空気は読まない

「…この暑いのにどいつもこいつも」


陽炎がうねる程猛暑の夏、私は外に出たことを後悔した。
ただ暑かったからという理由からではない。
夏なのだ、気象情報もチェックしている。
それを知った上での外出だ。
暑いのは仕方ない。

私を苛つかせたのは気温ではない。
勿論私の苛立ちの後押しになっていることに違いはないが。

この猛暑も街に溢れるカップル達にとって関係ないらしい。
見ているだけでうんざりする程彼女達はべったりと密着していた。

不快な汗が背中を垂れていく。
きっと汗じみになってしまっているだろう。
大きなため息一つ吐き出して私は自宅までの帰路を急いだ


「ただいまー」

「おかえり」

家に帰ると両親よりも先に無駄に良い笑顔でIVが私を出迎えた。
あまりにも驚いて私の世界が一瞬止まったような錯覚を覚えた。

「…なんでいるの?」

私は胡散臭いまでに良い笑顔をした男に対して不信感を全く隠すこともせずにそう訊ねた。
しかしその胡散臭い男は私の表情一つに動じることなんて更々ないようで更にイヤらしいまでの笑顔を貼り付けて私の地雷に触れた。

「付き合ってた男にちょっと会えない時間に二股かけられてたことが発覚した挙げ句捨てられた女は今どんな気持ちなのか知りたくて」

「死ね」

なんて腹立たしい男なのだろう。
何も間違ってなどいない、否、真実だからこそ今すぐこの男の顔面をぶん殴りたくなってしまったのだ。

「そんなに口が悪いから捨てられたんじゃねぇのか?」

まだ続けるのかと苛立ちは増していく。
デリカシーなんて微塵もないIVの言葉にむしゃくしゃした私は先程脱いだばかりのサンダルを顔面目掛けて思い切り投げつけた。

「おっと」

しかし対象となっていた男は余裕の表情でそれを受けとめて嫌味ったらしく玄関の端にもう一方と綺麗に揃えて置いた。

実際彼の口の悪さ、性格の悪さは世間の評価とは随分違うものだ。
それでも被った仮面がとにかく厚い、だからこそ私の家族からの彼への信頼は厚い。

玄関に母の靴は無かった。
おそらくすぐ私が帰るからなどと言って訪ねてきた彼を無人になる自宅に上げたのだろう。

まぁ稼いでいる彼だ。
うちのような一般庶民が窃盗などの心配はしても逆に笑われてしまうだろう。


どうして世間は彼の裏側に気付かないのだろうか。
そんな怨みの念を込めて男を睨みつける。
だかその程度の挑発に彼が動じることは当然なくIVは始終笑顔を浮かべたまま私を見下ろしていた。


「…あんた何がしたいの?何がそんなにおかしいのよ」

そう訊ねるとIVの顔は一瞬真顔になったがすぐにまた胡散臭い笑顔を貼り付け私に顔を近づけてこう言った。


「お前が男にフられたんが嬉しいんだよ」


その言葉になんの躊躇いもなかった。
なんて性格の悪い男なのだろうかと怒りで身体が震えた。
いつからこんなに意地の悪い男になったんだか。
少なくとも去年の今頃はまだこんな風ではなかったはずだ。

それは確か半年くらい前。
あぁ、そういえばその頃だった。
あいつと付き合いだしたのは。
半年間、私の初めての恋はあまりにもあっけなく終わったものだと考えると改めてこみ上げるものがあった。

目の前にいる男のせいで嫌なこと思い出してしまった。
楽しい時間もあったからこそダメージも大きいのだ。


「もう気が済んだだろ?」

IVは落ち込んで視線を落としていた私の顎を掴んで強引に自分の方を向かせて私の目を真っ直ぐ見てそう言った。

「な、なにが…」



何が起こったというのだろうか。
そしてIVは私に更に顔を近づける。




「…………なにしてんの…」


「は?キスも分からねぇくらいにあいつの事引きずって動揺してんのか?」

私にキスとやらをした男は呆れた表情で私を見ている。
一体今何が起こっているというのだろうか。

唖然とする私を気に止めることもなく彼は続ける。

「もう恋愛ごっこは十分に楽しめただろ?
今日からは本番だ」

あまりにも自然な動きでIVは自身の指先を私の指先に絡ませ再びキスをした。
思考のストップした私は抵抗することもなくされるがままになっていた。

だがその一方で浮気した元恋人よりも唇が柔らかい、なんてことも考えた私は自分が思っているより冷静だったのかもしれない。
ならばなぜ目の前の不埒な男を突飛ばしていないのか、それは分からない。

彼はこんな男だったのだろうか?
理由が分からない。
女になら誰にでも手が出せるような?

時折下世話な週刊誌にあることないことを書かれてはいるが彼が世間が想像するよりずっと子供でただのデュエル馬鹿だということを私は知っている。
だからそうではないと思いたい。

腹立たしい男ながらも彼をそれなりに知る友人だからこそそう願うのだ。

一体何を考えているのか、唇が離れた瞬間その真意を聞こうとしたその瞬間、私より先に彼が口を開いた。

彼が口にした言葉で私の心は一変する。


「取り敢えずベッド行くぞ」


この時はきっと本当に時間が止まったのだ。
その時の彼の表情は先程までの胡散臭いものでは無かった。
年相応、寧ろ子供じみて見えるくらい幼い表情をしていた。

だからどうしたという話だ。


私は次の瞬間当たり前のようにそんな言葉を口にした男の股間を全力で蹴り上げていた。

やはり彼はまだまだ子供なようだ。

誰でもいいから早くこの男に女を上手に口説く方法とやらを教えてやってほしい。

彼がそれを上手に出来たなら。
もしかしたら私はその誘いを断らないのかもしれない、なんて考えた。