「これ私の好きな洋菓子屋さんのレモンケーク」
名前が満面の笑みを浮かべ俺の前にそれが入った紙袋を差し出した。
これはようは今からこれを食べたいから俺に紅茶を淹れろという催促だ。
「しかたねぇなぁ···ちょっと待ってろ」
それをよく理解している俺は名前のお望み通り紅茶の準備を始める。
名前は二人分のカップを用意する。
俺はポットに水を入れ火にかけた。
前まで名前の家にはティーストレーナーもティーポットもなかった。
あるのは電気ケトルのみで名前自身紅茶を飲むとしてとTパックの紅茶しか飲んでいなかったのだ。
紅茶はただ喉を潤す為のもの、そんな感覚だった名前。
それはけして間違っているわけではない。
俺にとっても同じような感覚だった。
だが名前の方は俺の家に呼んだ時俺が淹れた紅茶を飲んでその認識がガラリと変わったのだ。
こんなに美味しい紅茶は初めてだと笑った顔はまるで子供のように無邪気なものだった。
俺はそれが結構嬉しかった。
紅茶なんて家族の為にしか淹れてこなかった。
家族以外で交流のある人間なんて殆ど仕事上での付き合いだったし凌牙や遊馬達なんて家に呼んでお茶を楽しむような間柄ではなかった。
家族以外の他人に茶を振る舞ったのはそれが初めてだったのだ。
おそらくミハエルの方が上手く淹れられるだろう。
家族の中で自ら進んで茶を淹れるのはミハエルくらいだし性格も繊細だ。
だから初めて名前に紅茶を淹れた時はそれはもういつもより丁寧に淹れた。
そしてあの笑顔を見た時名前につられるように俺の紅茶に対する感覚がガラリと変わったのだ。
「そういやぁダイエットしてるとか言って無かったか?」
「ダイエットはしてるよ。
でもバター粉菓子を我慢する気はないの。
その分運動してるから心配不要よ」
名前は俺の皮肉めいた言葉にも動揺なんて見せなかった。
正直女というものがここまで体型の変化を過剰に気にする理由は分からない。
テレビ番組にしろ雑誌の広告にしろやたらとダイエットの話題は多い。
それだけ興味を示す人間が多いのだろう。
だが以前これを名前に言ったところ
『トーマスだってひょろいって言われたのに腹立てて筋トレ動画前見てたでしょう。
健康でいたいから、綺麗になりたいから、身体のことを気にするのは人それぞれ違う事情があるのだから理解しろとは言わないけれどそれを批判するのはやめて』
とかなり痛いところを突かれたことがある。
その時名前があまりにもマジのトーンで言ってきたので俺は太りたくても太れない体質なのだということを口にするのは自重した。
「まぁ程ほどに頑張れよ」
「ん、ありがとう」
名前は俺に紅茶を淹れてもらう為に専用の道具を一式購入した。
カップもかなり良いものだ。
名前曰く俺の淹れるそれにはそれだけの価値があるそうだ。
なんとも洒落た口説き文句のように感じられた。
だから俺は文句一つ言わず名前の為に紅茶を淹れる。
今日もきっちり手順通り用意してそれをテーブルに運んだ。
名前は既に買ってきた菓子を皿に乗せて準備満タンでソファーにスタンバイしていた。
俺も隣に座る。
レモンの爽やかな香りがふわりと香って食欲がそそられた。
「ありがとう、ではでは早速いただきます!」
名前は早速紅茶の入ったカップを手に取った。
2〜3度ふーふーと冷ます仕草をした後それを口に含む。
いつも思うが名前は猫舌とは真逆の人種だと思っている。
俺もそれほど苦手なわけではないが名前と同じ飲み方をすればまず舌を火傷する、というか飲めない。
「あ、初めての味?もしかしてお茶っぱ用意してくれてたの?」
「前に買ってて勝手に置いて帰ってたんだよ。
それレモンと合うから一緒に食べてみろよ」
基本的に紅茶を飲む時それほど頻繁に自ら茶請けを用意することはない。
出されれば食べる程度だ。
名前とこうして食べる機会が増えたこともあって甘いものが好きな父さんやミハエルから色々教えてもらったのだ。
二人で折角お茶を楽しむのであればより名前を喜ばせたい、その気持ちからだった。
「不思議、トーマスの紅茶は全部美味しかったけれど、なんていうか本当に馴染むって言うのかな?
凄く美味しい」
「気に入ったのなら良かった」
名前は俺が選んだ紅茶を気に入ってくれたようで本当に幸せそうに笑っている。
この顔を見ればやはり次はどんなお茶を淹れてやろうかという気持ちを自然と抱く事が出来る。
心底惚れこんでしてしまっているのだろう。
「トーマスはなんでも知ってるね」
「んなことねぇよ」
名前のあんな顔が見られなかったら俺は人に進んでお茶を淹れるような人間では無かった。
あまりにも日常的に飲んでいたのでそれを意識するまでミハエルがあんなに丁寧に淹れていた事に気付かなかった。
「何て言うお茶なの?
これ気に入ったからまた飲みたい」
「ニルギリってインドの紅茶だ。
まぁ手頃な値段だしわりとメジャーだから飲んだ事あるかもしれねぇなぁ」
俺がそう説明すれば名前はスマホで紅茶について検索していた。
「手頃って、トーマスの懐感覚の話じゃないよね」
「いや、俺のって···そんなに俺の感覚は狂ってんのか?」
名前は誤魔化すような笑顔で目を逸らし再びスマホに視線を落とした。
「あ、本当だ。良かった!」
「···まぁ分かったならいいけどな」
どうやら俺の金銭感覚はそれ程狂っていないと証明されたらしい。
なんだか腑に落ちないところもつまらない事で喧嘩のようになるのも馬鹿馬鹿しいと思うのでそれを言及するのは止めておいた。
「毎日トーマスの紅茶が飲めたらいいのに」
名前が自然と口にした言葉、それはまるでプロポーズのようだった。
「私ね、トーマスの紅茶を初めて飲んだ時から少しだけ紅茶について色々調べたの。
それでね、凄く素敵だなって言葉を見つけたの。
トーマスだったら知ってるのかな?」
名前は再び紅茶を一口飲んで俺の方を見た。
それはもう優しい穏やかな表情で俺を見つめた。
「もしあなたが寒い時、紅茶はあなたを暖めてくれるでしょう」
「···もしあなたが熱い時、紅茶はあなたを冷やしてくれるでしょう、か?」
名前が口にしたその言葉は有名な文面だった。
昔家族旅行で行ったどこかのホテルで紅茶と菓子とその言葉が書かれたカードが置かれていた事があった。
当時俺はまだ子供であまりそれに関心を持つ事が無く真っ先にお菓子に手を伸ばした。
だが紅茶を積極的に淹れ始めた頃父さん
にその言葉を教えられ家族で旅行した時目に触れたそのカードを思い出したのだ。
「もしあなたが落ち込んでいる時、紅茶はあなたを励ましてくれるでしょう。
もしあなたが興奮したら、紅茶はあなたを落ち着かせてくれるでしょう。
これを知ってね、ああなんだ、紅茶ってトーマスと似てるんだなぁって知ったらもっと紅茶が好きになったの」
名前の言葉を聞いた俺は泣きそうになった。
それは勿論嬉しくて、だ。
「···どうせなら俺の方に惚れ直してほしいもんだけどな」
「そんな隙がないくらい私は貴方の事が大好きだもの、だから許してね」
狡い、なんて思いながらも俺の顔はおそらくだらしなくにやけてしまっているだろう。
なんというか告白から諸々全て名前が一歩先を歩いている。
いつも俺が出遅れてしまうのだ。
それはなんだかとても癪だった。
幸せには違いない、だが俺にも男としてのプライドはそれなりにあった。
「···名前、なら俺の淹れた紅茶を毎日飲んでくれないか?」
「···トーマスってばまるでプロポーズみたいな事言うんだから」
そう思ってくれて構わない、そう言って俺は名前にキスをした。
名前は少し照れくさそうにはにかんだ。
この表情はなかなかにレアだ。
「指輪、今度一緒に買いに行こうな」
「···はい····!」
いざそういう時はきちんと段取りを組もうと考えていたのにまるで乗せられるかのようにしてしまったプロポーズ。
だがこれはこれで俺達らしい、なんて思った。
勢いだけで言ったつもりはない。
それでも名前に背中を押してもらえたのもまた事実だ。
きっと俺にとっても名前は紅茶のような存在だ。
特別な紅茶に俺はこれから先もずっと支えられ生きていくのだろう。
だから俺も名前にとって特別な紅茶のような一番身近で寄り添える存在でありたい。