季節の変わり目、と表現するにはまだ早い。
今年の夏は猛暑続きだった。
今この瞬間も、残暑はいつまで続くのだろうか。
心地良い季節というものは気付いた時には背を向けていて、きっとこの暑さの和らぎを身を持って実感する頃には時期に通り過ぎてしまい今度は冬の冷たい冷気に震えるのだろう。
4つにわけられた季節を均等に楽しめた事はきっとない。
心地良い思い出よりも辛い時間の方が強く心に残るということだからだろうか。
だとしたら溶けるような暑さや凍るような寒さが好きな人がいたならば、それは彼らにとって夏も冬も僅かなひと時なのかもしれない。
子供の頃は夏が好きだった。
まとまった宿題は出たものの自由に過ごせる時間は普段よりずっと多くて。
普段より早く起きてラジオ体操に参加しなければいけない事は少し辛かった。
それでもあの夏の頃、それは今よりずっと長く感じられて。
「大人になると時が経つ時間が早く感じるって本当だったのね」
お茶の入ったグラスに浮かぶ氷がカランと音を立てた。
それはぽつりと呟いた独り言に返事をしたようだった。
冷えたグラスから水滴が滴って、それは珪藻土のコースターに溢れ落ちるとすぐに消えていく。
まるで海岸の砂のよう。
子供とも大人とも呼べない曖昧なあの頃、毎日のように聴いていた波の音。
私は日に焼けるのも海水に触れるのもあまり好きでは無かったからあまり海では遊んでいない。
それでも押しては引く波の音は好きだった。
一番暑い季節、学園は長期休み。
当然殆どの生徒が島から出ていった。
一部残っていた生徒もいたがそれでもお盆の頃には皆帰省していた。
一人を除いて。
「帰ってきたらまたデュエルしようぜ!」
たった一人、島に残る彼はいつもと変わらぬ笑顔で私を見送るのだ。
入学後すぐに彼と仲良くなった私は一年の長期休みの時十代が帰らないのであれば私も島に残ると言った。
だがそれは当の本人に止められてしまった。
「お袋さん達名前が帰ってくるの楽しみにしてるだろ」
帰ってやれよ、と。
未だ無邪気な少年のような彼の大人びた言葉に私は反論の言葉を失った。
十代だって同じでしょう、と喉元まで出かけた言葉はどこかに消えた。
随分仲良くなったと思う、それでも私は出会ってからの彼しか知らないのだとその時気が付いたのだ。
船が出発した。
私はその船の甲板でどんどん小さくなっていく島をずっと見ていた。
やがて完全に見えなくなった頃先程まで同じように外を眺めていた数人の生徒はもう私の視界には居なくなっていた。
「寂しいよ、十代」
少しの切なさを抱いた夏となった。
「お前、今の船で帰ったんじゃなかったのか?」
2年目の夏、私は家に帰らなかった。
その年も彼は当然のように島に残っていた。
春も冬も彼が家に帰ることは無かった。
彼は丸2年ここにいるのだ。
もっとも一時期十代自らの意思でここからいなくなってしまったことはあったけれど。
「そんなに私が居たら不満?」
「そんなこと言ってねぇだろ」
意地の悪い言い方をした。
十代は困ったように頭を掻きながらそれを否定した。
波止場に腰を掛ければ十代も同じように隣に座った。
隣に彼がいるからだらうか。
今日の波の音は少しも寂しくない。
ほんの少しの間真面目な顔で何かを考えていたようだがすぐに普段の表情に戻って私に笑いかけた。
「今年はいっぱいデュエル出来るな」
あいも変わらずこれだ。
自他共に認めるデュエルバカ。
真っ直ぐで眩しくて、私はそんな彼が大好きだった。
「取り敢えず先に腹ごしらえの準備が必要ね」
私は海を指差した。
最低限の食糧はある、だがレッド寮の食事で成長期の私たちが満足出来る筈がないのだ。
「そうだな、じゃあ釣りでもすっか」
私の提案に十代は首を縦に振り立ち上がる。
目的は一つ、レッド寮にある釣り竿を取りに行くのだ。
「アジでも釣れるといいけれど」
「タコとか狙ってみるのも面白れぇんじゃね?」
「...もし釣れたら十代が捌いてよね」
生きたタコなんてどう処理したらいいのか全く検討が付かない。
だからこそ簡単に食べられるアジやイワシがベストなのだ。
でも彼がそれを望んでしまった。
きっと今日彼はタコを引き当てるのだろう。
そしてお決まりのように墨を掛けられて真っ黒な顔になる、切なさとは無縁の夏だった。
なのにどこか落ち着かないこの感情は一体なにから来るものなのだろう。
「こんな時だけ勝手なんだから」
彼と出会って3度目の夏、ここを出ればもうこの島に帰る事はない夏。
別れの時。
「 名前、なんで気付いたんだ?」
「もうそれなりの付き合いだからね」
本当は皆気付いている、それでも彼らは敢えてここに来なかった。
そんな彼らの気持ちを尊重して私はそれを言葉にはしなかった。
ただ一人ここに来た私は彼らより子供なのかもしれない。
十代の気持ちよりも私の気持ちを優先した。
「見送りに来てくれたのか?」
「んー、引き止めに来たって言ったらどうする?」
あの頃みたいな困った表情。
そんな顔をしてほしいわけでは無かったのだけれど。
でも分かっていて言った分やはり私は意地が悪い。
「...行くな、って言われても俺は聞いてやれない、ごめんな」
十代は私の頭を優しく撫でた。
彼に頭を撫でられた事は初めてではない。
だがこんなに優しく撫でられた事は初めてだ。
「やりたい事が見つかったんだ」
だから俺は行く、と。
強い目をして希望に満ちた顔で十代は笑う。
入学当初デュエルキングを目指すと言っていた彼とは全く違う、彼にしか歩けない道を彼は見つけたのだ。
そんな彼があまりにも眩しくて目頭が熱くなった。
「会いにいく」
「...え?」
瞬きをすれば溢れてしまいそうな涙を瞳に溜めた私に彼はそう言った。
「ちゃんと会いにいくから」
待っていてくれ、そう言って彼は私の唇に自身の唇を優しく押し当てた。
それに驚いて瞬きをしてしまった私の目から涙が頬を伝った。
「...なんか俺が無理やりしたみたいになっちまったな」
私の濡れた頬を親指に拭いながら彼はそう言って笑う。
呆気に取られた私はポカンと口を開ける。
そんな私を見て十代は苦笑いだ。
「ユベルに許可無くしたのだから無理矢理も同然だろって言われちまった」
現状が理解出来ていない私。
それでも唇に残るはっきりとした記憶。
人差し指でそこに触れれば先程の感触が蘇る。
「...嫌だったか?」
未だ脳みその処理が追いつかず呆然としている私に十代はそう訊ねた。
私はようやく平常心を取り戻しぶんぶんと首を横に振った。
「ん、ならいい」
そんな私に向けられた眩しい笑顔。
懐かしいような初めて見るような、太陽の下で燦々と咲き誇る向日葵のような。
「じゃあ、行ってくる、名前!」
彼は明るい表情で私に手を振った。
告げられたのはさよならの言葉ではない。
私の元に帰ると、そんな風に聞こえる行ってきます。
船はどんどん沖に出て、やがて彼は見えなくなった。
2年前とは真逆だった。
寂しい気持ちがないとは言えない。
でもそこに切なさは無かった。
夜の風が心地良い。
「いってらっしゃい、十代」
彼の笑顔には敵わないけれど、私は精一杯笑った。
もう誰も私の事なんて見ていないというのに。
それでも私は笑いたかった。
「まさか一年なんの音沙汰も無しとは思わなかった」
「悪いって。ほら、海外からじゃ電話代もえげつなくてさぁ」
卒業式から丁度一年が経った頃アレ以降音信不通だった十代が私の家を訊ねた。
ああは言ったが最初は十代はどうしているだろうかと連絡を待っていた時期もあった。
しかしやがて気付いたのだ。
彼がマメに手紙や電話なんて寄越す筈がないのだと。
「...というかどうやって私の家を見つけたの?」
別れ際私の住所など教えてはいない。
在学中一度も帰省していない十代を私の家に招待することなんて勿論無かった。
「鮫島校長に聞いたんだ」
「...個人情報の取り扱いどうなっているのよ」
あの学校はなんというかまぁ、うん、今思えば本当に色々と問題だらけだったと思う。
今のご時世卒業生の住所をなんの確認も取らずに教えてしまうだなんて下手をすれば訴えられてしまうような行為だ。
...まぁ別に相手が十代だったのだから良いのだけれど。
「まぁいいや、取り敢えず荷物貸して、それ置いて買い出し行こ。」
十代は素直に荷物を私に差し出したのでそれを受け取った。
若干変な匂いがする。
帰ってきたら鞄ごと丸洗い決定だな、と考えた。
「俺食いたいものがあるんだけど」
ちっとも変わらない顔で十代は笑う。
「分かってる、今日は特別大きいの買ってあげる。給料出たばっかだしね」
あの頃は月に一度しか食べられなかった彼の好物。
私が作ったものがあの頃食べたものより美味しければ良いのだけれど。
財布だけ入った鞄を持って靴を履き十代の隣に並ぶ。
お互いの顔を見れば自然と笑顔になった。
「誕生日おめでとう」
「おう、ありがとうな!」
暦の上ではもう秋になる。
それでも外に出ればまだ蝉が鳴いていた。
誰に聞いたってきっと夏だと答える気温。
いつも感じていた寂しさも切なさも今は感じられない。
彼と、十代と出会って4度目の夏。
子供の頃より今の方がずっと夏を好きになった。