「名前さん...」
後ろからお腹に回された腕に力が込められた。
私の名を呼ぶ声色はどこか艶っぽくて。
そのまま耳たぶに唇を寄せる。
もう彼が何をしたいかなんて分かっていた。
「ごめん、今日はやだ」
彼の顔を手のひらで押してそれを拒絶すれば彼は少し大袈裟なくらいショックを受けた顔を見せた。
「...どうして...ですか?」
嫌だと駄々をこねる子供のように彼は肩に顔を埋めてぐりぐりと擦り付けた。
普段であれば簡単に折れてしまう私だが今日はそんな気分になれそうにない。
「...嫌なの。今日はそういう気分になれない」
だから離して、と彼の腕を解こうとしたけれど彼はその手を緩めようとしない。
寧ろぎりぎりと締め付けてくるものだから正直苦しい。
「...最近全然いちゃいちゃ出来てなかったじゃないですか」
「今だって十分いちゃいちゃしてるでしょ。
なんでこれじゃダメなの?」
彼は消え入りそうな声で足りないです、と言った。
「名前さん不足で死んじゃいます。
いいんですか、僕が死んでも」
「そんなことで死なないから大丈夫だよ、だから離して」
それも嫌です、と一向に離れようとしない彼にため息をついた。
「...そんなに僕のこと嫌になりましたか?」
「なってないよ。だからこそ今日は嫌なの」
なぜ私が彼を拒んでいるのか、正直理由はあまり話したくない。
どうしてもというのであれば彼自身に気付いてほしいと願って彼を拒んでいた。
だが彼がそれに気付く気配はまるでない。
どうしたものかと頭を悩ませていたところで性懲りもなく彼は私の頬に唇を寄せてきた。
別にこのくらいなら、と好きにさせていたら彼はいけると勘違いしたのか服の裾に手を入れようとしてきたのでその手の甲をつねった。
「い、痛いです!どうしてそんなことするんですか」
「テツヤ君が悪い子だからです」
悪い子なんかじゃないです、と不貞腐れた顔を見せるもやはり身体はぴったりとくっついたまま。
このままでは埒が明かないと察した彼に優しく言った。
「...なんで嫌か話すから、ちゃんと顔見て話したいからちょっと手緩めて。
ちゃんとここにいるから」
「...絶対ですからね」
彼は渋々といった態度で私を拘束していた腕を緩めた。
本当であれば話し合うのなら正面に座るべきであったけれど今少しでも距離を空けようとすればまた彼にぎちぎちに拘束されてしまいそうだと思ったので彼の足の間に収まったまま横を向いた。
すると当然のように彼は再び私に抱きついた。
「...昨日、見ちゃったんだよね。...テツヤ君、あの子と2人で歩いてたところ」
「...もしかして、桃井さんの事ですか?」
彼女のことをそう深く知っているわけではない。
でも彼女が彼を好きだったことは知っている。
周りが驚くくらい熱烈なアプローチをかけていたことも。
そして私が知らない頃の彼を知っていて、今でも特別な友人の1人であるということも。
「友達だって、信じてるけどでもテツヤ君もあの子も凄くリラックスした表情で、お互い気を許してるんだな、特別なんだなって。
なんかそれがすごく気になっちゃったの」
彼は私と付き合うことなってから彼女にもきちんと特別な人が出来たのでもう抱き付いたりしないでくださいと言ってくれた。
彼女もショックを受けはしたものの彼の言葉に素直に頷いて幸せを願ってくれた。
きっと私が逆の立場だったなら無理だったと思う。
だから彼女は私よりよっぽど魅力的な女の子だ。
テツヤ君も彼女も誠実な人だからこそ今はただの友人として付き合っている、それを知っている筈なのに。
私にだって男友達はいる。
それなのに彼のそれは許せない、なんて自分勝手なのだろうかと呆れてしまう。
だから時間を置いて自分の中で消化してしまおうと思っていたのに今日当然彼の部活が中止になった事で今こうして2人きりになってしまったのだ。
「浮気とか疑ってるわけじゃないからほんとは言うつもりもなかったし言いたくもなかったの。
時間が経てば落ち着くと思っていたし、でも今はこんな気持ちだからそういう気分にはなれなかったの。
ごめん、ちゃんと自分で機嫌とっておくから、だから...嫌いにならないで...」
顔を見て話したいと言ったのに私は視線を彼から逸らしてしまう。
結局今私が抱いていたもやもやした部分を彼に曝けだしてしまった。
面倒な女だということは自覚している。
こんなことになるくらいなら何も考えずに彼に抱かれてしまえばよかっただろうかという気持ちにすらなってくる。
自分を信用しない彼女なんて嫌だと怒ってしまうだろうか、と不安になっておそるおそる彼の顔を見た。
けれど彼は私の想像とは真逆の表情をしていた。
「...それほど僕の事好きだった、って話ですよね?」
彼は私の後頭部に手を添えて問答無用といった勢いで私にキスをした。
それを拒もうと彼の胸を押したけれど彼は全くその手を弱める気配はない。
何度も角度を変えて唇を擦り付けるように。
1分以上はそうしていたのではないかと思った頃彼はようやく私を解放した。
もっとも逃げられないよう身体はがっちりと固定されたままだったけれど。
「確かに昨日は桃井さんに会いました。駅前の本屋に向かう途中偶然出会って。
でもその後すぐに別れましたよ、彼女、青峰君と待ち合わせをしていましたので」
彼はそう説明して今度は額にキスをした。
「あと僕貴方と付き合いはじめてからはもう貴方以外の他の女性と2人で会うようなことはしていません。
これは神に誓えます」
だから信じてください、と今度は私の手を取ってそこに唇を寄せた。
まるで王子様のような、こんなことが出来てしまう男子高校生がはたしてどれだけいるのだろうか、なんてくだらないことを考えてしまった。
「どんなことでもいいです。不安なことがあったら話してください。
何も教えてもらえずにただ拒絶されるのは寂しいです。僕は貴方の恋人なのに...」
したいしたいと子供のように駄々を捏ねていた彼の姿はもうなかった。
そこにいるのはただただ優しくて愛情深い私の恋人だった。
「...ごめんなさい、私、嫉妬深くて...」
「いえ、いいんですよ。僕も貴方が僕以外の男と仲良くしているところなんて見たら、...今ちょっと想像しただけでめちゃくちゃイラッとしました」
彼はそう言って眉間に皺を寄せた。
私はそんな彼を見てつい笑ってしまった。
怒られるかもしれないと慌てて顔を引き締めたけれど彼が私を見つめる目は優しいものだった。
「もしどうしても女性と2人で、なんて事がありましたらきちんと事情を説明しますから。
だからこれからは不安があればなんでも話してください、約束です」
彼はそう言って小指を差し出した。
指切りなんていつぶりだろうと思いながらも私は彼の小指に自身の小指を絡ませた。
「勿論名前さんもですからね。
僕の方がよっぽど嫉妬深いんですから、ちゃんと僕が納得できるよう説明してくださいね?」
「...うん、わかった」
そう了承して彼の身体に抱き付いた。
彼は優しく頭を撫でてくれた。
どうなることかと不安になりもしたけれど話してよかったと思えたので結果オーライということでいいだろう。
「...今日貴方の事を不安にさせてしまったことにたいする自戒として我慢することにしました」
彼は寂しそうな顔でそう言った。
そんな彼に今となってはもう罪悪感の気持ちしかなくなっていた。
「その、...ごめんなさい、もうちゃんと気持ちの整理がついたから、だから、我慢しなくて...いいよ?」
だから彼にそう伝えたけれど彼はなんとも言えない表情を見せた。
「いえ、その...正直今貴方を抱くと色々抑えられそうになくて...貴方が可愛すぎて...」
色々ヤバいんです、彼はそう言って私から顔を背けてしまった。
やはり彼は優しい、こんなに優しい人にどうして私はつまらない意地を張ってしまったのだろうと後悔の念を抱いた。
「...抑えなくても、いいから、ね?
私も本当は...テツヤ君といちゃいちゃしたい、よ...」
「...そんな事を言って、どれだけ僕を煽るんですか、貴方は。
...本当に、始めたら途中でやっぱり無しってなっても絶対やめませんからね?」
そう言って再び私を見た彼の目はもう完全に男の人の顔をしていて。
私はそんな彼の熱のこもった視線から逃げ出すことなんて出来ずにただただ彼の腕の中で噛み締めた。
彼にとって特別な女の子になれたのだというその事実を。
end