希望のような存在
「ヨハンって凄いね」
「何の話だ?」
今から2年前、私は父の仕事の事情で家族揃って海外に引っ越すことになった。
その時の私は学校で学ぶ程度の英語しか分からず何より友達と離れることが本当に嫌で、でも中学を卒業する頃、まだ1人で生きていく準備も勇気もなかった子供の私に1人日本に残るなんて事が出来る筈がない事は理解していた。
「ずっとだよ、初めて会った時からずっと凄いなって思ってる」
「よく分からないけど褒めてくれてるってことでいいんだな?」
飛行機に乗って初めて足を踏み入れたそこは日本より寒かった。
空港でチラホラと同じ日本人と思われる人は見かけた。
でも彼らはきっと旅行者であってここに住んでいるわけではないのだろう。
お土産らしきものを沢山持っていたから。
騒がしい空港の中で耳に入る言葉に馴染みのある日本語は聞こえてこなかった。
それが不安で母の腕にしがみついた。
母は私の不安を感じ取っていたのか何も言わず寄り添ってくれた。
今覚えばきっと母も同じだっただろうに。
「初めて会った日の事思い出したんだよ」
「なんやかんや結構経ったよな」
空港からタクシーに乗って新しい我が家に着いた。
外観からして日本とは少し違うデザイン。
前の家より可愛いかもしれない、とほんの少し心が弾んだような気がした。
中も素敵だったよ、と父が言って鍵を開けて扉を開けた。
室内は木が沢山使われていてとても優しい色合いで大きな窓からは優しい光が差し込んでいて。
まるで絵本に出てくるような素敵なお家だった。
「ヨハンって人見知りとか無縁だよね」
「そんなことないって。俺だって初めて話しかけた時緊張したさ」
家具は備え付けの家だったし日本から持ち出した荷物は最低限にしていたので私の荷解きはすぐに終わった。
父はすぐに仕事で昼間は家を開けていた。
私は昼間は母と2人で英語の勉強をしていた。
週に2度はビデオ通話で学んで。
大変ではあったけれどまだ英語が通じる事は救いだった。
この国の一般的な公用語はまた別にある。
けれど大抵の場所では英語が通じる。
この国の言葉は私には難しすぎたのだ。
「ここに来て初めて喋った現地の男の子から日本語で挨拶されたのほんとびっくりしたよ」
「名前のお父さんから聞いてたんだよ。
自分は日本人で家族で引っ越してくる、娘は俺と同い年だから仲良くしてあげてほしいって」
少し慣れた頃にはたまに1人で外出出来るようになっていた。
と言ってもあまり人と出会う事のない時間を狙って外に出ていたのであまり意味はなかったかもしれないけれど。
日本では桜が見頃の季節になっている。
友達もみんな高校生になった。
私はみんなより遅いタイミングでの入学になる。
夏が来る前に早くこちらに慣れてしまわなければと依然不安はある。
また大人になって日本に帰ればみんなと花見が出来るのだろうかと考えていたそんな時だった。
彼、ヨハンに話しかけられたのは。
「あの時のヨハンは全然日本語話せなかったのにそれでも私にこんにちは、って声をかけてくれたじゃない?私はそれよりは英語を理解していたのに外で誰かに英語で話しかける勇気がなかったから。
凄いなって」
「分かんなけりゃ分かんないで笑い話になるかなって、まぁきっかけになればいいなって、そんな感じだったんだよ」
青い髪にエメラルドグリーンの目をした綺麗な男の子。
まるで天使のように感じられた。
少し間が開いてしまったけれど同じようにこんにちはと返事をすれば手を差し出されたので握り返した。
握手を求められるだなんて日本ではあまりないことだから少しぎこちない感じになってしまった。
自分はヨハンという名前だということを教えてくれたあと彼は頭をかきながら日本語はこれしか知らない、と言ってごめんなと謝った。
そんな彼に勇気を貰った私は初めて英語で返事をしたのだ。
今覚えばよくあれで伝わってくれたもんだと思う程拙い英語で。
「ヨハンってなんていうか察しがいいっていうか、よくわかったね」
「取り敢えず名前が分かったしある程度拾えれば大体何を言ってるかくらい分かるさ」
それから彼と仲良くなるのに時間はかからなかった。
ヨハンはよく家に遊びに来てくれたし私に英語を教えてくれた。
逆にヨハンは日本語の勉強がしたいと言った。
きっとそれは私の事を気遣ってくれていたんだと思う。
彼は物覚えがよくいつのまにか母に話しかける際日本語を使うようになっていた。
海外暮らしが初めてなのは母も同じだ。
彼のそんな行動に私達は随分精神的に支えられた。
「それにしたって。でもそういう感じだからもうこんなに日本語ペラペラになったのかな」
「流暢に話せてるかは分からないけどやっぱ新しい言葉を知るってのはいいもんだな。
そのおかげでこうやって名前とも仲良くなれたわけだしな」
「文句の付けようがないくらい流暢だよ...」
本来通う筈だった学校は彼とは違う学校だった。
楽しそうにデュエルの話をする彼にはデュエルモンスターの精霊が見えているらしい。
私には見たことがないし今まで周りにそんな人といなかった。
夢のような話、でも私にはその話をすんなり信じた。
それは彼がそんな事で嘘をつくような人間ではないと既に信じきっていたからだろう。
学校が始まれば彼と過ごせる時間もなくなってしまうかもしれない。
そんな不安を口にした時母が提案してくれたのだ。
ヨハン君と同じ学校に通う?と
「実技のテストの為にめちゃくちゃ鍛えてもらったよね。英語の勉強なんかよりずっとスパルタだった気がするよ」
「俺は楽しくデュエルしてただけのつもりだったんだけどな。
いや、まぁでも一緒に通えたら嬉しいなって思ってたから多少はあったかもな」
小中学校は公立に通っていたから初めての受験のようなものだった。
それも普通の学校ではない、デュエルの学校。
友達と同じ学校に通いたいだけで入学を望むなんて不純かもしれないと思いながらも母だけでなく父も、勿論ヨハンも応援してくれたので英語と一緒に沢山勉強した。
ヨハンも学校が終わると真っ直ぐ家に来て教えてくれた。
彼は私よりずっと頭が良かった。
「話せるようになったけどまだ漢字は読めないからって沢山質問してたよね」
「漢字って色んな読み方があったりするだろ?
今だってまだ読み方が分からない漢字結構あるからな」
私の勉強ばかりでは集中力が切れてしまうことがあったので気晴らし程度にヨハンの日本語の勉強も続けていた。
と言ってももう彼は殆ど日本語をマスターしたいたようなものだったので私の本を持ち出して読み方の分からない漢字を教えていただけだったのだけれど。
「すき...って、覚えてる?」
「...忘れるわけないの分かってて聞いてるだろ?」
彼がこれは何て読むんだ?と訊ねた漢字、それを確認して私はすぐに答えた。
隙、すきだよって。
彼は少し間を開けてありがとうと言って笑った。
あの時の彼の顔を今でもよく覚えている。
「可愛かったよね、あの頃のヨハン」
「可愛いってなんだよ」
その時は気付けなかったのだ。
彼がそれに別の何かを含んでいたのを。
彼が私に優しいことを特別なことだと思っていなかった。
きっと彼はみんなに優しくて、きっと沢山友達がいるのだろう、見知らぬ土地でこんなに優しい人と出会えた事が本当に幸福だと思った。
「多分ね、出会ってわりとすぐに私ヨハンの事好きになってたと思うんだ」
「俺は多分初めて会った時から、一目惚れってやつだったと思うよ」
無事同じ学校に入学して沢山の人と知り合った。
新しい友達も出来た。
嬉しい筈なのにその分彼と過ごす時間は当然減ってしまった。
楽しい筈なのに寂しい、彼が他の女の子と仲良くしている姿を見ると心がざわついた。
それを友達に話せばそれは私がヨハンに恋をしているからだと教えてくれたのだ。
「好きだったならもっと早く教えてくれてもよかったのに」
「隣に住んでて万が一フラれたりしたらその後気まずくなって疎遠になったりしたかもしれないだろ?
そんなの俺が耐えられないから距離詰めてる時だったんだよ」
学校が始まってからも彼は家にしょっちゅう遊びに来てくれた。
私は少し意識してしまいたまに挙動がおかしくなっていたように思う。
それでも彼は何も気にしてはいなさそうに接してくれた。
きっと彼は私が自分を意識し始めたという事に気付いていたのだと思う。
「日本に行ってる間浮気しないでね」
「そんなのする筈ないだろ、俺は名前が好きなんだから」
あれから2年が経った。
彼は来週から暫く日本に留学することになった。
彼はもう私の助けなど殆ど必要とせず日本語の書籍が読めるようになっていた。
「向こうに行くまで毎日一緒に帰ってもいい?」
「当たり前だ、今までだって殆ど毎日そうしてただろ?」
当然のように抱きしめられキスをされるようになった。
私たちは同じ気持ちになって結ばれた。
今では勉強という理由なんてなくたって一緒に過ごすようになっていた。
それが期間限定とはいえ暫く出来なくなってしまうのだ。
やはり寂しい。
「いつか一緒に日本に行けたらいいな。ヨハンと一緒に行きたいところ沢山あるんだ」
「卒業したら一緒に行けばいいさ。時間は沢山あるんだから」
彼の夢を知っている。
本当にそんな時間があるのだろうかと少し疑問に思うけれど彼は出来ない約束をする程無責任な人ではない事も知っている。
きっと大人になればなるほど一緒にいられる時間は減ってしまうだろう。
それでも多分私の心が彼から離れることは無いと思う。
彼もきっとそうだと、それを信じられる程私は彼のことを愛してしまった。
「...今日泊まってもいい?」
「当然、と言いたいところだけど...名前の親父さんが怒鳴りこんでこないかちょっと心配だな」
「私も一緒に怒られるから、お願い」
「...いや、怒られるのは俺だけでいいから。
俺も今日は名前を帰したくなくなった」
寂しいのはきっと彼も同じだ。
でもきっとこの留学は彼の為に必要なことなのではないかと、そんな予感がする。
私を抱きしめる彼の身体は出会った頃よりずっと男の人になった。
きっとこれからまだまだ変わっていくのだろう。
私も彼がいない間少しでも大人に近付けるだろうか。
「大好きだよ、ヨハン」
「俺も大好きだよ、名前」
中学生の頃不安で仕方なくて冷たい態度をとってしまった父に謝罪と感謝を伝えたいと思った。
父がいなければ今私を抱きしめるヨハンはいなかったのだから。
でも今日だけは悪い子になる事を許してほしい。
大好きな人と離れたくない、そんな気持ちをどうしても抑えきれなくなってしまった。
そんな初めての夜だった。