。
私は知っている、幼なじみの彼が私を想っていることを。
私は知っている、トーマスは決して浮気相手の女性を愛してなどいないことを。
彼の愛は、目は私しか映してしない事を。
私の周りには嘘つきしかいなかった。
そしてその嘘があるから私達は平穏を保っていた。
良い友人、良い幼なじみ、ヒビだらけの仮止めのグラスはギリギリの所で持ちこらえていた。
トーマス初めからこうだったわけではない。
きっかけは私だった。
有名人の彼と付き合うことで沢山の妬み、僻みを買った私は沢山の嫌がらせを受けた。
トーマスのいない所で飲み物を掛けられたりぶつかられたり、そんの事は日常茶飯事になっていた。
彼を独り占めし、特別扱いされる私は多くの女性ファンを不快にさせた。
そしてある日私は駅の階段から突き落とされた。
私がトーマスのファンに嫌がらせを受けていた事実をその日初めて彼に気付かれてしまった。
彼は恐ろしいほど怒り狂った。
あの日の彼を思い出せば今でも震えてしまうほど、彼の怒りは凄まじかった。
このままでは私を突き落とした人を殺めてしまうのではないか、そう思う程怒りに狂った彼は恐ろしかったのだ。
私は聖人ではない。
だからこんな目に合わされた事が許せない、納得出来ない気持ちがあった。
それでも彼が今怒りに身を任せて築き上げてきた地位も何もかも台無しにしてしまったら、私はそれが怖かった。
これではまるで私が健気な女のように聞こえてしまうかもしれない。
そうではない、私が彼と会えなくなっては困る、ただそれだけだった。
その日私の必死の説得で彼の怒りはなんとか抑えられた。
ホッとした。
本当に安心した。
けれどそれは最悪の末路を迎えてしまう。
暫くしてワイドショーや週刊誌に度々彼が登場するようになったのだ。
それは決まって女性関係で。
取材で決まって彼女達はトーマスとの関係は友人関係だと答えていた。
けれどそれが嘘だと言うことは私にはすぐに分かった。
そんな事があっても彼の人気が落ちなかったのは大会成績が群を抜いて良かった事だろう。
デュエルの場での彼はより一層紳士的なプレイヤーであり続けた。
孤児院や医療団体への寄付へも積極的だった。
だからこそ当人達がそれを真っ向から否定すれば世間は彼を信じた。
恐ろしい程の役者になったのだ。
彼に抱かれる度に彼の背中に増える真新しい傷、生々しく鬱血した痕。
そして荒々しくなったセックス。
トーマスは“友人”達と随分仲良くやっているようだった。
何人もの友人が出来てからというもの私は嫌がらせを受けなくなっていた。
私が彼の特別で無くなった、と世間が判断したのだろう。
そうなると彼女達にとって特別秀でた存在でもない私など大した存在では無くなった。
彼女達から向けられる悪意を含む視線から哀れむような、ただ見下したものに変わり私は平穏な生活を手に入れた。
トーマスは度々私を心配してしつこい程私の身を案じ大丈夫かと声をかけた。
それに笑顔で大丈夫、と伝えると彼はホッとした顔をして私を抱きしめ甘い愛の言葉を口にする。
「名前だけを愛している」
違う、私はこんなこと望んでいなかった。
私にとって嫌がらせなどどうでもよかった、耐えられた。
貴方と共にいられる、ただそれだけで私は幸福で。
辛くなかったと言えば嘘になるかもしれない。
それでも同じように私だけを見てくれる貴方がいる。
それが幸せだった。
私を守る為にだんだんと汚れていった貴方に私は
私の貴方への想いが小さく音をたてて崩れていく
その崩壊の音が遠くで聞こえた
彼は他の女の子といるとき顔は笑っているがどこか冷たく呆れたような表情をしている。
しかし彼の仮面に惚れ込んだ彼女達はそれに気付かない。
私には彼の行為を否定することが出来なかった。
彼の行為を間違いだと否定してしまえばきっと彼は壊れてしまうのではないか、そう察してしまっているからだ。
だからこそ私も嘘をつく。
私のせいで間違えてしまった彼を置いていくことなどできない。
このままこうしていることで彼が更に深みに沈んでしまうことを知りつつも私は。
彼の愛を受けいれる。
世界は嘘つきばかりで成り立っている。
でもこの小さな、私の小さな世界で一番罪深いのは間違いなく
「私も貴方だけを愛しているよ」