夕陽の色

あそこはいつだって波の音が聴こえていた。
お前はそんなあの場所が好きだった。

「せっかくこんなに近くに海があるのに、遊ばないなんてあり得ない」

そう言って俺の手を引いて浜辺に駆けた事は何度あっただろうか。
いつだって突然で、俺はまたかと思いながらも抗う事なくそれに付き合った。
暑い暑い夏の日、名前は制服だというのに構わず駆け出した。
そしてブーツを脱ぎ捨てそのままバシャバシャと波音を立てながら海へと入っていった。
生き返る、なんて。
夏の暑さも忘れるような笑顔で此方を見て俺の名前を呼んだ。
名前の制服と違い俺は足が露出していない。
どうしようか、少し悩みながらも早く来いと言わんばかりに何度も俺の名を呼ぶ名前に考えることがめんどくさくなって俺も同様に靴と靴下だけ脱いで水辺へと駆け出した。

名前は俺に勢いよく抱きついた。
俺は足場の悪いそこでバランスを崩して名前諸共ひっくり返ってしまった。

当然2人して全身水浸しになった。
呆れる程間抜けな姿、俺達は顔を見合わせて笑った。

少しして呆れた顔で明日香がタオルを持ってきてくれた。
俺達はある程度身体を拭いて名前は明日香に背中を押され風呂へと連行されていった。
それを見送った後俺も寮に帰り風呂に入った。
洗濯機で回っている制服は明日までに乾くだろうかと考えた。
これだけ暑い、まず心配ないだろうとすぐに思い至った。

あの夏の暑さはきっと忘れない。
忘れられない。
季節は巡って寒くて仕方ない冬が来たって俺はあの夏が忘れられない。
当たり前に続くと思っていた日常。
それは思い出なんかじゃない。
今でもそれを思い出と呼びたくない。
呼べない。

「なぁ、あんなに好きだったのにどうして俺を誘いに来ない。
どうして俺の手を引かない」

いつだって俺はお前の誘いを断らなかった。
いつだってお前は一目散に俺を誘いにきたのに。

「俺の手はいつだって開けているのに。
この手に荷物なんて持っていないのに」

俺が抱えて飛び出したものはバッグ一つ分。
それ意外は全て置いてきたというのに。
今の俺なら名前一人くらいちゃんと抱き留めてやれるのに。

もう名前を水浸しになんてしたりしないのに。

雨が降ったら傘が無かったとしても俺の上着を貸してやる。
雪が降ったら体温を分けてやる。
桜が咲いたら何度でも花見に付き合ってやる。

だから、なぁ。

「お前に言っておけば良かった、ちゃんと...」

あの時はまだ自覚すらしていなかった感情を。
分からないなりに、それでも言葉に出来ていたなら。
何か変わっていたのだろうか。

後悔なんて柄じゃ無い。
きっとそんなの俺じゃ無いって誰かは言うだろう。
あの日に帰りたくて、それでも思い出すのが嫌で気付けば海が見えない土地にいた。
それでも夕陽で真っ赤に染まった空を見て思い出すのだ。

あの夕陽を映した海を。

思い出したくない、それを思い出と言いたくない。
今でも笑って俺の手を引いて、それは過去の事なんかにしたくはなくて、認めたくない。

目を閉じれば瞼には鮮明に浮かぶあの夏の日。
それがただの思い出であればこんなに明確に映し出される筈がない。
これはきっと過去の事ではない筈だ。

「...会いたい」

ただそれだけ、だがもうその願いはあまりにも贅沢な望みで。

「なぁ、名前。
俺自分がこんな奴だったなんて、きっと名前がいなけりゃ気付かなかったと思う」

季節が巡るように俺はこれからも旅を続ける。
俺は大抵のところに行ける。
けれど今俺が一番行きたい場所にはけして行けない。
どこにも行けなくてもそこに行ければそれだけでいいのに。

あの暑い夏の日に帰れたら。

叶わぬ願いを捨てられずに俺はこれからも旅を続ける。

あの日を思い出に変えられるその日を願って。