「裏切り者」
彼は元々力強い眼をしていた。
しっかりと自分を持った、確かな意志が篭った。
「貴方に言われたくない」
鋭くて冷たくて、そんな眼をした彼を私は知らない。
「俺がいなけりゃ生きていけないなんて言ってたくせに」
十代の声に感情は無かった。
それが逆に恐ろしくて背筋が凍りついていく。
凍えるような寒さを感じているというのに背中に汗が伝った。
背中の次は額から、手のひら、太腿とそれは嘘のようにだらだらと。
「お前は小心者だからこそ俺がいなくなったからって死ぬことなんて出来ねぇんだ」
私の首に十代の手が触れた。
抑えつけられたわけでもない、強く握られたわけでもない。
寧ろその手はとても優しく触れられた。
「なぁ、お前はどうされたい?」
先程から私に向けられている言葉はけして優しいものではない。
それでも乱暴な事はされていない。
ただ彼の手がそこに触れている、それだけなのに私は息苦しくて堪らない。
断じて締め付けられてなどいないのに、当たり前におこなっていた息の仕方が思い出せない。
「なぁ、名前」
見えない何かが私の首に巻きついている、そうでなければ説明が付かない。
この世に生まれ落ちた瞬間から当たり前のように行っていた、そんな簡単な事がどうして。
苦しい、怖い、助けて。
辛くて堪らなくて救いを求めて彼の眼を見た。
瞳に涙が溜まって彼が今どんな顔をしているのか分からない。
寧ろどんな顔をしているか、それを知るのが怖くて私は瞬きをすることをグッと我慢した。
溜まった涙が溢れ落ちてしまえばきっとそれを知ってしまうから。
涙を流したところでもう私の前にあの頃の彼はいない。
それを理解するのが怖かった。
「なぁ、俺は...」
私の首元から彼の手が離れた。
するとすぐに私の肺に酸素が送り込まれた。
勢いよく吸い込んだそれに私は堪らず地面に膝をついてむせ込んだ。
地面に手をついて、大量にかいた汗が額から滴り落ちて地面にシミを作った。
視界の隅には十代の靴、彼は依然私の前に立っている。
「ごめんな」
頭上から掛けられた謝罪の言葉。
優しい優しい声色。
私にだけ、私の為だけに注がれるその優しい声。
今すぐ彼の眼を見て大丈夫だよ、そう言いたいと望んでいるのに私は顔を上げる事が出来ない。
「俺はさ、ガキだった...いや、やっぱり今もなんだろうな」
十代はその場にしゃがんで私の頭に手を乗せた。
「大人になるって、多分さ...いや、俺名前ならきっとどんな俺も受け入れてくれるって、どこかで期待してたんだと思う」
淡々と紡がれる言葉、どこか物悲しさを感じるようなその。
「ほんとは俺の方がずっと名前に甘えてたんだ、多分、今の今まで、さ...」
十代の言葉が途切れた後、私の頭に触れていた手が離れた。
私はそこでやっと顔を上げる事が出来た。
視界に映った彼はやはり以前の十代とは違っていて、でもそれは先程の十代とも違う。
寧ろ以前よりもずっと幼く見えた。
「大事にしたかった、それは嘘じゃないから」
そう言った彼の顔がほんの少し歪んだ。
なぜそうなったのか、私はすぐに察してしまう。
「受け入れてほしいって望みながらもほんとは無理なんだろうなって気付いてたんだ」
どうして、どうして私は。
「変わらなきゃいけないって、名前はきっとそれを望んでないって、でもそれを分かった上でも俺は名前だけを選ぶ事が出来なかった」
ヒーローだった、私だけではなく、皆の英雄。
英雄にはヒロインが付き物だ。
それでも、そうだとしても、だからこそ。
英雄は私だけを守る為の存在になり得なかった。
「我儘でごめん、俺もう名前だけを愛してやる事は出来ない。
...裏切り者、なんて俺が言えた事じゃないよな」
私は結局の所嫉妬したのだ。
彼が目に見えて変わった事、その結果にではなくその要因。
どんなに近くたってどんなに心を寄せ合ったって
どんなに身体を繋げたって。
私は彼女のようにはなり得ないのだから。
世界の危機だったというのに、あんなに沢山傷付いた十代を、仲間達を知っていたというのに。
私は彼を想って恋焦がれていた。
彼の魂の一部となった彼女にただ嫉妬していた。
「ごめんな、...今までありがとう」
私の大好きな人は私の知らない顔で笑う。
私は今どんな顔をしているのだろうか。
大好きな人が私にさよならの言葉を口にした。
私に背を向けて私から去っていく。
心がざわめいている。
このままで良いのかと叫んでいる。
それでも私は立ち上がることが出来ない。
それは決まっていた結末だったのかもしれない。
一人で立てない私はきっと彼に相応しくなかったのだ。
そう気付いてしまった、それが悔しくて私は地面に額を付けて丸まった。
今の私は人から見ればどれほど惨めな姿だろうか。
それが分かっていながらも私は身体を起こす事が出来なかった。
現状を作り出したのは今の私だ。
弱くて、我儘で、傲慢な。
癇癪を起こして大切なものを傷付けた。
これは私が手放したもの。
私は大人になれなかった。
私が全部受け入れていれば、彼は私を望んでくれたのに。
「...ごめんっ、な、さいっ...」
きっともう面と向かって彼に謝ることなんて出来ない。
卑怯な私は彼に聞こえる筈がないこの場所でやっと謝罪の言葉を口にしたのだ。
こんな私がまた彼に愛されたいだなんて、こんな私だけを彼が選んだくれる筈がなかったのだ。
もうどれだけ貴方を愛していたかなんて、それを口にする資格が私には無い。
身の丈に合わない恋をした。
世の大人達から見れば私の今の感情されもいつか良い思い出になる、なんて。
きっとその程度の反応をされてしまうだろう。
ずっと子供のままでいたい、何も変わらずに、ずっと大好きな人と。
私は大好きな学園に、十代と出会い過ごしたこの場所に、まるで地縛霊のようにへばりついて離れたくないと足掻いているのだ。
そうしていればいつか大好きな人が助けにきてくれる、なんて。
英雄を待っている人は沢山いる。
ヒロインになり得なかった、それを放棄した私は舞台から降りたのだ。
英雄に私の姿はもう見えない。
私はもう地べたに転がる石ころ同然だ。
「...じゅ、うだいっ......ありが、とう...」
貴方の前ではきっともう言えないごめんなさいとありがとうを
自己満足でしかないけれど
私は世界でただ一人、貴方を愛していました
同じことを望んだ私はどこまでも幼稚で傲慢でした
大好きです、さようなら
二度と貴方の前に現れない、そう誓います。
これが私に出来る貴方への最上の愛の証です。
『随分物分かりが言いじゃないか。
あれで良かったのかい?』
相変わらずうるさい奴だと小さく溜息を付けばムッとした顔でこちらを睨み付けてきた。
「俺の考えてることなんて分かってるくせに、わざわざ聞く必要なんてないだろ」
『分かってるからこそ呆れているんだよ。
君ってどうしてそう意地悪くなったんだい?』
ユベルの影響も間違いなく受けているだろうという言葉を飲み込んで今度はハァ、とわざとらしく溜息をついてやった。
もっとも言わずとも思考は伝わっている筈だ、俺たちは同じ存在なのだから。
「これであいつの中から俺は一生消えない。
心臓に植え付けた、名前は一生ただ息をしているだけで俺の事を思い出す」
先程見た呼吸も出来ぬ程苦しんだ名前の顔を思い浮かべれば自然と口角が上がった。
『ボクにあんな役をさせて、この借りはいつか倍にして返してもらうからね』
「へぇへぇ」
あの時名前の首を絞めていたのがユベルだと知ったら名前はどんな顔をするだろうか。
ユベルはこうして悪態をつきながらも妙に素直だった。
それは俺とこうして融合したからなのだろうか。
だとしたら都合が良い。
『今の君の顔を見れば彼女も百年の恋から覚めるかもね』
「ははっ」
そんな事あり得ない、分かっているくせに。
雁字搦めになった系はけして外れない。
名前は死ぬまで俺から離れる事なんて出来やしない