春の終わり、教室に窓の外から柔らかな光が差し込む心地よい季節。
今日はもうこの授業が最後の授業。
教室の空気は既に少し気の緩んだ、もうすぐ帰れるという解放感に包まれていた。
私自身も例外ではない、授業なんて殆ど聞けていなかった。
前の席に座る彼の背中をじっと見つめることしか出来ていなかったのだから。
黒子テツヤ君。
どちらかといえば物静かで目立たないタイプの男の子。でも私は知っていた。
彼がふとした瞬間に見せる柔らかい表情や誰かのために迷いなく手を差し伸べられる優しい姿。
バスケをしている時は別人みたいに男らしくなって、人を魅了するような。
彼は淡い光のように私の心をに火を灯してくれた。
いつからこんな風に惹かれていたのだろう。
分からない、ただ気付いた時にはもう彼を目で追うようになっていて、目が合ったら嬉しくて、名前を呼ばれたら一日が特別なものに感じるくらい、彼に夢中になっていた。
彼とはそれなりに話をするようになった、でもそれを、彼に向ける好意を言葉にする勇気なんてなかった。
彼にとって私はただのクラスメイトでしかないかもしれない。
来年になればクラスが分かれてもうわざわざ声をかけてもらえることも無くなるかもしれない。
同じクラスになれたとしても卒業を機に自然と縁が切れてしまう程度の関係なのかもしれない。
そこまで考えて私は胸が苦しくなった。
多分少しおかしなテンションになっていたのだと思う。
きっとこの春の暖かさが私を狂わせたのだと思う。
そしてその誘惑に抗えず、私は真面目にノートを取っている彼の背中に手を伸ばす。
人差し指で彼の背中に触れると一瞬ぴくりと彼の身体が跳ねた。
伝えたかった。
彼がすきだと、たった2文字を彼の背中に記した。
簡単なひらがな、ほんの数秒でで書けるその文字を素早く。
そして書き終えて、私の指が彼の背から離れるとほんの数秒開けて静かにこちらを振り返った。
けれど私はそんな彼と目を合わせられなかった。慌てて教科書に目を落として何事もなく授業に集中していたふりをした。そんなの全然意味は無いけれど。だって私の席で無ければ彼の背に文字なんて書けないのだから。
書いた文字は伝わったのだろうか。伝わらなかった可能性だって高い。
でもそれでいい。
これは私の気の迷いみたいなものだから。
面と向かって告白をしないのは自信が無いからだ。
きっと報われない、それでも伝えたいという欲に抗えなかった、ただそれだけ。
授業終了のチャイムが鳴った。
この後少しして終わりのホームルームがあるけれど、私は今日はサボるって決めている。
堂々と宣言するようなことではないけれど。
教室内に椅子が床にこすれる音と生徒たちが思い思いに話す声で少しざわついた。
私はそのざわつきに乗じ、急いで鞄を手に取り立ち上がり、教室のドアに向かって歩き出す。
走らないように、冷静を装って。
一歩、二歩、三歩、ドアを開けて廊下に出てこれで逃げられる、そう安堵したその時。
「...待ってください」
その声と同時に私の手首を掴まれた。
反射的に振り返りそうになるけど出来なかった。
だってその声が誰かなんて確認するまでもなく分かっているから。
俯いた私の目に映るものは廊下の床と自分の靴。
胸の鼓動がうるさいほどに響いて息が詰まりそうだった。
そんな中、先に口を開いたのは彼だった。
「...僕もです」
その一言がだけ、その一言が私の頭の中でやけに大きく響いた。
ゆっくりと、恐る恐る後ろを振り返ると彼と目が合った。
静かな表情で、でも少しだけ照れたような笑みを浮かべて。
「...よかった。当たってたんですね」
「...え?」
彼はふっ、と笑った。
その笑みにどきりと大きく心臓が鳴った。
「すみません、触れられたことに少し驚いてしまって、最初の一文字目は分からなかったんです。でも...二文字目でなんとなく、もしかしたらって想像して...鎌をかけました」
もしかしてさっきの言葉は揶揄いの言葉だったのだろうか、と。
私と同じ気持ちなんかじゃなかったんじゃないかって。
そんな考えが頭をよぎって私の顔に一気に熱が集まった。
「...くろ...こ、くん...?」
なんとか搾り出した声はただ彼の名を呼ぶことしか出来なくて。
そんな私に彼は柔らかく笑って言葉を紡ぐ。
「でもさっきのは本当ですよ、本当の僕の気持ちです。...でも、できれば名字さんの口から直接聞きたいです」
伝わらなくてもいい、きっと伝わらない、なんて考えていたからこそ出来た事だった。
でももうこうなってしまえばもう逃げ道なんてなかった。いや、逃げたくなんてなかった。
目を逸らさず、まっすぐに彼を見て。
「...すき」
さっきと同じ、たった二文字。心の中では何百回も繰り返していた言葉。
でも声に出したのは初めてのことで。凄く怖かった、でも彼は変わらず優しく微笑んだまま。優しい光みたいな、そんな笑顔。
「はい。...僕も名字さんのことが好きです」
その声を聞いた瞬間世界が光に包まれた気がした。暖かくて、私には少し眩しすぎるくらいに。
「...ホームルーム、始まりますよ。ちゃんと出席してから帰りましょう、ね?」
「...うん、そう、だね...」
彼に手を引かれ再び教室に戻ることになった。
もう今日はサボる筈だったのに。
すぐに担任の先生も教室に入ってきた。
自然と皆席に着いた。それは私達も同じこと。
彼の手が私から離れて、それがほんの少し寂しくて。
彼はそれに気付いたようで振り返って声には出さずに口を動かした。
また後でと、そう言ってくれた気がする。
end