私は知らなかった。
大切なことはなにひとつ。
彼が部活をやめたということは知っていた。
それは誰に聞いたわけでもない。
物語の中に存在するキャラクターとして、知っていたからだ。
学校自体殆ど行かなくなっていただなんて、私は何も知らずに、なんて能天気に生きてきたのだろう。
ああ、どうして私は彼と同じ学校を選ばなかったのだろうか、と。
いくら後悔したところで時間は巻き戻らない。
同じ学校に通っていたからといって私に何か出来ていたかなんて分からない。
それでも。
「...テツヤ君。喋らなくていいから、入ってほしくなければ壁を叩いて。10秒待つから」
彼の部屋の扉に向かって声を掛ける。
一目でもいいから顔が見たい、そう願って目を閉じ扉に額をつけた。
ゆっくりと心の中で10数える。
こんなに10秒間が長く感じたのは生まれて初めてだった。
騒がしく鼓動を刻む心臓の音に心を乱されながらなんとか数え終える事が出来た、それだけで私はその場にへたりこみそうになった。
「...あけ、るね...」
念の為もう一度声をかけてからゆっくりとドアを開いた。
彼は感情のない目で私を見た。
彼にこんな視線を向けられたことは初めてだった。
その視線に心が抉れてしまいそうになった事を必死で隠して彼に近付き隣に座った。
彼は一言も話さない。
静まりかえった部屋で2人きり。
一瞬躊躇しつつもはらい除けられてしまうかもしれないと覚悟してだらりと投げ出された彼の手に触れる。
拒絶されることはなかったけれどいつものように握り返してくれることも無かった。
それでも私ははっきりと拒絶されなかったことに安心して泣きそうになった。
今の彼に私がかけられる言葉なんて何もない。
ただただ流れていく静寂の時間。
それが揺らいだのは彼が私の肩にもたれかかった時だった。
それでも彼が何かを話をしようとする素振りはない、勿論それは私も同じ。
そんな中、再び訪れた長い静寂。
それを破ったのは彼の方だった。
いったん私から距離を取った彼は私の腕を掴み乱暴に肩を押し、私を床に押し倒した。
こんな風に乱暴に触れられたのは初めてだった。
私がそれを理解する前に彼は私に覆い被さり私の顔に自身の顔を近づけた。
唇が触れ合うまであと数センチ、というところで彼はぴたりと動きを止める。
誰も入ることが許されないような距離で感情のない目が私を見下ろした。
「...どうして、...だめだよって、言ってくれないんですか。...このままじゃ僕、何をするかわかりませんよ」
彼が絞り出すように発した声には抑揚も感情もない、まるで人形のよう。
そんな人形のような顔をした彼の手が私の太ももに触れる。
「...だめじゃない、からかな」
その恐ろしさに背けたくなった。
それは彼がしようとしていることにではない。
こんなに近くにいるのに私なんて見えていない、その目が怖かった。
「テツヤ君にだったら、何をされたって...後悔しない、よ...」
彼の目が一瞬揺らいだ。
傷付いたようなその目、それでもやっと見られた彼の感情の入った目に私は内心安堵してしまう。
彼は人形なんかじゃないというそんな当たり前のことに。
彼は何も言わずに私の胸に顔を埋めた。
泣いているのだろうか、それは私からは見えない。
「...もう、もう来ないで、ください...」
彼から絞り出された言葉は私を拒絶する言葉だった。
私はそれを聞き静かに涙を流した。
初めての拒絶、それは想像していよりずっと痛くて苦しくて。
私の上から退いた彼はベッドに上がり頭まで布団で覆ってしまった。
まるで子供が拗ねているように。
私の顔なんて見たいない、彼にそう思われてしまった。
彼がもうなにもかもどうでもよくなってしまったという気持ちが伝わってきた。
いつか来る決別がずっと怖くて仕方なくて。
だからこそ覚悟していた筈なのに。
私は内心信じていたのだ。
彼が私だけは、なんて甘い考えを期待していたのだ。
「......ずっと、ずっとテツヤ君のこと」
痛い、苦しい、寂しい、怖い
「初めて、初めて会ったあの日から」
私のなかの思い出なんて全部消えればいいのに
なにも知らずに、ただ純粋に、普通の子供として生まれて貴方を好きになって
(これからもきっと、ずっと)
ずっと私を好きでいてくれた貴方の想いに見ないふりをして、気付かないふりをして
(嫌だよ、離れたくなんてない)
私は彼を尊敬していると言いながら対等な人間としてすら見られていなかった
(大好きだよ、世界で一番、貴方がいれば何もいらないってくらいに)
そんな私に彼に縋って泣く権利なんてない
「......ありが、と、う...」
やっと認めた私の初恋はその日シャボン玉のように簡単に壊れて消えた。
その日味わった苦味をきっと私は一生忘れない。
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