経験値不足

「今夜泊まってもいいの?」

食事の最中、私のなんの気なしの質問に彼は小さく咽せたあと眉間にシワを寄せこちらをじろりと睨んだ。

「...君はもう少し恥じらいというものを持った方がいい」

頬をほんのりと赤く染めた彼はそれを誤魔化すように咳払いをし目を逸らしてナプキンで口元を覆ってそう苦言を口にした。

「ごめんなさい。...無理なら電車の時間確認しておかなきゃって、...そう思っただけなの」

そんな彼を可愛いと思いながらも謝罪を入れ素直に理由を話せば彼は再びじろりと此方を見て口を開いた。

「たとえ無理だったとしたならばきちんと君を自宅に送り届けるに決まっているだろう。
君は僕がそんなこともしない男だと思っているのか?」

「...そうだね。ごめんなさい、エド」

心外だと不機嫌な顔を見せる彼に再度謝罪をして上品に盛り付けられたデザートをフォークですくって口に運んだ。
自分では絶対に行かないようなお店。
今日だけではない。
付き合い始めて初めてのデートの日、私は彼に見るからにお高そうな洋服屋に連れていかれた。
庶民の私でも分かる程上質な服ばかりだった。
私にはこれが似合うと思う、と彼に勧められたそれは普段着に使うには勿体無い、ドレスと言った方が相応しいワンピースだった。
不相応だとも思いながらも私自身それを身に纏い鏡を見て素直に素敵だと思ったので彼の言葉に肯定の声を発すれば彼は店員さんに購入の意思を伝えた。

『ちょ、ちょっと待って、あの、私っ』

『僕が君に贈りたいと思っただけだから君は黙って受け取ればいい。
気に入らないというのならそれをどうしようと君の自由だ』

よく言えばスマート、悪く言えば少々強引な彼のそんな行動に私は言おうと思った言葉を引っ込めた。
先ほど着替えた時に見えた値札。
普段よりゼロが一つ多い、そのドレス。
きっと洗濯機で洗うなど出来ないであろうそれを。
会計を済ませた彼はそれを店員から受け取りこちらを見た。

『でももし気に入ってくれたのなら次僕が誘った時それを着てきてほしい』

それを着た君を連れていきたい店がある、そう言って彼は私に手を差し出した。

『...うん、分かった』

彼の手をとって肯定の言葉を口にした。
私の返事に満足した彼は上品な笑みを浮かべ私を連れ店を出た。
そしてその後彼は当然のように私に靴とアクセサリーも複数個購入した。
もう価格については考えないようにした。
きっとそれは無粋な事だから、とそう自分に言い聞かせて。



「ごめんなさい、私慣れていなくて」

「...分かっている。僕も言い方がキツくなった」

すまない、と私に謝る彼は実に紳士的だった。
私にとって彼は初めての恋人だった。
きっと同年代の友人達よりずっと大人のお付き合いをしている。
だからこそ周りに相談する事が出来ずいつもぎこちなくなってしまう。
少々強引なところがある彼だがそれでもいつも私に優しくて。
それが本当に申し訳なくなってしまうのだ。

「...私、こんなんでちゃんと恋人だって言えるのかな」

そんな弱音を口にした。
彼は手に持っていたフォークを置いた。
カチャリと鳴ったその音は小さかった筈なのに私にはやけにはっきりと聞こえた。

「...明日は朝早くから仕事に出なければいけない」

彼の発した声に感情は感じられなかった。
怒らせてしまっただろうか、呆れられてしまっただらうか、と背中に嫌な汗が伝った。
恐怖を感じながらもおそるおそる視線を合わせれば彼は不敵な笑みを浮かべた。

「だが名前、僕は君を今夜帰す気がなくなった」

彼はそう言ってグラスに入った飲み物を飲み干した。

「いくら君でもその理由くらい分かるだろう?」

そこに先程照れて頬を染めていた彼はいなかった。
目の前にいる彼は大人の男の顔をしていた。

「君は何も気にせず僕の側にただいればいい。
余計な雑念は捨てろ」

真っ直ぐ私を見つめてそう言った。
彼はいつだって迷わない。

「慌てなくていい、君が食べ終えるのを待っているから」

皿にはまだ半分以上デザートが残っていた。
それはとてと美味しかった筈なのに、いつもであればすぐに食べ終えてしまう、そんなものだったのに。
今の私には胸がいっぱいでこれ以上食べる事が出来そうにない。
ご馳走になっているというのに私はそれをどうしても口に運ぶことが出来なかった。
顔が、身体が熱い。
まるで熱でもでたかのように。

「...ごめんなさい、あの、今日はどうしてとお腹がいっぱいになってしまって」

残すようなことはできればしたくなかった。
本当に美味しかったからこそ尚更。
彼は謝罪する私を見て先ほどとは違い柔らかく笑う。

「君のそういうところ僕は可愛いと思う」

彼はそう言ってウェイターに一言声をかけ腰をあげた。
そして私の後ろに周り私にも席を立つよう促し椅子を引いた。

「また改めて食事をしよう」

なんて自然なエスコートだろう。
彼に連れられ店を出た。
迎えの車はすぐに到着し、2人乗り込んだ。

「やはり君にそれはよく似合っている」

今日あの日彼にプレゼントされたドレスを着ていた。
これ以外にもう何着も彼から洋服をプレゼントされているが私はこの初めてプレゼントされたドレスが1番気に入っている。

「君は知っているか?男が恋人に服を贈る意味を」

耳元で小さく囁かれた言葉に私はようやく冷めかけていた熱が再び込み上げてくるのを感じた。
きっと夜でなければ顔を覆っていただろう。
夜の車内は暗い、それに助けられた。

「前言撤回するよ。名前、君は僕に対してもう恥じらいなんて抱かなくていい」

そう言って彼は私の手に自身の手を絡めた。
ただ手を握っただけ、それだけの事なのなぜこんなにも艶やかなことをしているように感じるのだろうか。

「今夜は覚悟しておけ」

速くなる心拍数、それを自覚した私はきっと彼といれば長生き出来ないんじゃないか、そんな事を考えていた。
繋いだ手に汗をかいている自覚はあった。
でも彼はその手を離そうとしない、だからますます私の鼓動は大きく鳴った。

私が恋愛というものに慣れる日はまだ当分来ないだろうと、そう思った。