01
 相馬に行きましょうと言われ、ふらふらと立ち上がる。覚束ない足取りの俺を心配したのか、相馬が俺の手を取った。

「こちらです」

 迷いの無い声が、俺を誘導する。相馬に手を引かれ、ぼんやりとしたまま屯所を抜け出た。川を渡ったのだけは覚えているが、もうどこをどう歩いてきたのか分からない。いつの間にか俺達は、人家の殆ど無い場所を歩いていた。

「もう直ぐ着きます。庭に桜の木が沢山生えている家なので、春はとても綺麗ですよ」

 相馬が気を遣って話し掛けてくるが、俺は生返事をするだけだ。
 それからまた少し歩き、着きましたと言われて見上げた場所には確かに木が連なっていたけれど、まだ寒いこの時期ではただの裸の木ばかりで、それが桜かどうかは分からなかった。

「中に入りましょう、手入れはそれなりにしてあるみたいですから」

 そう言われて大人しく相馬の後に続く。戸を開くと、外よりも真っ暗な闇がぽかりと口を開いていた。飲み込まれてしまいそうだ。ぞわりと恐怖が湧き上がる。
 だが相馬は気にした風も無く、平然と足を踏み入れた。

 進んで行くと、相馬の持つ提灯の火が弱まり、闇が濃くなった気がする。毎日毎日、俺はたった一人でこんな場所に居なければいけないのか――食事はどうする、風呂は? いやそれよりも兄貴だ。兄貴にどう言えばいい?
 あぁそうじゃない、俺自身は何も言えないじゃないか。だったら誰に、何を伝えてもらえばいいんだ。結局不安ばかりが襲ってくる俺の心中を知ってか知らずか、相馬が静かに振り返り、行燈に火を点けますかと訊いてきた。

「そんなもんがあんのか?」
「えぇ、用意してもらいましたから」
「……誰にだ?」
「この家の管理者です。ちょっと、伝手があったので……」

 そう言って苦笑した相馬は、俺から目を逸らす。
 相馬のその態度にほんの僅かばかりの違和感を感じたが、この時の俺には相馬の事なんてどうでも良かったから、余り気にはしていなかった。
 行燈に火を点けた相馬が、俺に向き直って話し始める。

「明日からのことですが」
「明日から?」
「はい、食事は毎日俺が持って来ます」
「……そうか」

 こんな場所でどうやって食料を調達するのかと思っていたが、そういうことか。

「ただ、俺も何度も屯所を抜ける訳にはいかないと思いますので、毎日夜に来るつもりです」
「昼はどうしろっつーんだ?」
「昼は……」

 相馬は一度口籠り、改めて言葉を続けた。

「昼は、恐らく余り活動出来ないと思います」
「人じゃねぇからか?」

 俺の言葉に、相馬が目を見開く。
 驚いたような、いや、怯えたような目だった。

「違います、組長は人間です! ……ただ、その、薬の作用で、、昼の動きは鈍くなると思います」
「そうかよ」

 どうやら相馬はこの状況を、「薬の所為」にしたいらしい。

「それと、伊東さんへは何か良い言い訳を考えます。だから、いつか絶対会えるようにしますから、諦めないでいて下さい!」

 お願いしますと言って、相馬は俺に頭を下げた。

「お前、俺に何を諦めるなっつってんだ? 人間に戻れる事を諦めるなって言いてぇのか? たった今、お前は俺を人間だって言ったばっかりだよな?」
「そうです、三木組長は人間です! 俺が言いたいのは、伊東さんとまた暮らせるようになるのを諦めないで欲しいってことです。ですから自棄を起こしたり、希望を捨てたりしないで下さい」
「……分かったよ」

 相馬からは、射られそうな程の強い眼差しを向けられる。余りに真剣なこいつの態度に、怒りよりも納得する気持ちが強まって、俺は素直に頷いていた。
 それから幾つか行動に制約を設けられた。その内の一つに「外出を控える」というのがあったが、下手に動いて兄貴にこの状況がばれるのを避けたい俺としては、特に困るような内容でもなかった。恐らく、言われなくとも俺が外に出ることはなかっただろう。やりたいことなんて、何も無いのだから。

 それからは風呂の場所、厠の場所、寝所なんかにも案内された。裏庭には井戸があるらしい。「隠れる為の家」の筈なのに、やけに広い家だ。何故ここには誰も住んでいないのだろうか。

 最後に相馬が寝所に布団を敷き、また明日来ますと言って静かに出て行った。
 敷かれた布団を見ながら、そう言えば今日は寝付けなかったんだったなと思い出す。ついさっきの話なのに、そんなことで悩んでいたのが遥か昔のことのように思える。そしてきっと、今だって眠れないに違いない。

 一旦布団に入ってはみたものの、案の定眠ることなど出来なくて、気付けばとっくに朝になっていた。明るくなった家の中、点けたままでいた行燈の火をやっと消す。全く眠くならない。このまま眠れなかったらどうすれば良いのだろうか。
 人で無くなったこと。それを兄貴に知られてしまうかもしれない恐怖。それに加えて眠れなくなる不安も加わった。何もすることがない、出来ることだってないのに、眠れなかったら俺は何をすれば良い? 相談相手すら居ないというのに……いや、相馬になら話せるのか。
 確か相馬が来るのは夜だったな。なら明るい内に、この家をもっと調べておくか。そう思って、俺は家の中を歩き回った。広さはあるが、何も無い家だった。何も無いから、直ぐに見終わってしまい、最後に庭でも見ておくかと縁側に出た時に、酷い眩暈がした。よろめいて、傍にあった柱にぶつかるようにして寄り掛かる。何とか倒れるのは免れたものの、まともに歩けそうにない。息も苦しい。明るさが怖い。陽の当たる庭を見るのすら辛くて堪らない。

――昼は、恐らく余り活動出来ないと思います。

 相馬の言葉を思い出す。
 言われた時には実感なんて無かったけれど、確かにこれじゃ活動なんて出来ない。気持ちが悪い。横になりたい。なのに寝所に戻る気力が無い。
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